14敗【先輩】
”おかえり” ”ただいま”
このやり取りだけで、本当に帰ってこれたという実感がわく。
…というか、本当に帰ってこれたんだな。
急に地面が扉になって、落とし穴のように真っ逆さまに落ちていったときはどうなることかと思った。クリアもミスターの奇跡のようなものが使えるらしい。彼も中々すごい能力を持っている、伊達に変質者をやっているわけではなさそうだ。
と、そんなことを思い浮かべていると、ミスターの隣で長身の女性が俺たちの無事に安堵していた。
「【嬉しい】ユケツもケンケツも、カガチも。みんな無事ね」
…「安堵していた」という表現が合っているかは分からない。そう考察できる要素は、彼女の表情にないからだ。その言葉の甘さと、研究所への帰還を迎え入れようと広げる両腕がそう思わせるだけ。
それは仕方のないこと。なぜなら彼女の優しさとは、冷たい機械仕掛けの氷に囲われていて、表情で垣間見ることはできないから。だから俺たちは、彼女の言葉と行動から、その深い愛情をいつも読み解かなければならない。
温度のない手のひらが、俺の頭を撫でる。
彼女が身に着けている看護服は相変わらず黄ばんでいて、付着した血飛沫が色あせてしまっているが、この研究所では酷く似合う役者衣装とも言えるだろう。
「チューシャさん…」
名を呼ぶと、彼女はやはり表情筋を一ミリも動かさずに、甘い言葉だけを口から紡ぐ。
「【嬉しい】カガチ、貴方体はなんともないのね?」
「いや、結構ヤバいとこまでいったんですが……いや今も!早くどけってお前ら!」
「ちぇっ」 「ケチ~」
危うく忘れかける所だったが、この重さは忘れかけても忘れられない。俺が腕を振りかぶると、ようやく血兄妹どもは俺の上から降りた。
特になんの謝罪もなく、ユケツがチューシャさんへと駆け寄る。ケンケツもこちらを振り向かずミスターのもとへ。この野郎……。
「せんぱぁ~いっ!わ~!先輩だ、ただいまっ!いつ帰って来たの?あのねあのね、今日カガチが久しぶりに音声入力で戦ったの!」
「【楽しい】あら」
再開が嬉しくて言葉をまくしたてるユケツを、寛容な心で包み込むチューシャさん。ここだけ切り取れば、二人が姉と妹のように見えなくもない。いや、精神年齢でいえばもっと、母と娘ぐらいにも見える。
「【楽しい】そんなことがあったのね」
彼女はユケツのノンストップ・コミュニケーションを優しく受け止めると、すぐに首を回転させてある人物に焦点を合わせた。
「【許せない】ミスター」
「はっ、はい!!」
「【許せない】墓場まで貴方もついていけばよかったのよ、危ないでしょう」
「でも研究所が留守になっちゃう…」
「【許せない】私が帰ってくること、知っていたわよね?」
「うっ」
思わず唾を飲み込む。
相変わらず、表情は変わらないのに、その感情表現は見事なものだ。俺でも体が震えてしまうくらいの、強い威圧感。感情パッチの自動入力がなくとも、怒りを感じていることがひしひしと伝わってくる。
無機質なように見えて、その実態は優しさと厳しさを兼ね備えたヒト。それはまさしく、この研究所を代表する”あべこべ”である。
「べ、弁明のしようもありません…」
「あははっ!ミスターがまた怒られてる~」
「先輩が戻ってきたって感じだな」
ミスターに怒れるのはこの中でチューシャさんだけなのもあって、こういった甘噛みのやり取りは血兄妹の好物である。彼女に乗っかって一緒にミスターを弄れるから、楽しくて仕方ないようだ。
かく言う俺も、面白がっている中の一人だが。
「一番強いのはやっぱりチューシャさんか」
調子に乗ってそう告げると、彼女もまた調子に乗った様子で髪をかき上げた。
「【嬉しい】そうね。私が裏番ね」
「どこで覚えて来たのそんな言葉…」
いつものメンバーがやっと揃ったことへの充足感。それは、彼女がやってきたことで久々にこの研究所にもたらされた安寧のひとときだった。その団らんを享受しようと俺は反動をつけて起き上がったが、
「いてっ」
正直みぞおち辺りが痛かった。
…
「【楽しい】本当に、カガチは自動入力になったのね。じゃあ、本人は何も覚えてないでしょう」
