もやし屋だった爺ちゃん ~創作に役立つかもしれないリアル昔話~
私は田舎の生まれで、その両親はもっと田舎の生まれだった。
幼い私の記憶に残っているのは、田んぼの時期に両親、親戚が田植えに向かっていた姿。父方の田は、急な山を切り開いて作られた棚田で、幼い私にはどこからどこまでが田んぼか分からないほど延々と続くような田んぼが記憶に残っている。
この田んぼは、じい様ばあ様が若い頃からせっせと開墾して切り開きつづけ、なんとか田んぼにしたと聞いた。記憶にあるじい様はすでに腰の曲がったよぼよぼの年寄りで、いつでも長机の上座で一升瓶を小脇に置いて座っていた、傍らにあるステンレスの細く長い注ぎ口の付いた熱燗機は、いつもスイッチが入っていた。じい様は朝でも昼でも、もちろん夜でも赤ら顔で日本語らしからぬ日本語を喋り、腰が曲がって頭の位置が腰の位置にあるばあ様が時折、台所から戻っては通訳をしてくれた。終ぞ私がじい様の言葉で理解できたのは「なんまんだぶなんまんだぶ」という言葉くらいだった。
そんなじい様ばあ様の暮らす家は木造で大層広く、いつも田舎独特の香りが漂っていた。夏には土間に蠅取り紙がぶら下がり、私は2~3回、蠅の仲間入りをした。
こんなどこにでもある田舎の山の家だけれど、このじい様。農家でありながら、もやし屋でもあったらしい。
「もやし屋」と聞いて豆から芽が出たモヤシを想像する人も多いだろうけれど、発酵のもやしの方。種麹屋だ。
種麹屋という存在自体が「そんなものあるの?」と思わないでもないだろうが、昔は自分たちが食べる物は自分たちで作ることが主流だった。米、野菜はもちろん保存食品、そして発酵食品も作った。『手前みそ』という言葉があるように発酵食品である味噌、それに飲む酒だって自分たちで作る。それが普通だったのだ。
その発酵食品を作る時に必要となるのが種麹。その種麹を売るのがもやし屋だ。
種麹とは要はカビ。人にとって有用なカビ。
普通に生えてくるカビは毒素を生み出す事の方が多いから、人にとって有用なカビだけを繁殖させることができるというのは大きな価値があり、分業、専業のようになっていたらしい。
といっても田舎のもやし屋。ほぼ近所の人達に渡す程度の種麹作りだったらしく、種麹を近所の人に渡しては、金子ではなく出来上がった味噌や酒をもらう。酒を多く作るところにも渡していたらしいから、酒好きだったじい様には天職だったことだろう。
だが酒税法が制定され酒を作ることは禁止されてしまう。
私に、じい様の「もやし屋」という印象がほとんどないのは、きっと物心つくころには、もやし屋としての活動を辞めてしまっていたからだと思う。酒造りは禁止されても味噌作りは認められているのだから種麹は作っていたのかもしれないが、あの酒好きのじい様のことだ。酒が飲めないのに種麹など作っていられるかと考えたに違いない。それくらいに四六時中酒にまみれていた人だ。
個人的には、この酒税法というのは土着文化を破壊した悪法だと思っている。祖父が種麹を作っていたという話をきいたことも影響しているのだろうが、折角各家庭、地域に根付いていた独特の製法や文化なんかを全て根絶せしめた。そんな法律だと思う。
もう誰も住んでいないが、じい様の家のある付近には辛口の酒が多い。酒税法が無ければ、あの地域は、どぎつい辛さの面白い酒が有名になったのではないかと時々夢想してしまうのだ。
話がずれてしまったが、この種麹。製法をうっすらと聞いたことがあるので、それを備忘録に残しておこうと思う。もう途絶えたけれど、昔は価値のあった技術であっただろうからまた聞きのメモのような物でも記しておいて損はないはず。
ファンタジー小説では文化の未発展な状態がよく出てくるから、そこにおいて種麹が日の目を見る機会も少なくないだろう。うろ覚えの製法ではあるけれど、もしかすると創作の一助にもなれるかもしれない。
では、種麹のつくり方を記す。
米を茶碗に盛る。
灰をかける。
ほっとく。
だ。
子供相手の説明だったから細かい説明ではないのだろうが教えてもらった内容は、こんな感じだったように思う。なにか、もうちょっとあった気もするが覚えているのは、こんな感じ。
今の知識で考えてみれば、多分仕込む時間帯や場所なんかも言われていたのだろうし、家に住み着いていた菌なんかも影響しているのだろうが、まぁ、こんな感じで種麹はできたらしい。こうしてできた種麹が、味噌や醤油、酒を生み出した。
人は食べなければ生きられない。
生きる為の食べ物を作り、少しでも楽しく美味しく食べる為の工夫をして、食文化が育まれた。
そして、その地域で生まれた食文化は、その地域の人をつくったのだと思う。
現在、美味しい物が溢れ食生活に不満を感じることはない。
規格化され、統一され、皆が好ましいと感じる味。いつでも手にすることができ、そしていつも変わらない味。
素晴らしい進化だと思うが……ふと私は、そこに果たして食文化が存在しているのだろうかと感傷的に感じてしまうことがあるのだった。