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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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月露

作者: 宇木志水

月にかざした手を握りしめ、開いて、力なくおろした。手の中には、月のかけらもなかった。空っぽだった。

ひどいことをしている。

俺の幸せは、あいつを傷つける。あいつの幸せは、あのひとをひとりにする。あのひとの幸せは、俺を置き去りにする。

けれどほんとうは、幸せなんてどこにもないのだ。

くしゃりと折り畳まれてしまいそうな気持ちで、深夜の舗道を歩く。街灯に伸びた影すらも、おぼろげでくたびれて見える。空き地の草むらから聞こえる秋の虫の聲が、りんりんと空気をふるわせている。けなげで、さびしい。秋の夜の虫の聲は、どうしてこんなにも心をさびしさに導くのだろう。

あのひとと、些細なことで喧嘩をした。気まずくて、家に帰れなくなった。どうせ、あのひとは、俺の家になんかいないのだろうけど。あのひとの、本当の家に帰っているのだろうけど。せっかく都合を合わせて会える夜だったのに、台無しにしてしまった。あのひとの考えていることが、ひとつも分からない。

あいつは、俺の電話には、必ず出る。もし仕事中かなんかで出られなかったときは、折り返すことを忘れない。俺は、いつだって気まぐれで、折り返し電話をかけることなど、簡単に忘れてしまう(あのひとへの電話は特別だ)。だけど、そんな俺の電話を、あいつは心待ちにしているのだった。俺にそうとは悟られないように、三回以上、五回以内のコールで、もしもし、と緊張を抑えきれない声。さりげなさを装って、何にも気がついていない振りをして、じゃあ、うちくる? と提案するのだ。

幸せとはほど遠い悲しみの海は波立つこともない。水面にたゆたったまま、溺れる勇気も漕ぎ出す覚悟も持てずにいる。

何を、してるんだろう。月を掴み損ねた手のひらを見つめた。滲む視界が手のひらをやわやわと溶かして、ぽた、と手首に雫が落ちて、ああ、幸せに、なれないのなら、乱暴にパーカーで水分を拭って、どうしても、なれないのなら、こんなもの、ひりひりと赤く痕を残した手首をあいつが見つけたら、いらないのに、あらぬ誤解をしてあのひとを憎みだしたりするかもしれない、あのひとは、地の果てのように優しいのだから、俺の手首を痕がつくほど強く握ったりしないのだ決して俺がそうしてほしいと望んでも決して、いらない、いらない、嘘の約束も鎖のようなシルバーのネックレスもいらない、いらないから、いちどでいいから、俺の手を握ってどうか強く握って捕まえて、引き留めて、ほしかった、俺のほしがったのはそれだけで、あいつだって、あのひとのもとへ行く俺の指先にさえ触れることもせず、ただただ泣きそうに顔を歪めて、笑って見送るだけで、俺は、どうすればいい、ねえ俺は、ほんとうは、誰かに、引き留めてほしいだけなのだ、ひとりに、しないで。

メールの着信を知らせる青い光が点滅して、あのひとかもしれない、とふるえる指先が、表示したあいつの名前を撫でて、おまえは莫迦だなあ、と呟いた。

『今日は寒いから、鍋にするよ。』

一行だけの、そっけない内容に、あいつの底を知らない優しさが隠しようもないくらい、あふれていて、どうしておまえは俺なんだ、と何度目かも分からない問いを夜空に投げつけて、誰も受け取ってくれないから、自分のところにすとんと戻ってきて、莫迦だ莫迦だ、と八つ当たりをして、あのひとは今ごろ、奥さんの作った夕飯を、子どもと三人で仲良く食べているのかもしれない。

なんかあったら、うちに帰ってくればいい、とあいつは云った。俺の帰る場所にするには、あいつの部屋は、あまりにも安らぎに充ちていて、こんなに居心地の好いところに自分がいていいはずがないのだと、落ち着かない心地に陥る。それが、自分のために用意された安らぎであることが明らかだから、余計に。

満月に満たない月を見上げる。手を、伸ばそうとしたけれど、やめた。届かないものには、最初から触れようとしてはいけないのだ。その距離を思い知らされて、虚しくなるだけ。ひとりを思い知るだけ。

背後から足音がして、声をかけられた。

「大丈夫? あんまり遅いから、迎えにきた」

乾いた涙の痕をみとめたあいつは、困惑を誤魔化しきれないぎこちない微笑を浮かべた。

「何鍋が好きか訊いてなかったけど、キムチ鍋、辛いの好きだったよな」

声になる手前の、呻きに似た音が口から零れる。声を発したら、泣いてしまいそうで。

「な、いいだろ」

俺の肯定の意思をたやすく汲み取るお前が憎たらしいよ。

「ドンキでけっこういいキムチが安売りしててさ」

憎たらしくて、痛々しくて、いとしいよ。

穏やかな声を聴いているだけで、すべて許されているような、何にも辛いことなんかないような、都合の良い回路が思考をゆるませる。お前は俺が泣いた理由なんて分かりきっていて、自分の気づいていない振りが俺にばればれだということだって知っていて、それでも、他愛ない言葉を発し続けることをやめない。俺が、そうすることを望む限り。

帰り路は、俺とお前とあのひとの、救われない想いが月に淡く照らされて、嘘みたいに美しい。

誰も幸せにはなれない夜をそれぞれが歩いた今日のことを、懐かしい気持ちで思い出せる日は訪れるのだろうか。誰も知らない。月も知らない。これから先のことなんか、ひとつも分からない。今の俺に分かることはひとつ、俺の手を引くお前の手のひらがだんだんに汗ばんで、お前が俺を連れて帰ってくれる、それだけだった。

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