「ええ。もう散々でしたよ。あの感覚、何度も経験したとはいえ、もう二度と経験したくないですね」
ひと呼吸置いて、俺たちはミスターの検診室で紅茶を啜りながら、今までの話を報告していた。
ユケツは身振り手振りで動き回りながら、ケンケツと俺はため息混じりに。骨粉紛失騒ぎの弊害について、面白おかしい脚色を添えながらも。
しばらく談笑していると、ふとあることを思い出す。
「そういえばチューシャさん、結局どこいってたんですか。長く離れるとは聞いてましたけど…」
彼女の能面のような顔を見つめながら、俺は二週間ほど前のことを遡る。
-立つ鳥跡を濁さず、といった風に。
出発前のチューシャさんはいつにも増して静かな様子で、音も出さずに出ていった。
当然、そんなことをされた日にはユケツとケンケツが大騒ぎ。突然チューシャさんがいなくなったからってギャーギャー騒ぎ、俺まで喚びだされて、とにかく「探せ探せ」とうるさい事この上なかった。
あの時は血兄妹をなだめることに忙しかったのもあってろくにかんがえられなかったが、俺だって心の底ではずっと気になっていた。
彼女はいわば、俺にとっては研究所の先輩である前に血兄妹のお守りの先輩。彼女がいなかったら誰が血兄妹をあやすのだろうか?そんなことは考えたくもないが、付き合いの長さでいえば十中八九俺だろう。
後からミスターに長期の出張とは聞いたが、それでも多少の心配はしていた。
「【悲しい】あら、言っていなかったかしら。私はワールドの命令で、人狼の谷まで行っていたのよ」
「え?満月の谷までですか?」
ミスターのレポートをまとめながら淡々と話す彼女に、俺は驚きを隠せなかった。
―そんな遠いところまで?
人狼の谷。または満月の谷。ノーマンスランド唯一にして屈指の、深い深い渓谷。そこには多種多様な植物と、動物と、清涼な川がある。空気は澄み、小鳥たちは歌うたう。この世界の概念混濁が生み出した、人工物の一切が排除された自然の楽園。
…もちろんそんな場所は、この薬とオイルの臭いで充満しているような場所とは程遠い。燃焼馬を使うにしても到着までにだいぶ時間がとられる。不要概念が足りるわけもないから、大方ミスターの奇跡で送ってもらったんだろう。
「それってもしかして、兄貴に会いに?」
ケンケツが話に突っかかる。その瞳には期待が滲んでいた。
「人狼」と聞いて、確かにまず真っ先に想像するのは彼だ。
チューシャさんはその言葉に何か思い出すような沈黙を経て、
「【嬉しい】それが訪問の理由ではないけれど。アブノーマルにも会ってきたわ。元気にしていたわよ」とだけ呟いた。
「そうか、良かった」
ケンケツに安堵の笑顔が浮かぶ。
思えば俺たちが優雅に嗜んでいるこの紅茶も、人狼たちの協力が無ければあり得ないことだ。特にその王たる彼の協力が無ければ。普段食べるものを含めると、どうだ?肉、魚、野菜、水…
ケンケツほどまで彼に尊敬を捧げてはいないが、研究所に対する好意的な態度の数々は素直に敬服する。
概念の影響とはいえ、彼は仮にも-…
ミスターの考えはただでさえ敵が多い。
死骸人形も増えたとはいえ、本当に増えただけのこの状態で、彼がグロテスクについていたらと思うとゾッとする。
弱肉強食の外側へ逃げれることに改めて感謝しながら、俺は最後の一杯を飲み干した。
「でもなんにために谷まで?あそこ、あまり気軽に行っていい場所じゃないでしょう」
「【悲しい】そうね。もちろん、彼に会うためだけじゃないわ。最近不可解な傀儡が増えたとかで、私がその調査と報告に駆り出されたの」
「不可解?」
チューシャさんはミスターのほうをちらっと見ると、冷たい瞳のまま、やはり淡々と告げる。
「【悲しい】私たちと似た特性を持った傀儡」
その言葉を聞いた瞬間、俺たちは顔を見合わせた。
「【悲しい】以前から報告が上がっていたのよ。貴方たちにはヘッドセットや可視化に組み込んだ回線があるからいいでしょうけど、谷はそうもいかない。だから彼らに、そういう傀儡が居るから気を付けるようにって言っておいたのよ」
ここまでお読みくださりありがとうございます。
ブックマークや評価、感想などを頂けると作者の励みになります。よろしくお願いいたします。




