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A線上の魔法使い  作者: しんどう
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序説~第一節

 藤條春人が初めてその「音」に出逢ったのは、まだ物心も付いていない、幼かったあの日――


 生まれたばかりの子供とは大体の場合、母親の子守歌を聞いて育っていくのだろう。俺もきっとそうやって育ってきた。子守唄に限らず何度も何度も、きっと数え切れないくらいの歌を聞かせてもらった。

 しかし俺には全くと言っていいほどにその記憶が無い。

親不孝者だと罵られるだろうか。

いや、こんな話は結構ありふれているのだ。子どもの頃のこと、特に小学校に入る以前の記憶なんて、覚えていなくても何ら不思議はない。母親との記憶に限らず、何も覚えていなとも自然なことだと言っていい。仮に覚えていたとしたらそれは「とても良い思い出」や「とても悪い思い出」そのどちらかであろう。

 だから、前者に出逢うことのできた俺は幸せ者なのだ。

 忘れようとしたって忘れられない。幼心に鮮明に刻まれたあの光景、あの熱気。母親の腕に抱かれながらも、あの時の俺は確かに現実と特別な世界との狭間にいた。

 狭苦しい空間に敷き詰められた人間達。

耳を揺るがす音の奔流。

そして、一心不乱に何かを伝えようとする「彼ら」。

人の塊から少し離れた安全地帯からの傍観。幼い俺にはその光景が現実であるとはとてもではないが受け入れられなかった。

ただ、視界に映る一人、一心不乱に何かを叫ぶ人物が自分の兄であるということだけが、ここを現実たらしめる要因だった。

 

 薄暗い中に目がチカチカとなるほどのライトアップにエフェクト、爆音。誰とも分からぬ雄叫び。ライブハウスという日常から隔離された箱の中では全てが現実だった。


「ねえお母さん」

「んー? どうしたの春人?」

「お兄ちゃんは何をやっているの?」

「お兄ちゃんたちはね、バンドっていうグループを作って、ライブをしているのよ」

「バンド? ライブ?」

「まあ、春人からしたら……そうね。幼稚園でお友達と一緒に音楽発表会をしたでしょう。それと似たようなものよ」

「じゃあお兄ちゃんたちは今、歌を歌ってるんだね」

 母親は笑って頷いた。何か分かったようなふりをしている俺が面白かったのかもしれない。確かに俺にとっては何もかもが未知で、実際何も分かってなんてなかった。自分が今まで歌ってきた歌、母親が聞かせてくれたはずの歌、そのどれもと異なる歌だった。

どうしてあんなに必死で歌うのか、何をそんなに伝えたいのか、周りの人ははどうしてこんなに興奮しているのか、何一つ理解してなどいなかった。

そんな中で漠然と一つ、心の底から湧き上がって来た思いは、

「なんか……カッコイイね」

「ふふ、そうね。あんなお兄ちゃんは見たことないものね」

 カッコイイ。どんなに幼くたって思うことのできる感情。安っぽくって、単純な感情。でも、本当にそうとしか思えなかった。

兄の口から紡がれる一言一言に会場は湧きかえることも、兄がマイクを向ければそれに答えて叫び声が返って来ることも、両手が自由自在に動き回り、その度に楽器が歪んだ音を奏でることも。何もかもが初体験の俺には全てがまるで魔法のように見えたのだから。そしてその魔法を操っているのが自分の兄なのだから。

 ――やがて、演奏が終わる。熱気に包まれていた空間が一瞬の平穏を取り戻した。

その瞬間、俺は母親の腕から抜け出して、演奏を終えたばかりの兄の下へ走っていた。頭の中をただ一つの願いだけが駆け巡った。

「お兄ちゃん!」

 ステージ裏から出てきた兄にしがみ付いた。兄の他のメンバーが突然の闖入者を不思議がって、兄だけが笑顔だったのを覚えている。

「どうしたんだ春人?」

「僕にもさっきのやつ教えて!」

 突拍子もなかった言葉。気が早っていた。その時の俺は、完全に兄の「魔法」に魅せられていて、自分もあんなことが出来たらどんなにいいだろう、そんなことばかり考えていた。

一瞬虚をつかれた兄だったが、やがていつもの笑顔で、

「うん。いいよ」

 頭の上に大きな手をポンと置いて俺の願いに応えてくれた。その時の感情は今でも形容し難い。喜びと、興奮と、期待と不安が入り混じったような。


 そのとき俺は魔法の世界行きの列車切符を手に入れたのだ。

そして俺は今も、その列車に揺られ続けている――




 第一節


「ダメだな」

「え?」

 第一音楽室。中等部と高等部合わせて三つある音楽室の中で最大のもの。その一室でダメ出しをされる。

「あの……何がダメなんでしょうか?」

 時刻は放課後。帰宅部の生徒以外は部活に勤しむ時間帯。第一音楽室は軽音楽部の部室であり、その部員は各々自分が担当しているパートを練習していた。

「何がも何も、お前は俺が言った演奏法が出来ないわけだろう」

「それは、まあ」

「だったらそれが全てだ。帰れ」

 言い返す間も無く退場を言い渡される。俺は内心モヤモヤとした感情を抱えながら、ギターケースを背負い、試験室たる第一音楽室を後にした。


 星野宮学園。俺が通っているこの学校は部活動が盛んだ。中高一貫教育となっており、二千人を超える全校生徒の九割が何かしらの部に所属している。部の種は運動部と文化部に分かれ、運動部に部員数の偏りはないが、文科系の部ではそれが顕著になる。

