マンホールの世界
「雨、ますますひどくなってきたなあ。朱莉ちゃん、車には気をつけて帰るんだよ」
「はいはい、気をつけまーす。先生も自転車通勤なんだから、事故ったりしないでよね。結構どんくさいんだから」
「そうかなあ。そこそこしっかりしたタイプだと思うんだけど」
「答え合わせがずれて、私の満点答案を赤点にしたのは誰だっけ?」
「め、面目ないです……。あ、そのヘアピン可愛いね。新調したの?」
「話そらさないでよ。っていうか、気づくの遅すぎ。……でも、ありがと。じゃあね」
「うん。もう遅い時間だし、本当に気をつけてね」
谷崎先生に手を振って、教材が入ったリュックを背負った私は、駅前の学習塾を後にした。チェック柄の傘を叩く雨脚は激しく、さっそくジーンズとスニーカーがびしょ濡れになる。夏特有の鬱陶しい熱気も相まって、不快感が急上昇だ。
今日は十九時半から二十一時まで、高校受験を見据えた英語の個別授業を受けていた。私の担当は、さきほど見送ってくれた谷崎将也先生。谷崎先生の授業はとても丁寧で分かりやすいので、塾で英語を教わる時は必ず先生がいる日に予定を合わせている。
ただ、彼の授業を受けたい理由はそれだけではなく、
――可愛い、かあ。
前髪につけた花柄のヘアピンをそっと撫でる。塾の方へ振り返ると、先生はちょうど室内に戻るところだった。私が背を向けてからも、しばらく見送ってくれていたらしい。そう思うと陰鬱な空の下でも、心は晴れやかになるのだから不思議だ。
谷崎先生は、かなり有名な大学に在籍している理系の三年生……なのだけど、おっちょこちょいで、のほほんとしていて、なんとなく頼りない。でも、誰に対しても優しくて、質問をすれば親身になって答えてくれる面倒見の良い人でもある。私はそんな先生に前々から好意を寄せていた。あと、ちょっとたれ目なところもタイプだったりする。
――今日は振替えにしなくて良かった。ヘアピン褒めてもらえたし。
Tシャツにジーンズという地味な格好で家を出た時は「しまった、ダサい」と己の迂闊を噛み締めたものの、先日雑貨屋で買ったヘアピンが功を奏した。誘ってくれた彩香には感謝してもし足りない。
駅前の小さなロータリーに沿って歩き、国道へ向かう。東京都の駅だとはいえ、都心からはだいぶ離れているため、行き交う人々はちらほらとしか見受けられない。
――なんか、心細いなあ。
普段は家から塾まで自転車で通学しているのだけど、その自転車が昨日パンクしてしまったせいで、三十分弱の時間をかけて歩くはめになってしまった。両親の自転車を借りようにも、二人共通勤で使っているから甘えられない。
それだけに、帰路が億劫に感じられる。雨と傘、加えて夜道のせいで見通しはきかないし、雨音がうるさくて人や車の接近が分かりにくい。遅まきながら、私はこういう雰囲気が苦手だったのだと気づいた。勢いで心霊番組を観ることはあっても、就寝時になってようやく後悔するタイプ、それが私だ。
――ちょっと怖いかも……。
信号を待っている間、私はきょろきょろと辺りの様子を窺った。左側から小型のトラックが、右側からは黒いワゴンが迫ってくる。一方、歩道に通行人の姿は二、三人――
「ぎゃっ!」
ワゴンが目の前を通り過ぎる瞬間、道路に溜まっていた雨水を派手にひっかぶってしまった。胸元までぐっしょりとした気持ち悪さに包まれる。車に気をつけろと先生が注意していたけど、この意味も含まれていたのかもしれない。
「もう最悪……」
声に出してみても、機嫌は一ミリだって治らない。
――早く帰って、お風呂入りたい……。
片側一車線の横断歩道を小走りで渡り切る。
そこで私は思案した。しばらく国道に沿って自宅に向かうか、路地に入って最短距離で自宅を目指すか。
途中までは人通りと街灯があって安全なのが前者、薄暗くて不気味だけど早く帰宅できるのが後者だ。
――うーん、どうしようかな。
立ち止まってあれこれ考えているうちに、手前の道路から大型トラックが猛スピードで突っ込んできた。
「うわっ!」
とっさに駆け出して雨水の津波を避けると、私の体は路地へと入り込んでいた。
――よし、こっちにしよう。
もたついていたら風邪を引いてしまうし、少々の恐怖を我慢すればいいだけの話だ。そう自分を鼓舞し、競歩と見まがう速度で民家に挟まれた薄気味悪い路地を歩みはじめた。
その時に漠然と感じた違和感は、頭の片隅へ追いやってしまった。
アスファルトを打ちつける水の音が、ひっきりなしに鼓膜を揺さぶる。さきほどより雨脚が強まっているようだ。
その影響か、しばらく路地を進んでいくと珍しい光景に出会った。
「わ、すっごい」
道の真ん中に設置された鈍色のマンホールの蓋が、せり上がってくる水流に耐え切れず、その身を小刻みに震わせている。
「おもしろーい」
今をときめく女子中学生の性だろうか。少し臭いはきついけど、私はSNSに投稿するため、背負ったままのリュックを手繰ってスマホを取り出した。
傘の中棒を肩と首の間に挟みつつぱしゃりと撮影。それと同時に蓋が若干持ち上がったから、きっと良い写真が撮れているに違いない。
そんな風に期待していたのだけど、画面には奇妙なものが写り込んでいた。
「なんだろ、これ」
蓋の下から、なにやら白っぽくて細長いものがいくつも這い出ているのが確認できる。
その部分を拡大してみると、細長いものは全部で五本ある。さらに目を凝らして見つめると、それはまるで人間の指のように感じられ、今にもうねうねと蠢いて足首を掴んできそうな――
ぞわっと二の腕が粟立った私は、画面から目を滑らせて、恐る恐る足元の被写体に視線を向けた。
「ひゃっ!」
指が、五本どころかその倍の数の指が、汚水あふれる地下から這い出ようとしていた。
――な、な、なにこれ、人間なの? まさか、死体?
