8話 掌中の珠
大変お待たせ致しました。8話です。
更新ペースを上げたい…。
その日の放課後。私はヨーコに会いに三年の教室や部室に行った。しかし、彼女に会う事は叶わず、一人で下校する事になった。サリは今日は家の手伝いがあるとの事で、私に今日の連絡係を承ったのだが…以上の様な結果である。会いたく無い時にやって来て、会いたい時には会えないとは全く間の悪過ぎる女だ。
口の中で味のしなくなったガムを包み紙にプッと吐き出し、直ぐ側のゴミ捨て置き場ーー回収された試しなど無いが、ゴミの山に投げ捨てる。学校の周辺こそ手入れが行き届いているが、私の家の近くまでやって来ると様々な異臭がする。それは犬猫の糞尿であったり、産業廃棄物から漏れ出した油の臭いであったりする。これは未だマシな方で、貧民街の方まで行くと生ゴミやヘドロと化した様な物の訳の分からない異臭がする。自分達の生活で必死で、周囲の環境にまで目が届かないのである。貧民街の人達を見下す訳ではないが、生活ゴミをきちんと処理しご近所迷惑にならない様配慮するだけの余裕がある分、恵まれていると思わなければならない。犬猫の糞尿は畑の肥料になるし、火災は頻繁に起こるが海も近い為大した弊害でもない。手慣れたものだ。
「しっかし、この区画、最近やたらとゴミが増えたな…。羽の枚数の足りない扇風機に、割れた照明器具…なんだこれ、首の無い人形…不気味だな、誰だよこんなに捨てる奴」
先程ガムを放り投げた事は棚に上げて、狭くなった道を歩く。
足元に気を取られていると、不意に背中が軽くなる感覚がした。
「ーーー?………っ!?」
ーーない。
背中に担いでいたライフルが無くなっている。あるのはライフルを差していた皮のベルトと、右手でぶらぶらさせていた汚い通学鞄のみ。振り返って辺りを見渡してみるが、何処にも落ちてなどいない。そもそも、落としたのならガチャンと音がして分かる筈である。
「…間違いない。大物だ」
「誰だっ!?」
僅かな、小さな呟きであった。私はその声を聞き逃さず、その呟きのあった方向に視線を向ける。
「…チッ」
「お前…非国民か!」
私よりも一回り小さい少年。焼けた肌に粗末な衣服を見に纏い、獣の頭蓋骨を被っている。表情は骨に隠れて見えない。が、決して良いとは言えない薄暗さがその小さな身から感じさせた。
「それは私の大切な物なんだ。返してくれ。今なら咎めはしなーーってテメェ!!」
私の言葉が言い終わる前に、少年は駆け出した。粗大ゴミの山を物ともせず軽業師の様にかわし、時には踏み台にして私から距離を取る。此処で黙って見送る訳にはいかない。手荷物を投げ出し、少年の後を追う。
「…………」
私の追走を横目に見た少年は、狭い路地に入る。薄暗く入り組んだその路地は、追手を巻くにはお誂え向きだ。
路地の入り口、置き忘れ去られた果物箱を踏み台に生活水や汚水、何らかの生活手段として家に繋がれたパイプの上へと飛び移る。ギジリと嫌な音がしたが構っている暇は無い。細く不安定なその上を一気に駆け抜ける。パイプが途中で途切れたならば、手近の次のパイプへ。また次へ。時には何かの店の看板をひっくり返し、屋根の庇に出来た鳥の巣を破壊し乍ら少年の背を追った。右へ左へ曲がる度に見失いそうになる小さな姿に、無我夢中で迫った。
「…しつこい」
「返せ!返せつってんだよーー!!」
気が付いた頃には住宅地から離れ、工場地帯まで入り込んでいた。障害物は大きくなり、飛び移れる様な足場も少なくなって来た。山積みにされた何らかの商品の陰に、すっぽりと少年が隠されてしまう。上から攻めようと壁に纏わりつく一際大きなパイプへと移動するも、次の足場が何処にも見当たらない。其処で道幅が広くなった為、反対側へ移る事が出来ない。
「クソ、此処で見失う訳にはーー」
地面に降り立ち、遠回りになったが少年の曲がった角を曲がる。私も追い辛いが、それは少年も同じ筈。ごみごみした路地裏で発揮されたあの軽業でも、流石に聳え立つ工業器物を踏み越えて逃げ出す事は容易ではあるまい。考えられる行動としては、撹乱することを諦め一直線に走る持久勝負に出るか、隠れ遂せるかだ。
「っうあ、やめろ!ウッ……!」
「!見つけ、」