軽音部。どこの学校にでもあるであろうありふれた部だが、この学校ではそれが少し違ってくる。

 軽音部の部長が所属し、実質部を牛耳っているバンドグループが『AXIS』。中等部の一年時から同じメンバーで構成される軽音部一の技術を持った四人組バンドであり、数々のライブやコンテストでも名を残すほどの実力者だ。音楽業界の人に一目置かれ、インディーズでのデビューが目前と言われているほどであり、学校ではちょっとした有名人なのだ。

 そんなこともあって、軽音部に入部を希望する生徒はかなり多い。今年の希望者は軽く見積もっても百人超え。その構成は五割が『AXIS』目当ての野次馬、一割強が入部する者、そして残りの四割弱が、俺のように「入部テスト」に脱落した者だ。

 入部テストとは『AXIS』のメンバーが要求する演奏テクニックや曲のフレーズを披露するというものだ。テストで要求される課題に一つでも対応できなかったら入部の道は閉ざされる。なかなかにシビアな内容だ。

俺に出来るのはただ「丁寧に弾く」ということだけで、テクニック云々はともかくとしても初見のフレーズを完璧に聞くことは出来ない。この形のテストに合格出来ないのは当然と言えた。

 一歩音楽室を出てしまえば鮮やかなギターソロもリズムを刻むバスドラムも何も聞こえない。完全防音を施されたそれは学校の設備にしては最高のものと言えるだろう。

 廊下を歩きながら思った。このモヤモヤした感情はテストに落ちたからなのだろうか。

 いや、多分違う。

理由は簡単だ。そもそも俺は軽音部に入りたいとはそこまで思っていなかった。せいぜい入っても良いかなくらいの気持ちしか持っていなかった。その気があるのなら、中等部の一年から入ろうとしていただろう。

ギターは好きだ。大好きだ。無人島に何か一つ持って行けるというのなら迷わずギターを選ぶくらいには大好きだ。

しかし俺は「バンドを組む」ということに関心が無かった。俺にとってのギターとは一人で弾き続けて一人で上達する、その循環の中で完結していたからだ。今回のテストを受けたのだって姉さんに勧められたからにすぎない。

結果はこの様。結局俺が今までやってきた体制に変化は訪れない。そして、それでいいと思う。

「……ん?」

 ふと、聞き覚えのある音、体に染みついて離れない音が鼓膜を揺らした。

「これって……ギターの音だよな」

 それは歪みの混じった、まさにギターといった音だった。

しかしこの音はどこから聞こえてきたのだろう。音楽室からは聞こえるはずが無いし、一般の教室で弾いたならもっと大きな音が聞こえてくるはずだ。こんなくぐもった音にはならない。

 思考を巡らせている内に、音はもう聞えなくなっていた。耳に届くのは外で部活をしている生徒たちの掛け声や歓声だけ。

 気のせい、だったのか?

 疲れていたのかもしれない。それとも自分は妄想の世界でもギターサウンドを聞いていないと気が済まないほどの中毒者だったのか。

まあ否定は出来ないが。

 頭の中で気のせいだったと勝手に結論付けることにして俺は学校を出た。出始めの夕焼けの光と体を冷やす北風を受け、徒歩十分の帰路を歩く。その間は何も考えなかった。


 ただ、さっき否定したはずのくぐもったギターサウンドだけが、頭の片隅をちらついていた。




 自宅は普通の一戸建て。家族構成は両親、兄と姉が一人ずつ。

両親は仕事の出張で海外に長期滞在していて、俺が高校を卒業するまで帰って来ることはない。兄さんは仕事で家を出て一人で暮らしている。実質、家にいるのは俺と姉さんの二人だ。それでも何不自由はない。両親からの仕送りは潤沢だし、兄さんも仕事の稼ぎを多少流してくれている。経済面に不安はないから、安心して暮らしていられる。生きている中で家事は勝手に覚えた。炊事洗濯、掃除にその他。人並み以上に出来る自信がある。ギターと並ぶ、俺の数少ない趣味だった。

