【5】
イェル姫は両開きの扉を勢いよく開け放った。そして、大股に〈窓の間〉へと入っていった。
いつの日かと同じように、甘い香りが誘うように当たりに立ち篭めている。
イェル姫は己の剣を、窓へと打ちつけた。
コーーーーーン!
いつかと同じように音が響き渡る。しかし、それを咎め諌める者は、もう誰もいない。
四方からひしひしと迫り来る孤独と死の気配に怯え、やがては啜り泣きながら、イェル姫は窓を叩き続けた。
どのくらい叩き続けただろうか。
剣は既に折れて柄だけになり、手も指も肉刺や切り傷で血まみれになっていたが、それでもイェル姫は窓を叩き続けていた。
〈白の城塞〉を支配しはじめた死と孤独から逃れるために。
二人の命を背負って、外へと出て行くために。
白の城塞はしんしんと冷えていくようだ。このままここに居たら、凍え死んでしまう。
この、暖かい窓から、早く外に出なくては。
どのくらい叩き続けていただろうか。
手応えが突然軽くなった。窓に罅が走り、外へとへこみ始めたのだ。
イェル姫は狂ったように、罅の上へ剣の柄を打ちつけた。
何度目かで、腕が窓の外へと突き抜けた。華々しい音がして、ガラスの破片が外で砕ける。手や服が切れるのも構わず、そのまま割れ目にかじりつくようにして、イェル姫は罅を広げた。
頭程の大きさに窓が割れ落ちた途端、外の光がどっと流れ込んできて、姫は目を灼かれた。
「あっ!」
眩しい。瞼がちりちりと痛い。涙が流れ、とても目を開けていられない。
しかし、甘い香りが噎せるほどに押し寄せてくる。
床は、足が痺れるほど冷えていた。しかし、窓だけは暖かい。
手探りで、指先に伝わる窓の温かさだけを頼りに、すでに切り傷だらけの手で割れ目を広げていく。剣の柄は少し前に落としてしまい、灼かれ盲いた目では見付けられなかった。
外へ。
暖かい方へ。
頭の中は、もうその事しか考えてなかった。
ビアンカの事も、ガルドの事も、遠くなっていた。
外へ!
ただ、それを遂げることだけが、己の存在の証であるかのように。
手探りだけで広げた穴に、ドレスが裂けるのも厭わず己の身体をねじ込む。入らなければ、もう一度割れ目を広げる。
顔に、腕に伝わる暖かさが、さらにイェル姫を駆り立てる。
イェル姫は穴をくぐろうと、駄々をこねる子供のようにもがいた。肘を使い、膝を使い、顎を使い、全身を使って暴れた。邪魔をするガラスには肘を、膝を打ち付け、これを粉々に砕いた。
どのくらいもがいていただろうか。
その細くてか弱い身体は、ついに窓の外へと押し出された。
全身を光が、肌を焼くほどの強い光がつつむ。
窓の向こう側へどさりと落ちたが、苦痛は何も感じなかった。ただ、達成感だけが残っていた。
やったわ、わたし……。
どのくらい経ったのか。
とても、暖かかった。今まで自分を支配していた哀しみ、痛み、寒さ、そういった負の感情はどこかへと飛んでいってしまった。
ひどく疲れたので、手も足も動かない。目も灼かれてから、一度も開けられないままだ。
でも、幸せだった。ここが〈外〉なのだ。
さまざまな音が聞こえ、さまざまな匂いがし、さまざまな色彩が瞼のむこうで乱舞している。
限りない幸せ、温もりと優しさを全身に感じながら、必死に思い出し、己を理解しようとした。しかし、〈白の城塞〉の想い出などは、周りから五感に押し寄せるさまざまな感覚の波に押し流され、初めから無かったかのように急速に薄れていく。
ここは……、そして……、わたしは……。
ようやく開いたものの、半ば盲いていた目に黒い大きな影が映ったとき、稲妻のような本能が全てを明らかならしめた。
──おかあさん。
生まれたばかりの雛鳥は、母鳥の暖かく、安全な羽毛の下へと潜り込んだ。
傍らに転がる、それまで己が長いときを過ごした殻のことなど、とうに忘れて。
話の終わりまでネタがバレてなければ、とりあえずは書き手の目論見は成功なんですが、いかがでしたでしょうか?
「卵」の話でした。
イェル姫は黄身、ビアンカは白身、ガルドは殻です。タネ明かしをしてしまえば、名前の元ネタも一目瞭然ですね。
料理をしていて、卵を割ったときにふと思い付きました。
黄身はこれだけ厳重に護られているのに、雛として孵れば、殻はごみとなり、白身は消えてしまう。
消えたものは、それまでの間、どれだけ頑張ったか、何を思っていたのかなど、すべて関係なく、うち捨てられるだけ。
精子の尾は、受精した後どうなってしまうのか? -J・ティプトリーJr.にそんなようなSFがありますね。
人間の子供は、ある程度大きくなるまで、胎内で知覚したこと、出産の経過とかを記憶しているとよく聞きます。
でも、その後の成長につれ、外界からの情報量の増加に押されて、この様なプライオリティの低い=生きてくためには必要ない記憶は忘れ去られていくとの事。
雛鳥は、卵の殻の中で過ごしている間、何を感じているのでしょう?
※あとがきも、初出当時のものを引用して改稿しました。
初出は2000年らしいです(!) 10年以上どころか20年前って!!