た。目を皿にして追い掛け、再び視界に少年の姿を捉える。少年は足を止めーー否、足を宙にバタバタと浮かせ、不規則な呼吸を繰り返していた。
「…何だ、未だ居たのか。お前の方は、ニホン国民の様だな、此処は立ち入り禁止区域だ。速やかに立ち退け」
頭にヘルメットを被った作業員が、少年の首に手を掛けたまま、冷めた口調で私に警告する。もう一人の男が、ライフルを取り上げ点検をしている様だ。
「…ああ、用が済んだら直ぐに帰る。それは私の物だ。返して貰おう。ーーそれに、その子もだ。」
「口の利き方のなってないガキだな。これは、お前の様な子供が持つ様な物ではあるまい。私達が預かり、然るべき機関に送ってやろう。」
ーー嘘だ、と私の直感が反応する。あれは、金に目がくらんだ者の顔だ。其処らの破落戸と変わらない。
少年は必死に抵抗するものの、大の大人相手には敵わない様で苦しげな声が耳に届く。
「そんな権利、お前等には無いだろ!返してもらうー!!」
大人相手に、私がどれだけ戦えるか分からない。だが、私も兵士として生きる事を選んだ身だ。すごすごと引き退る事など出来ない。
「っ!刃向かう気か!!」
「がっ!?このガキ…!!」
少年を掴んでいる方の男に走り出し、その勢いのままドンと身体を打つける。驚いた男は少年の拘束を解きその場にたたら踏んだ。その隙を突いて少年はもう一人の男からライフルを奪い取り、駆け出した。私も少年の後に続きたいが、二人の男の壁が邪魔をする。未だ体勢を崩している男の無防備な鳩尾に拳を撃ち込み、痛みで身体を丸めるその背に左手を据える。ライフルを奪われたもう一人の男が私を打ちのめそうと背後から迫るのを、左手を重心にして踏み込み、身体を浮き上がらせて右足で制裁した。蹴りがちょうど男の頭に炸裂し、飛び上がった勢いのまま少年の去った方向へ飛ぶ。
「悪いけど、あんた等に構ってる暇は無い。じゃーな」
男達の怒鳴る声が、日の落ちた工業地帯に響く。その内容は凡そ私を罵るものであったろうが、気にする余裕も無くその場から逃走した。
***
「…踏んだり蹴ったりだな…」
男達の相手をしていた時間が命取りになったのだろう。少年の去った方向へ向かった積りだったが、何処にも見当たらない。完全に見失ってしまった。日は沈み、見つけ出すのは最早困難だろう。全力で走った為息はもう途切れ途切れ。体力も限界だ。
ーー大切な、たった一つの父の形見を無くしてしまった。
仕事を終えて帰宅しているであろう、母に何と説明しよう。ライフルで戦いたいと思っていたのに、此れから如何すれば。
ふらふらと宛ても無く歩いていると、気が付けば海岸まで来ていた。ごつごつとした岩肌が迫り、少なくとも人が出入りしている事の無い、海辺。私は一際大きな岩へとよじ登り、その頂に腰を掛けた。目の前には吸い込まれそうな程の闇を纏う海。対岸にはポツリポツリと小さな光が見える。…私の住む、居住区だ。
「…帰りたく、ないな…」
はあ、と溜息を吐き、蹲る。今回の事は相当に堪えたらしい。思い出されるのは、あのライフルを初めて貰った日の事。
父が死んだと聞かされて、母は数日涙に暮れた。この時、私は如何過ごしていたのか分からない。顔も思い出せない父だが、その父の事が大好きだったという感覚は今も覚えている。しかし、母の様に泣いたのか、死を理解出来ず無邪気でいたのかーー記憶は、曖昧なものとなってしまっている。
しかしある時、同じ考古学者である叔父、父の弟が家に尋ねて来た事があった。その日辺りから、母はあまり涙を見せなくなった気がする。そして何時だったかーーまだ幼い私にライフルを見せ、言ったのだ。
「シノ。よく聞きなさい。貴女のお父さんは、死んでしまった。もう、私達を守ってはくれないの。」
ーーお父さん、もう会えないの?
「そうよ。もう、二度と会えない。…でもね、お父さんは自分にもしもの事があった時の為に、自分が居なくても大丈夫な様にって、此れを残したそうよ。」
ーーなあに、このまっくろなの。
「私達を守ってくれる、武器よ。ライフルって名前の武器らしいのだけれど…使い方は、もう少し大きくなったら叔父さんが教えて下さるって。」
ーーらいふる?…これ、わたしがつかうの?