「ただいま」

「あー……おかえりー我が弟よ……」

 生活に不安はない……のだが。

「ただいま姉さん。どうしたの、死にそうじゃない」

「だってー友達とバスケしてきたからすっごいお腹空いたんだものー」

 不安はない。帰って来るなり玄関で這いつくばっている姉さんがいたとしても。

「じゃあ何か作ればよかったのに」

「えー……だるい」

「……」

 姉さんこと、藤條夏鈴は別に家事が出来ないわけじゃない。家事に限らず、やろうとすれば何でもできる。それも人並み以上に。飯を作るのだって俺より上手だろう。出来ないのではなく、やらないだけなのだ。

「とにかく何か作ってよー餓死しても知らないよー?」

「どういう脅しだよ。まあ、どうせ夕飯を作るつもりでいたし、ちょっと待っててよ」

「おおー流石最愛の弟よー超特急でねー」

 しがみ付いていた姉さんを突き離して台所へ。姉さんはそのままうつ伏せで玄関に倒れてしまった。とりあえずそのまま放置。

まあ本当に餓死されても困るので、要望通り超特急で作ってしまおう。



「ああー生き返るわー」

 超特急との御要望だったので夕飯は本当に簡単なものだけになった。それでも姉さんは大変に満足してくれたようなので良いだろう。空腹は最大のスパイスだと言った昔の人は本当に偉大だと思う。

「あー春人ー。テレビ付けてー」

「あいよ」

 テーブルの上にあるリモコンを操作して御希望のチャンネルに合わせる。放送されていたのはおそらく日本で一番有名であろう音楽番組だった。

「誰か好きなアーティストが出るの?」

「んー、別に好きってわけじゃないんだけどさー」

 歯切れの悪い対応。俺は姉さんが好き好んで音楽を聴いているところを見たことが無いし、好きなグループがいるのかどうかも分からない。

そんな姉さんが自分から聞こうとする音楽って言ったら、それは――

「あ、兄貴たち出てきた」

「ああ、これが見たかったわけ」

「んーまあねー。家には帰って来なくても家族だし」

 そう言っている間にテレビの中では四人組のバンドが演奏を始めた。そして、その中央。ギターボーカルを務める人物が俺と姉さんの兄、藤條秋良だった。

『Division Drivers』。通称『DD』と呼ばれているこのロックバンドは二年前にメジャーデビューを果たして以来、絶大な人気を得ている実力派だ。分かりやすい、けれど決して安っぽくないリリックと、体が勝手に動いてしまうような爽快かつ重厚感のあるメロディーが売りである。

『DD』のメジャーデビューは俺や姉さんを含めた多くのファンに歓迎された。というのも、この話は九年前、兄さんが十七歳、俺が七歳の時にすでに出ていた話だったからだ。

しかしメジャーデビューの話が決まったすぐ後、ギターパートを務めるメンバーを事故で失ってしまい、話は無かったことになってしまった。それから新しいメンバーを迎え、再びインディーズの世界で荒波を乗り越え、今日のデビューにたどり着いたのだ。当時からのファンには感無量だろう。

「兄貴、楽しそうだ。もう、あの事故は過去の出来事に出来たのかな……」

 複雑な表情で姉さんは呟いた。それは別に俺へ答えを求めて言ったものではなく、自然と口からこぼれたものだった。

 事故で失ったメンバーと兄さんは特に仲が良かったと聞く。『DD』の他のメンバーも当然事故には悲しんだが、一番顕著だったのは兄さんだった。一時は音楽を辞めようとまで悩んだらしい。

それでも、兄さんは今も歌っている。兄さんを音楽の世界に繋ぎとめた「何か」があったのだろう。それが人であるのか物であるのかは分からないけれど。

「感謝すべきだよな。その『何か』に」

「んー? 何か言った?」

「いや何でもないよ」

 その「何か」のおかげで、今の兄さんがいて、兄さんからギターを教わることのできた今の俺がいるのだから。

「そう言えば春人ー」

「ん、何?」

「どうだったのさー軽音部は」

 思い出したように聞いてきた姉さん。夕飯の炒めものを食べるついでに聞いてきた程度の軽い口調だった。

 まあそんなもんだろう。姉さんも本気で俺にバンドをやれって言ったわけじゃないんだろうし。

「なんか入部テストみたいなのに落ちた。だから入部してないよ」

 刹那、姉さんの箸が止まった。今までとは違う、真剣な目つきで見つめてくる。

「入部テスト? なにそれ?」

 穏やかだった食卓が一瞬にして緊張に満ちた。対面する姉さんには俺が帰宅したときの様相は無い。俺も長いこと姉さんと付き合ってきたが来本来の性格の姉さんに対応するのは久々だ。 

 やっぱり慣れない。いつものバカっぽい姉さんと百八十度違うんだから反則だ。

 俺はなるべく平常を装って説明を始めた。

「それは――」

『AXIS』という人気バンドがいること。彼らが出題する課題に合格する必要があること、その試験に合格出来なかったこと。ざっと話しただけだが姉さんはあらかたの事情を理解したようだった。理解力と推察力に長けている姉で助かる。