下水道を漂う死体が、大雨の影響によってマンホールから現れた。その死体は、名探偵のかつての相棒だった……確か、そんなミステリー映画を見た記憶がある。
でも、死体は決して動いたりはしない。だって、死んでいるのだから。
なのに、
目の前の指は、ゆっくりとこちらに迫ってくる。
――もしかして、生きてるの……?
下水道の作業員か、もしくは穴に落ちた不運な通行人か。とにかく、息があるのなら助けてあげないと、本当に死体になってしまう。
正義感に突き動かされた私は、スマホをしまってしゃがみ込み、蓋を持ち上げるべく手を伸ばした。
その時、
「きゃっ!」
緩慢に動いていた指が急に伸び、私の右の足首に絡まりついてきた。
直後、ぞっとする冷たさが足首から太ももを走り、全身を駆け巡る。
――ち、違う、こいつ人間じゃない!
手指から感じるのはただの冷気ではない。もっとたちの悪い、気が狂ってしまいそうな極寒の怖気だった。
私が愕然としている間、病的なまでに白い手指の圧力が一層増し、右足が奈落の底へ引きずり込まれていく。
「やだ、離して!」
腰に力を入れて踏ん張ったものの、向こうの力に負けて水浸しの路面に尻餅をついてしまった。そのままずるずると、足首が生温い下水に呑み込まれる。
命の危機を悟った私は、半狂乱に陥りながらも折り畳んだ傘の先端で化物の手の甲を突き刺した。
予想外の抵抗に怯んだのか、万力のごとき力を放っていた手が足首からぱっと離れる。
この機を逃さず、私は急いで立ち上がると傘も放り出して路地を駆け出した。
雨が冷たい。肺が苦しい。涙がにじむ。足が痛い。衣服が臭う。
路地から閑静な住宅街へ逃げ延びた私は、背後に注意を傾けつつ必死に走っていた。もしあの化物がマンホールを抜け出して襲いかかってきたら……そんな想像を膨らませてしまうと、もう立ち止まれない。
後ろを振り向く。豪雨のカーテンが引かれた住宅街は、化物が追ってこない代わりに通行人の気配も感じられない。
と、よそ見をしているせいで前のめりに転んでしまった。打ちどころが悪く、右膝に激痛が走る。
――ダメ、立ち止まってる場合じゃない……!
痛みと涙をこらえ、体を起こす。
ぼごっ……
眼前で、不吉な音がした。
ぼごっ、ぼごっ……
マンホール。すぐそこに、マンホールがあった。蓋にあいた多数の穴から、噴水めいて汚水が湧き上がっている。
ぼごっ、ぼごごっ……
重厚な蓋がガタガタと揺れ出す。それは地下に潜む汚穢の権化に恐れ戦いているようにも、その権化が今か今かと歓喜に打ち震えているようにも映った。
――早く離れないと!
脱兎のごとくその場から逃げ出し、私は再び静まり返った町中を駆け抜ける。
辛くて痛くて、悲しくて寂しい私のぼやけた視界に、見覚えのある一軒家が浮かんできた。彩香の家だ。
「彩香、助けて!」
インターホンを連打し、門扉を壊さんばかりに動かす。もうなりふり構ってはいられなかった。
しかし、彩香は一向に姿を見せてはくれない。それどころか、
――電気、点いてない……他の家も……。
街灯は生きているのに、周囲の家々が死んでいる。人の気配や営みというものをまったく感知できない。
少し前に感じた違和感はこれだったのだ。あの路地に足を踏み入れた途端、見慣れた町のはずなのにどこか違う、様相だけがそっくりの異界に迷い込んだような感覚に陥った。あれは気のせいではなく、本能が発した危険信号だったに違いない。
――どうしよう、私、どうしたら……。
焦燥を胸に抱き、恐怖に身を強張らせながら異次元の町並みを逃げ続ける。
どこが安全地帯なのか、どこにゴールがあるのか、そもそもこの世界から脱出できるのか、なにもかもが分からない。
やがて、寂れた商店街に突入した。屋根がかかっているため雨はしのげる。けれど店内はどこも真っ暗で、人っ子一人見当たらない。
それでも、ここを通れば自宅への近道になる。とにかく我が家まで到達することを目標にした私は、店と店、シャッターとシャッターの間を急いで通過する。
が、ここにもマンホールの魔の手が迫りくる。前方には、見えているだけで三つのマンホールが下水を吐き出している。
――商店街って、こんなにたくさんマンホールがあったの……?
