「さよならは言わないの」
「なんでだよ!?
ダゴンを斃して、確かに結界の崩壊を堰き止めた筈だろ?
なのにどうして異界からの侵略回廊へ続く扉が――」
そこまで言い掛けた俺は思い至った。
もしかして……全ては仕組まれた流れだったのではないか、と。
ここに封印されている存在にとって、堕ちた魂ことダゴンによる破壊活動により結界が壊れれば、それで良し(物理的に)。
もしそれが叶わなくとも捧げればいいのだ。
神秘的資質として最上級の供物……ダゴンそのものを。
ダゴンを媒介とし、その死を以て結界を一時飽和させる(霊的に)。
魔術界隈において生贄や代償による術式干渉の類いは最たるものである。
あの師匠ですら大規模精霊魔術の際には何かしらの対価を伴うのだ。
個人によりレートの差はあれど、等価交換の原則は基本変わらない。
つまりダゴンを召喚した時点で封印主の思惑は遂げられていたのではないか?
それが証拠に扉の奥から響く何かを讃える祭文にも似た声は喜色に富んでいる。
このまま何もできないのか?
絶望に押し潰されそうになった脳裏に道中セラと交わした言葉が浮かぶ。
「どんな結界もね、外部からの干渉には強くても内部からには弱いのよ」
アレは結界術のいろはについての講義だっただろうか。
得意顔で語るセラを横目に見ながら、俺は馬耳東風といった感じで、所詮一介の剣士風情である自分には関わりのない話だと聞き流していた。
だがこれは裏を返せば、封じられてる対象以外なら内部から結界に干渉出来るというに繋がるのではないか?
今の現状、徐々に開いていく扉を外から閉めることは出来なくとも内部からなら閉めることは可能ではないのか?
幸い扉は外開きでなく内開きだ。あれならば魔術的知識がなくとも何とかなる。
だが……多分扉の内部は別世界。
きっと出入りに関しては一方通行で入る事は出来るが出る事は出来ないだろう。
でも結界維持に流血しながら全力を費やすセラを見た瞬間、俺の肚は決まった。
ここが俺の命を捨てがまる場所なのかもしれない。
しかし――不思議と恐怖はなかった。
自分のやるべき事、出来る事に確固たる己の意志と芯が通っているからか。
制止を振り切り盗賊と相打ちになりながらも家族の仇を討ったあの娘も――
おそらくこんな思いを抱いていたのだろう。
決意と共に顔を上げると同じような顔をしたハーライトと目が合った。
何だ……お前もかよ。
瞬時に分かり合えた俺達は共に苦笑を浮かべる。
最初は馬の合わない、いけ好かない男だと思った。
それが幼稚な嫉妬からによるものであると自覚してからは素直にその人柄と腕前に敬意を払えたし、数か月の稽古を通して互いという存在を理解し合えた。
だから――考える事は一緒。
先に扉に着いた方が犠牲になってでも止める!
猛然と駆け出す俺達。
けれど誰よりもその考えに至り風よりも早く動いた者がいた。
ボロボロの身体を酷使し……精霊の力を借りた高速移動で扉の内部に飛び込んだ一陣の風、即ちリンデだった。
「リンデ!」
「リンデさん!」
馬鹿、なんでお前がそんな役割を――
悲壮な俺達の声にリンデは泣き笑いを浮かべながら答える。
「考えるより先に身体が動いてしまったのがアタシなの。
やれやれ……どうにもマスターのバカが流行ってしまったみたいなの」
「なんでお前が行く必要があったんだよ、リンデ!
その役割は俺が――」
「大切なことに気付いたからなの、マスター。
アタシが星霊使いに招かれマスターに仕えたのは、きっとこの為。
今日というこの日の為だったの」
「なっ何を言って――」
「契印を破棄してなの、マスター」
「! それをしたらお前は」
「時間が無いの。早く!」
契印とは文字通り召喚された対象との間に結ばれた契約の印の事だ。
本来逸脱した力の主を縛り、制御する為のもの。
この世界の存在ではない契約対象を世界に留める為の頚木でもある。
つまりこれを破棄するという事は、リンデは琺輪世界にいれなくなる。
ただ逆説的にいえば――
リンデは縛り……規制されない本来の力を取り戻す事に繋がる。
きっと彼女はそれを望んでいるのだろう。
いずれにせよ、悩んでいる時間はない。
リンデの決意を無駄にしない為にも、何よりその心意気に応じる為に俺は手の甲に刻まれている契印を掲げ高らかに宣言する。
「精霊を統べる星霊使いファノメネルが弟子、ガリウスの名の下に告げる。
汝――オルトリンデとの間に結ばれし、このよすがを解き放ち……
あるべき姿、あるべき形へと回帰せしめよ!」
師匠から万が一の為に教わっていたリンデの契約破棄詠唱。
宣言と共に灼熱のような熱さで掻き消える契印。
次の瞬間、神々しい金色の光を纏いながらリンデは変容する。
亜麻色の髪に気品のある顔立ち……軽甲冑に身を包み、羽飾りのついた兜を被り槍と盾を装備しているという、その愛らしくも勇ましい出で立ちは変わらない
ただ――その大きさが変わった。
180cmを超える俺に及ぶ、170超えの成人女性へと。
きっとこれこそがリンデの……オルトリンデの本当の姿。
神秘に満ちたその姿は世界を見守る【亜神】に匹敵する威容。
「大神に仕えし勇壮なるワルキューレ9姉妹が一人、オルトリンデ……
今ここに完全顕現致しました」
楚々たる戦乙女の姿でそう語るリンデ。
そして俺を静かに見据えると哀しそうに嬉しそうに微笑み告げる。
「マスター……いいえ、ガリウス。
此度の事はどうか気に病まないで下さい。
未来を予見する大神がこういった事態を想定して遣わしたのが私。
全ては定められた運命だったのです」
物静かに喋るリンデ。
その身体から放たれる威光を受けて扉の動きが静止……徐々に閉まっていく。
どうやら異界への回廊が解き放たれる危機は去ったようだ。
だがそれとは別にリンデに……否、何も出来ない自分に腹が立ち俺は叫ぶ。
「なんだよ、運命って!
お前が犠牲になるのが正しいとでもいうのかよ!」
「運命というのは残酷なものです。
たとえ神々でも逃れ得ぬ、この狂った舞台で踊る為に定められし筋書き。
けど――貴方は違うのですね。
貴方の起源は【不屈】……何かに屈する事を是としない、正しき怒りの顕現。
これからも貴方には数々の困難や辛苦が降り掛かるでしょう。
でも……その魂の輝きを忘れないで下さい」
伸ばされたリンデの指先が喪った俺の左手首に向けられる。
瞬間、まるで時間が巻き戻ったかのように……否、実際に時が遡ったのだろう。
高位法術でなければ再生が叶わないと思っていた左手首は完全に復活していた。
「リンデ、お前――」
「貴方と共に過ごしたこの一年――
それは何にも勝る、生きる喜びに満ちた日々でした。
輝きに満ちた日々の想い出は私が生きた数千年を遥かに超える大切なものとして胸に残っています。
だから……さよならは言わないの、マスター。
またどこかでお会いしましょうなの♪」
「リンデ、待っ――」
もっと言葉を交わしたいと願った俺の目前で――
無情にも重々しい響きを立てて、扉は完全に閉ざされた。
陽気で無邪気でうるさく、どこかシニカルで恋愛脳のくせに寂しがり屋。
でも――この道中で苦難を共にした、掛け替えない戦乙女見習いの献身を以て。