「ふうん」

 姉さんはつまらなそうに溜息をついてお茶を飲み干した。そして、

「そんなつまんない部だったら入らなくても良いんじゃない」

 自信の籠った口調で言い切った。それは推奨というより半ば命令に近いような強さを持っていた。

「そのシステムが必要なのは分かるよ。確かに冷やかしで入部したって長くは続かないだろうし、真剣にやるつもりの人にも迷惑だろうしね。

でもそのシステムじゃ、冷やかしじゃないけど軽音を始めてみようかな、って人が入部出来ない。最初から高い技術を持った人しか入部出来ないじゃない。全体としてのスキルは上がるかもしれないけど、部活って言うのはそういうもんじゃないでしょう。

『AXIS』だかなんだか知らないけどさ、自分たちの力を過信してそんなことしてるようじゃ、そいつらもたかが知れてるね。その証拠にインディーズデビューだって実現出来てないわけだし。

その言い方はキツイって? そんなことない。兄貴はそいつらの年でメジャーデビューだって掴んでいた。実力とそれに伴った心の強さがあれば、不可能なことじゃないんだよ」

「……」

 俺は言葉を無くしていた。姉さんの意見がもっともだと思ったこともある。だがそれ以上に、こんな饒舌な姉さんを見たのが本当に久しぶりで。

姉さんが本気で、俺にバンドをやって欲しかったことが分かってしまったから。

「だけどね……軽音部がダメだったとしてもさ、私は春人にバンドをやって欲しい。一人では見えてこない世界があるってことを知ってもらいたい」

「それは、そうかもしれないけど」

 軽音部に入れなかった以上、俺にあの学校でバンド活動をする術はない。

 バンドは不可能だ、という思考を断ち切るように、姉さんはニヤリとした笑みを浮かべた。姉さんがこうやって笑うときは大抵とんでもないことを言おうとしているときであって、俺は否応なしに嫌な予感を抱く。

「だからさ、春人が作ればいいよ。軽音部じゃない新しい部を」

 そしてその予感は九割九部、的中するのだ。

「何言ってんだよ、そんなこと――」

「出来るよ。春人なら。あの場所なら」

 否定意見を述べる間もない肯定がとんでくる。姉さんを見返すと、深みを持った双眸は自信に満ちていた。

「高校ってのは不思議な場所でね。そこでは一生を懸けて繋がりを持つような仲間と出逢うことが出来るんだ。偶然じゃなくて必然としてね。

春人も出逢うはずだよ。出逢うべき人たちと。そしてその人たちと出逢ったとき、春人。あんたはきっと思うはずだよ。この人たちと音楽をやりたいって」

「……」

 なんだよそれ。全然理論的じゃない。仮定だらけで何の説得力も無いじゃないか。確定事項なんて何もない、はずなのに……。

「本気で姉さんがそう言った」。それだけでどうしようもなく話に現実味が出てきてしまう。姉さんが真剣に話した時に間違えたことを言ったのを、俺は今まで見たことが無かった。

 信じられないけど、信じざるを得ない姉さんの与太。普通はそんな話あり得ない。

 だから、もし本当に、そんな話があるのだとしたらそれは――


                 運命だ。

 



 昼休みの教室は一気に喧騒を増す。食事をする者、世間話に興じるもの、直前の授業で分からなかったところを教師に質問する者、様々だ。

 そんな中で俺は購買部から帰って来た男子生徒にねぎらいの言葉を掛けた。

「お疲れ皐月」

「おう、マジで疲れたぜ」

 言いながら俺の隣の席に座ったのは葉山皐月。この学校に入ってから、つまり中等部からの付き合いだ。

「ったく、お前は人気のある物ばっかり頼むんだもんな。ほらよ」

「サンキュ」

 愚痴をこぼしながらもその顔は笑っていた。皐月との付き合いはいつもこんな感じだ。

 さっぱりとした性格でいて、ひょうきんなところもある。気兼ねなく話せる友達ってやつだ。おまけに長身痩躯の結構なイケメン。ワックスで立てた髪も彼のイメージに合っている。掛けているメガネがまた知的なイメージを連想させるが、それは間違いなのは御愛嬌。代わりに運動神経は抜群なのだからプラマイゼロだろう。

「なあ春人」

「なんだ?」

「ジャンケンでパシリを決めるってシステムはおかしいと思うんだ」

「俺はこの上なく合理的かつ迅速なシステムだと思うが」

「じゃあ俺が四年間、一度も勝てずに苦汁を啜っているのはなぜなんだ?」

「それはもう一種の才能だと思うよ」

 買ってきてもらったコロッケパンに齧りついて言った。こいつの言う通り、俺はジャンケンで一度も皐月に負けたことが無い。俺が強いのか皐月が弱いのか。答えは後者だ。俺は他の人には普通に負けるのだから。