「ええ。私も使えれば良いのだけれど…お父さんは、シノに持っていて欲しいって言っていたらしいのよ。」
ーーお母さん。わたし、こんなのいらない。お父さんがいい。お父さんに会いたいよ。
「…ごめんね。シノ。ごめんね…。」
私が癇癪を起こして、母の手から離れたライフルを投げ出そうとした時である。私の小さな腕をぐっと掴み、ライフルを握らされた。
「そのライフルが、いえ、お父さんが此れからも私達を守ってくれる。ーー大切にしてくれるわよね。」
母は、あのライフルは父なのだと言った。もう二度と会えないけれど、ライフルを抱いていると、不思議と心が温かくなる気がした。小さな子供に武器を持たせるなど危険だと思われるかもしれないが、私にとって、また母にとっても一つの精神安定剤となっていた。
それが、今はない。
「お父、さん…」
か細い、自分らしくも無い声が闇夜にぽつりと浮かんだ。その言葉は暗闇に掻き消され、弱い自分の存在だけがこの場で主張している。じわりじわりと涙が滲み、悔しさや情けなさで涙腺が決壊し止まらない。嗚咽交じりに、父の名を呼ぶ。こんな如何しようも無い憐れな人間をあやしてくれる人物なぞは何処にもいない。
…………………………
………………
……
…
「……おい、………おい!」
……どれだけの時間其処で蹲っていたのだろう。
何者かが呼び掛ける声で、意識を浮上させた。いつの間にかうつらうつらと眠りそうになっていた様だ。
「誰……って、お前……!」
私の隣の少し背の低い岩の上に、先程の少年が立っていた。獣の頭蓋骨を被った、薄汚れた衣服を纏う褐色の少年。その手には父の遺品ーーライフルが握られていた。
「…これ、アンタに返す。さっき助けて貰った礼だ」
「礼って…それ、元々私のだろうが!!」
差し出されたライフルを立ち上がってばっと奪い返す。ぎゅっと抱え込む私の仕草に、少年はギョっとしてたじろいた。
「…なんだよ、そんなに大切な物ならちゃんと持っておけよな。あんな事が無かったら、俺絶対返そうなんて考えなかったし…」
まだ声変わりを迎えない高い声で、ブツブツと何か言っていた様だったが、私は安堵からぺたんとその場にへたり込んだ。ーー大切な思い出が、確かに戻って来た感覚。また涙が出そうになったが、少年の手前ガシガシと腕で顔を拭いて、何でもない風を装う。
「もう二度と盗みなんてするなよ。お前、見た所非国民みたいだし、また捕まったら命は無いぞ」
「…アンタにそんな事を言われる筋合いは無い。俺はこれが仕事なんだ。仕方ないだろ」
非国民とは、ニホンの国民として認める事が出来ない存在を総称して呼ばれる名前だ。ニホンの法律、秩序に従えないあぶれ者。貧困を極め税すら納められない者。ニホンから独立し、自分達の独自の社会を構成している者ーー様々な事情はあろうが、共通してその身なりは余りにも貧相だ。
裕福とは言えない私でもゴミにして捨ててしまう様なボロ切れを纏うこの少年は、何処から如何見ても非国民だ。
非国民に、人権は存在しない。
「…お前、名前は?」
「…はあ?」
「名前。あと、顔も見せろ。私に悪いと思ってるならな。」
少年の表情が歪んだ、気がした。命の恩人の私に、これ以上逆らう事は躊躇われたのだろう。おずおずと頭蓋骨を取り、反抗的そうな吊り目を私に向ける。
「……ハヤ。ただの孤児だ。生きる為に仕方なかった。…悪かったな。」
闇が深くて、その表情ははっきりとは見えない。だが長い睫毛に彩られた綺麗なマリンブルーの瞳が、非常に印象深く残った。
「…アンタは」
「え」
「アンタの、名前だよ」
「…シノだ」
「…シノ、か。もう夜も遅い。アンタには帰りを待ってる人が居るんだろ。こんな所でメソメソしてないで、さっさと家に帰りな」
「んなっ!?メソメソなんか…っ!」
少年、ハヤの顔に気を取られていると、酷く歳上を小馬鹿にした言葉を浴びせられた。用件は済ませたとばかりに、獣の頭蓋骨を被り直し、身軽そうにひょいと岩を降りてゆく。
「じゃあな」
言葉少なに、闇に消えゆく。私には帰る家がある。…彼は、一体何処へ帰るのだろう。
私は、暫くその場を離れる事が出来なかった。