「もう……名前も思い出せない」
「リンデ……馬鹿だよ、お前……」
硬く閉ざされた扉に額を当て、まるで縋る様に寄り掛かりながら俺は呟く。
急激に失った血液の影響か疲労によるものか立っていられず膝をつく。
更に生死を乗り越えた凄まじい倦怠感と共に、胸中をまるでぽっかり穴が開いたみたいな喪失感が占めていく。
ああ、そうか。そういうことか。
あいつと共に過ごしたこの十ヵ月超――それは俺にとって掛け替えのない日々になっていた事を今更ながらに自覚した。
召喚されたモノとマスターという垣根を越えて……リンデと俺は苦楽を共にした戦友でもあったのだ。
当初こそ、それは仮初めの関係だったのかもしれない。
ただセラを護るという共通目的の為、互いに懸命に力を尽くし――
いつしか俺達の仲は本物になっていたのだろう。
忖度や屈託のない物言いや、恋愛脳丸出しの傍迷惑な行動など……失ってから気付く、愛嬌に満ちたあいつの数々の面影の残滓が脳裏を過っていく。
目頭が熱くなっていくのを震えながら堪える。
あいつは……リンデはそんな弱さを望んではいないだろうから。
それにリンデは言った。
いつの日かまたどこかでお会いしましょう、と。
叶うかどうかは分からない。
けど――今はその約束を信じたいと思う。
ならば俺は立ち上がらなくちゃならない。
例え痩せ我慢でもなんでも、あいつに相応しいマスターとしての矜持として。
ただ……今だけは許してくれないか、リンデ?
すぐにちゃんとした、お前に認められるような主人に戻るからさ……
もう返る事のない返事を思い、流れそうな雫を袖口で拭う。
嗚咽を堪えながら身を震わす俺を遠巻きに見守ってくれるセラとハーライト。
何も声を掛けず今だけはそっとしてくれる優しさが有難く、そして疎ましい。
その時――
「あな、くちおしや。
わがみをしばる、いまわしきくびきをとくにあたわずとは」
洞窟中に響く、重々しく陰鬱に満ちた嘆き。
声に込められた怨嗟と平伏し赦しを請いたくなるような畏れ。
まさか……終わってないのか!?
リンデの犠牲――いや、献身は無駄だったとでもいうのか?
動揺する俺達の前でダゴンの亡骸が瞬く間に腐敗。
骨すら崩壊し腐汁の汚泥となった屍の上に浮かぶのは、虹色に輝く球体の塊。
不気味に蠕動するその姿を見ただけで精神に負荷が掛かり嘔吐しそうになる。
喉元までせり上がった苦い胃液を飲み込みながら俺は球体に叫ぶ。
「なんだ、貴様は!」
「我は【門にして鍵】【混沌の媒介】【原初の言葉の外的表れ】……
すなわち【一にして全、全にして一なるもの】なり」
返答を期待した訳ではないが、律儀に応じて来た。
どうやら対話は可能。
だからこそ尋ねたい言葉を叩きつける。
「封印は――封印は破られなかった筈だ!」
「然り。此度も我が身を解くに能わず。
忌まわしきは【管理者】たるウルドの結界よ……」
「ならば何故、お前は現界した!?」
「此度のことで我は気付いたからだ。
封印を破る事は能わず。
ならば――封印の代行者たる者を消せばよい、と。
これなるは我が祝福にして呪い。
現在過去未来、時空に作用する因子。
封印の戒めを超えた為に大した威は揮えぬど――人を消す事など造作もなし。
さあ……忘却の彼方に潰えよ、代行者たる者よ」
強引な顕現による無理が祟ったのだろうか。
語るだけ語り消えゆく虹色の球体……しかし今際の餞別に放たれる闇色の輝き。
人を飲み込むようなそれは猛スピードで一直線にセラに突き進む。
結界の維持に疲弊し尽くし流血に塗れたセラにそれを防ぐ術はない。
目前ならばともかく、さすがにここからでは俺も彼女を守りようがない。
だからだろう。
その身を盾にしてハーライトが立ち塞がったのは。
「ハーライト! お前まで――」
「あとは頼みましたよ、ガリウス。
必ずお嬢様を――」
最期を悟った清々しい微笑と共に何かを言い掛けたハー〇イトが消えていく。
この世から、まるでその存在が全て虚無へと上書きされるように。
なん……だ、これ。
いったい何をされたんだ、ハー〇※ト!
こうしている間にも彼との思い出が消えていく。
確かに彼はそこにいて共に過ごした、リンデと変わらない戦友だった。
なのに――
「もう……名前も思い出せないなんて……そんな」
茫然と座り込み信じられないと独白するセラ。
俺だって同様だ。
あれほど親しかった彼、*―〇※★の名前どころか容姿すら思い浮かばない。
彼に関連する全てが止める事無く忘れ続けていってしまう。
これこそがあの虹色の球体の祝福であり呪いなのか。
現在過去未来に通じるというあの邪神の本質が本当ならば、彼はそのいずれかに飛ばされてしまったのだろう。そして存在自体も忘却されていく。
過去の思い出も、現在の絆も、未来への願いも――全て巻き添えにして。
リンデだけでなく彼すらも喪うなんて……
俺と同様、地面に座り込んだまま動けないセラ。
悲しみからか喪失感からか、一滴の涙を流した後、その場に昏倒してしまう。
ついに限界がきてしまったのだろう。
無謀としか言いようがない俺の作戦にセラは頑張って応じてくれた。
敗北感にも似た何とも苦い想いを強引に振り切り、俺は行動を開始する。
最後に彼は頼む、と言った。
ならば俺は応じなくてはならない――
名前も姿も忘れてしまった戦友の願いを叶える為。
意識のないセラをポーションやスキルで応急手当し、背負う。
「軽いな……本当に」
こんな身体で、細身で世界の平穏を護る役目を担って。
少女の背負うものに比べて少女を背負う事の対比に何故か胸が締め付けられる。
愛剣を拾い腰に差し、洞窟を後にする俺とセラ……そう、二人のみ。
その事実を認識した途端、意味もなく瞳から溢れ出る水が邪魔だ。
今は余計な感傷に浸っている場合じゃない。
結界内に設けられた緊急脱出用ゲートから地上に戻った俺は、足早に近くにある管理者用セーフティハウスを目指す。
いつも以上に慎重に、そして神経質になっている自分に気付く。
その理由は語るまでもないぐらい理解している。
何故なら意識のない彼女、セラを支え守れるのは今や俺だけ……
頼りになる仲間は――もう、いないのだから。