「これからはかくれんぼとかで決めないか?」

「やってる間に昼飯が売り切れても良いなら構わないが」

 ……いや、構うな。昼飯なしで午後の授業に突入するのは辛い。

「……まあ後二年間あるしな。これから先、春人がパシられる日も来るだろうよ!」

 啖呵を切って餡パンに齧りつく皐月。数秒で食べ終えると次に取り出したのはクリームパンだ。一見してヤケ食いを連想させる皐月だが、食ってるものが甘い菓子パンばかりなのでなんとも様になってない。

俺は正直こいつにパシられるくらい何とも思わない。長い付き合いだし、この先も同じようなことが続くのなら俺が買いに行ってやるのも良いかもしれない。

 他愛もない会話を挟み食事が進んでいく。十分もすれば互いに食べ終えてしまった。

「ふう、ごっそさん」

「……」

「ん? 何だ春人。俺の顔に何か付いてるか?」

 ボーっと皐月の顔を見ていた俺はその言葉に遅れて反応した。

「……いや、お前もつくづく残念な奴だと思ってな」

「何のことだ?」

「あの趣味さえなけりゃあ、さぞかし女にもてるだろうと思って」


「馬鹿野郎! 二次元は俺の心のオアシスだぞ!」


 わざわざ椅子から立ち上がり大声で宣言する皐月。そんな光景にも慣れたもので、クラスの奴らは「ああ、またあいつか」みたいな反応をする。

「俺がこの趣味で何か迷惑をかけたか!? 答えは否! 誰にも俺の邪魔をすることは出来ない! だいたい俺はこれでも現実の方を重視しているんだ! 現実対二次元の割合は六対四なんだぞ!」

「そもそもそんなことを宣言する時点で何か間違ってると思うんだが」

「ああ、そういや昨日買ったエロゲがさ」

「言ってるそばから一般人にはついて行けない話題を振って来るよな。お前」

 俺の言葉も空しく皐月のエロゲトークが続く。あのキャラが可愛いとかあのライターは神だとかあのゲームはオープニング詐欺だとか。到底何を言っているか理解出来るものじゃない。

「春人もやってみろよー。マジでエロゲに対する認識変わるから」

「そもそもエロゲは学生がやっていいものなのか?」

「俺からすれば、学生こそやるべきだね。だって主人公とかヒロインってだいたい学生だし。感情移入しやすいってのもあるだろ?」

 ああ、それは一理あるかもしれない。……ってなにを思ってるんだ俺は。

「気が向いたら借りることにするよ」

「神作を用意してその日を待ってるぜ!」

 なんでこいつは二次元関係の話になるとテンションが上がるんだろう。水を得た魚ってやつなのだろうか。

「そう言えば春人、あの噂聞いたことあるか?」

「噂?」

 オウム返しに聞き返すと、神妙な顔をした皐月がその内容を話した。

「なんか、軽音部じゃないところからギターの音が聞こえてくるとか」

 その話をされた瞬間、頭の中で昨日聞いたギターの音が再生された。やっぱりあれは……気のせいじゃなかった?

「皐月、その話もっと詳しく教えてくれるか」

「なんだよ、やけに食いついてくるじゃん……。まあ正直、俺も詳しいことは分からないんだ。そういう話があるってのを聞いただけで。あと俺が知ってることといったら、この学校には地図上存在しない場所があるってことくらいか」

 何だそのゲームみたいな設定は。

「ほら、最近増築工事しただろ、この学校。その工事の都合上で出来たスペースが、利用されないまま残ってるらしいんだ。まあこれも『らしい』ってだけだから、本当かどうか分からないんだけどな。そこらの生徒が面白がって七不思議とか言ってるよ。二つしかないのに何が七不思議だよってな」

 皐月が言い終え、見計らったように昼休み終了のチャイムが鳴った。どちらからともなく席を直し、午後の準備を始める。

でも授業の内容が頭に入るかは微妙なところだった。

 頭の中は昨日の出来事と皐月の話に埋め尽くされていた。



 放課後、俺は例の廊下に来ていた。昨日ギターの音を聞いた、あの廊下だ。

 皐月が聞いたという話が本当であるなら、俺の体験も気のせいでなかったということになる。それを突きとめたいと思った。

……いや、本当のところを言えば、俺は惹かれていたのだと思う。何秒も聞いていない、あの歪んだ音に。

 昨日と同じく廊下には誰もいなかった。無音の空間には足音だけが響く。特別教室ばかりが並ぶエリアには教室内にも誰ひとり存在しない。ここにいるのは自分一人なのだと改めて実感する。