普段この道を通ることはあっても、マンホールの数や位置など気に留めたことがなかった私にとって、この場所は恐るべき魔の落とし穴へと変貌した。
大きく迂回して通り過ぎたマンホールから、白い指が姿を現す。その先のマンホールからは、両腕の肘関節まで露わになっていた。さらにその先のマンホールからも白い指が、そのさらに先のマンホールからも白い腕が、そのさらにさらに先のマンホールからも――
いつしか、商店街がマンホールだらけになっていた。
あまりの悍ましさに、自然と足が止まる。
――い、一体どうなってるの!?
いくら商店街のマンホールに気を向けていなかったとはいえ、いくらなんでもこの数は異常だ。私は化物の、まさしく人間離れした執拗さに骨の髄まで恐怖を味わった。
そうしている間にも、不浄の軍勢が深淵の世界より頭をねじり出してくる。私を捕らえようと、体をうねらせて接近してくる。
「い、いやああああ!」
私は走った。水溜りを蹴散らして、ただひたすらにマンホールを避けて逃げ続けた。
しかし、どこにでもマンホールは存在した。道路も、公園も、グラウンドも、駐車場も、民家の庭先も、おびただしい数のマンホールであふれていた。この世界にマンホールが生まれるのではなく、マンホールの空隙にこの世界が埋め込まれている。そんなバカげた錯覚さえ真実に思えた。
とうとう穴から白い化物が、徐々にそのシルエットを覗かせはじめる。絶対に直視しないと心に誓ったものの、数が数だけに、嫌でも目についてしまう。
白くて、細くて、長くて、ふやけていて、たゆたっていて、人間を模した輪郭の、でも不完全で不出来な異形の化物。そいつらが私の存在を認めた途端、ぶるぶると身を揺すり、濡れた路面をアメンボのように滑って追いかけてくる。
「うあああああああああ!」
顔をしわくちゃに歪めて、私は絶望の雄叫びを上げた。その行為が化物の注意を引きつけると分かっていたのに。でも、そうしないと膝から崩れ落ちてしまいそうなくらい、私の体力と精神は限界が近づいていた。
迫る化物の魔の手が私をかすめた。
にょきにょきと黒い穴から白い芽が生える。
今度は腕を掴まれかけた。
白い人影が暗い夜道を塗りつぶしていく。
魑魅が背後に急接近してきた。
体が後ろに引っ張られる。
とっさにリュックを脱ぎ捨てた。
集まり出す魍魎を振り払い、走る。
走る。泣く。逃げる。叫ぶ。駆ける。吼える。走る、走る、走る、走って――
気がついた時には、十階建ての自宅マンションの前で、私は幽鬼のごとく茫然と立ち尽くしていた。
我が身の安全を実感したのは、ポケットに入れておいた鍵でドアを開け、玄関にへたり込んだ時だった。浴槽に浸かってからは、止め処ない涙が水面に波紋を作った。
後日、谷崎先生が行方不明になっていることを塾長から聞かされた。
あの大雨の日以来、姿を見かけた人はいないのだという。手がかりとして残されたのは、人気の少ない路地に、ぽつんと備わっているマンホールの側で倒れていた、先生の自転車と持ち物だけ。先生はマンホールに落ちて流されてしまったのではないかと、塾生たちは噂していた。
それから半年近く経った現在も、先生の消息は掴めていない。
寒くて凍えてしまいそうな、仄暗い冬の日。今日は待ちに待った大雨だ。私は花柄の傘をさして、夜の町をゆっくりと歩く。
雨を眺めて思い出すのは、いつだって先生の柔らかな笑顔。温かいてのひら。そして、優しげな目元。
そう、先生は優しいから、きっとあの冷たい手を握って助け出してあげようとしたんだ。
「……先生のバカ。お人よし。おっちょこちょい」
悪態をついていると、いつの間にか目的地に到着していた。
先生が連れて行かれた、件のマンホール。鈍重な色の蓋からは、小さな噴水が湧き出ている。
「先生は、私が助けてあげるからね」
私は蓋の側でしゃがみ込んだ。いつ先生が戻ってきてもいいように、はあっと白い息を吐いて、両手を温めておく。
その姿勢のまま、じぃっと待って、待って、待ち続けて、周囲の気配が消失した頃、
ようやく私の願いが叶ったみたい。
ごぼりと水があふれ出て、重たい蓋が持ち上がった。