「……ここら辺、だな」

 丁度音の聞こえたところにたどり着いた。意識しなければやはり何も聞こえてこない。

 気持ちを落ち着け、目をつむって耳をすませる。聞こえてくるのは……校庭の喧騒。

本当にそれだけか? いや、ほんの……かすかに……。

 ――――――ジャラーン……――――――

「聞こえた!」

 心の中に留めようとした叫びは思考を無視して現実の空気を振動させた。それほどに胸が高鳴っている。未知との遭遇を予感させる映画のワンシーンのような興奮を覚えた。

 一歩一歩、音のする方へ歩を進める。極限まで研ぎ澄まされた聴覚が確実に俺を音源へと導き……やがて、

「……壁だ」

 たどり着いたのは教室と教室の間の壁だった。正確には「壁の向こう側」か。馬鹿げた話だがそれでも音はそこから聞こえてくるのだ。

「そう言えば……」

 皐月が言っていたもう一つの話を思い出した。確か存在しないはずの場所がどうとか。

そのとき、ある推測が俺の頭に浮かびあがった。二つの話はリンクしているんじゃないか、と。突拍子もない話だがそう考えれば辻褄が合う。問題はその正誤をどう確かめるかだが。

 少なくとも中にはギターを弾いている人が一人はいる。なら、中に入るための手段が存在するはずだ。壁の中に入る方法……。

 ふと思い立った俺は、壁に向かって右側の資料室に入った。入ってすぐ視界に入って来るのは書籍の類が限界まで詰め込まれた、天井まで高さのある棚だ。それらが所狭しと立ち並ぶこの教室には一方通行の迷路が形成されていた。

 その中にひっそりと存在するのは掃除用具入れのロッカー。どこの教室にもあるものだが、この空間では場違いに異彩を放っていた。そしてそれは、音の聞こえてきた壁に面して置いてある。

 躊躇いはなかった。俺はロッカーを力いっぱいに壁から引き離すよう引っ張った。

「……ははっ。まさか本当に当たりだとは思わなかったな」

 ロッカーの裏には壁ではなく、さらにその奥へと続く道が隠されていた。ギターの音はさっきよりも格段にクリアなサウンドを響かせている。どうやらこの奥にギターを弾いている人がいるのは間違いないようだ。

俺は「壁の中」に入ったところでロッカーを元の位置に戻した。隙間から差し込む僅かな光だけが道を照らす光源だ。

「階段か……」

 どうやら道は地下に続いているらしい。どれだけ壮大な増築をするつもりだったんだこの学校は。

 予想に反して道のりは長いものではなく、ほんの数秒で明るい光が見えてきた。一気に階段を駆け下りると、視界を埋め尽くす広大な空間。そして俺を出迎えたのは、

 

 鼓膜を揺るがす、大音量のディストーションサウンド。


 あたり一面白塗りの壁で作られた立方体の空間。

 

 背景と同じく純白を纏ったエレクトリックギター。


 そして、それを操るたった一人の少女――


 言葉を失った。ただそこに立ちつくした。どうしたらこんな光景、予想出来たと言うんだろう。

「……誰?」

 夢の中のように虚ろな意識を現実に呼び戻したのは少女が発した声。音量は小さいが耳触りの良い、いつまでも聞いていたくなる様に綺麗な声だった。

「ええと、何て言ったらいいのかな。廊下でギターの音が聞こえてきたから、もしかしたらって」

「ふふっ、『もしかしたら』程度の考えでこの部屋を見つけたの? あなた面白いわ」

 俺は少女に歩み寄った。警戒の素振りは見えず、物珍しげに俺を見てくるだけだった。

「ようこそ『ここ』へ。私は宮代深雪。高等部の二年よ」

「あ、じゃあ俺の先輩ですね。藤條春人、高等部の一年です」

「……」

 名乗った途端に会話が途切れてしまった。先輩は俺の顔をまっすぐに眺めてくる。

艶やかなダークブラウンのセミロングヘアーが二つに結ばれ、キメ細かい首周りの肌がむき出しになっている。髪色と同じ黒茶色の双眸には一点の曇りもなく、桜色の華憐な唇とともに上部の照明を受けてキラキラと輝いていた。上目遣いに首を上に傾げてくる子供のような仕草からも先輩の小柄さが窺える。百五十センチ無いだろう。所謂、幼女体型というやつなのだろうか。でもなぜだか先輩にはマッチしている気がした。こんなこと言ったら怒られてしまうのだろうけど。

一通り俺の顔を眺めた先輩は、満足したのか「へえ」と呟いた。どことなく、その表情は悲しそうにも見えた。

「あなたもギターをやっているの?」

 しかし発せられた声には悲しさなどかけらも感じられない。俺の気のせいだったのだろう。

「ええ。まあ」

「だったらこんなところじゃなくて、軽音部に行くべきね」

「行きましたよ。テストには落ちましたけど」

「そう。まあ、あそこの判断基準はちょっと特殊だしね」

 先輩は話している間外していたギターのストラップを再度肩にかけた。そしてポケットからピックを取りだす。

 先輩のギターは特徴的で、第二弦だけ弦の色が赤に塗られていた。

「ここで会ったのも何かの縁でしょう。少し聞いて行く?」

「いいんですか?」

「少しだけよ」

 

 答えが返って来るのと同時。先輩の右手が振り下ろされ、音が生まれた。


 それは時間にしてどれほどの出来事だったろうか。

何秒? 何分? 何時間? 時間間隔が狂う意識の中、先輩の指が機械のように正確に動いていたことだけを覚えている。

 傍から見れば何の変哲もない、「ただの演奏」だった。でも逆に言えば、俺は「ただの演奏」で意識を完全に持って行かれたのだ。

この感覚は……そう、子供の頃に兄さんのライブで感じたときの、高揚感と似ている。


この人が本気で弾いたら、どんな音が生まれるんだろう?

この人と一緒に弾けたら、どんなに気持ち良いんだろう?


演奏が終わったと気付いたときに思っていたのはそんなことばかりだった。

お互いが無言の空間に先輩が吐いた息の音が残響する。

「……満足?」

 無表情のまま首を斜め十五度に傾げた先輩が聞いてきた。

「明日、もう一度。今度は俺もギターを持ってきますから」

 ぼんやりとした思考がまとまらないまま、文脈を完全に無視した言葉が吐き出された。一方的に自分の言いたいことだけを伝える、なんとも自己中心的なコミュニケーションだった。

「……そう。分かった」

 しかし先輩は僅かに表情を緩め、受け入れてくれた。変な奴とでも思われたのかもしれない。

それでも構わないさ。実際俺は変な奴だ。

たった一度聞いただけの音に。それを奏でる少女に魅了されてしまったのだから。



 翌日の放課後、帰りのホームルームが終わるやいなや俺は教室を飛び出した。肩にギターケースを背負い、一直線にあの部屋に向かって。

 目的地に到着したとき、そこに先輩の姿はなかった。流石に早く来すぎたのかもしれない。

「はしゃぎ過ぎだよな、俺」

 苦笑して、改めてこの部屋を眺めまわしてみた。

目測十メートル四方の真っ白い空間には、全くと言っていいほど何もない。視界に入るものは、今俺が部屋に入った時に自動点灯した、体育館に取り付けられているものと同じ形をしたライト、簡素な造りをした椅子が一つ、そしてその横に音を生み出す心臓であるギターアンプ。

昨日は先輩が座っていた椅子。先輩の私物なのか分からないが、今だけ使わせてもらうことにし、俺はケースからギターとシールドを取りだした。

音を出すまでのセッティングは子どもの頃から数え切れないほど続けてきた行程だ。自分でも手慣れたものだと思う。

軽く玄にピックを当てれば聞き慣れたサウンドが体中を駆け巡る。徐々にペースを上げて適当にメロディを奏でる。コードから単音、単音からコードへ。粒のそろった音は濁りなく純粋な「音」を表現してくれる。

時間にして数十秒だった。それだけで自然と笑えてくる。傍から見たら気持ち悪いかもしれないけれど。

なんとなく溜息を吐いた。刹那――


パチ、パチ、パチ……。


乾いた音が、控えめだが拍手といえる音が響いた。俺は突然のことに驚きつつも音源と思わしき方に目を向けた。

「先輩……」

「綺麗な音出すのね、あなた」

 言いながら近寄って来る先輩の肩にはギターケースが掛かっている。それは先輩にしか使うことのできない「魔法」を具現化するツール。

「その腕で入部出来ないなんて、軽音部も随分と落ちたものだわ」

 一応褒め言葉なのだろうと解釈し、控えめにお礼を言ってみた。

「ありがとうございます……って、いたのならいるって言って下さいよ」

「そうしたら邪魔になるでしょう」

 その言葉に、俺は小さな驚きを覚えた。

失礼な話だが先輩はもっと社交性のない人だというイメージがあったのだ。何せこんなところに一人引きこもってギターを弾いているような人だ。話し方や性格も淡泊だし、人との交流をあまり好まない人かと思っていた。

 俺はまだ先輩のことを何も分かってなどいなかった。ただ、ギターが上手い人だってことしか知らなかった。

 ギターはきっかけにすぎなかったのだ。宮代深雪という人に出逢って、もう少しだけでもいいから、一緒にいたいと思い始めたきっかけに。ギターを弾いている時以外の、何でもない日常に見せる表情を知りたいと欲したきっかけに。

「で、どうするの? 一応私も弾ける準備はしたけど?」

 先輩のことをもっと知れたらいいと思った。

優しさだとか、厳しさだとか、面白さだとか、弱さだとか。良いところも悪いところも。きっと色々な魅力にあふれている人だと思ったから。

そこに根拠なんてない。そんなもの、姉さんの弟だってことで十分だ。

 やりようなんていくらでもある。これからも会って、隣で先輩を一人の女の子として見続けるのも方法の一つなのかもしれない。

でも俺には、俺「たち」には、もっと確実なやり方があるはずだ。

「一緒に弾いてくれますか? 先輩」

 お互いがギタープレイヤー。ならば使うのは言葉でなく「音」であるべき。きっとそれが、先輩を知る一番の方法だと思った。

 先輩は一度目をつむった。数秒の空白。そして、

俺の目に映ったのは、触れればたちまちに壊れてしまうように儚げで、薄い、薄い、雪の結晶よりも繊細な笑みだった。


「じゃあ……ついて来てみなさい?」


 言葉は一瞬。先輩と俺の音が真っ白い空間を音の絵の具で染め上げた。

 最初が全力。いきなりの超絶技巧。指の動きが人のそれではないと思ってしまうほど。

 ギターとはこんな音が出るものだったのか。

俺が今までやって来たギターとは何だったのだろう。先輩の演奏を最高峰のクラシックオーケストラだとするのなら、俺の演奏など小学生のピアニカがいいところだろう。

 先輩は涼しい顔で機械のように淡々と音を出し続けていた。……まったく、こっちは必死でやっているのにそんな余裕の表情をされたんじゃ堪ったもんじゃない。

 天と地ほども差があるってのはこういうことを言うのだろう。

真っ白い空間は先輩の奏でる夢幻の色彩で天衣無縫に彩られ、塗りそこなわれた僅かな綻びを俺が必死に修正していく、そんな様。

 ついて行けているのか、と言われたら答えは否だ。とてもではないが同じレベルで演奏するなんて不可能だった。

 ついて行けない。ならばついて行かなくたっていい。大事なのはそんなことじゃない。

 

 旋律の一端を、確かに俺は担っている。それが全てだ。


 俺は今、今までギターを弾いてきた中で一番の音を出せている。

でも目の前にはそれをはるかに凌駕する弾き手。酔いしれてやまない「魔法」を魅せる弾き手が、自分と二人で音を作ってくれているのだ。なんとも光栄なことじゃないか。

『ギターは麻薬である』

誰かが昔言っていた言葉が今なら理解できる。いや、そう言うと語弊があるかもしれない。なにせ理解のための意識なんてもの、とうに吹っ飛んでしまっているのだから。

あるのはただ、ギターを弾き続けたいという本能だけ。

 もう、何も分からない。

願わくば時を忘れて、指が動かなくなる、そのときまで――



「…………」

「…………」

 演奏が終わり、音の余韻も消えた。そして二人とも無言だった。

ギターのストラップを肩に掛けたまま、だらしなく地べたに腰を下ろしている。気力という気力が失われ、満足感という言葉で表現されうる領域をとうに越した体は立つのだって億劫だ。茫然自失という表現がこれほどにふさわしい状況もないだろう。

 でもまあ、いつまでもこうしてるわけにもいかない。先輩に言わなくてはいけないこともある。

「先ぱ――」

「満足した?」

 掛けようとした声が先輩に遮られてしまった。タイミングを逃した俺は再び無言を作り出してしまう。

「……私はね、今まで誰かと一緒に弾いたことが無かった。新鮮な体験だったわ」

 それは俺も同じだった。初めて誰かと音を合わせ、初めての感覚を味わった。きっと、先輩以上に。

「さあ、帰りましょう。きっと今日は良い気持ちで寝れるわ」

「先輩!」

 片付けを始めた先輩の手が止まった。視線だけがこちらに向けられるが、直前の言葉と裏腹にその表情は無感情、いや、つまらなげに見えた。

「……先輩。俺と、バンドを組んでくれませんか?」

 その表情に多少の後ろめたさを覚えた。

俺は先輩に全然ついて行くことが出来なかった。勝手に舞い上がっていたのは俺だけで、先輩は楽しくも何ともなかったのかもしれない。でもだからこそ、このままで終わらせたくなかった。

「俺の技量が足りないのは分かってます。先輩には到底及ばないし、退屈かもしれません。でも、俺ももっと練習します! 一歩でも先輩に近付けるように努力します! 先輩と一緒に弾き続けていたら、何かが変わる気がするんです! こんな高揚を、今回限りで終わらせたくないんです! お願いします! もう少しだけ、俺と一緒に弾き続けてくれませんか!」

 言い終えて俺は頭を下げた。冷静になってみると何て不器用な口説きだったんだろう。自分の言いたいことの半分も言えていない。やっぱり言葉ってのは難しい。

「……藤條。頭を上げなさい」

 それは小さな声だった。どことなく悲しみ、いや、悔恨を感じさせる、子供が親に後ろめたいことを隠しているような。

 自分がそう感じただけなのだから、先輩がそんな気持ちでいるとは限らない。実際、顔を上げて俺の目に映った先輩は微笑っていた。しかしそこに見えるのはやはり悔恨、悲壮、罪悪感。      そんな中で――


「私は人殺しよ?」


 先輩は静かに、そう、告げたのだった。



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