あの日の階段
一瞬の様を表すとき、みんなはどのような表現を用いるだろうか。
俺はこう。
瞬間。
シンプルでわかりやすい。刹那だの厨二的発言はあまりしないようにと心掛けている。それは過去の過ちゆえ。……あれ? なんか今の言い回しもどこか厨二臭い。
などと、危機に陥った人間はなぜこうも下らないことを考えてしまうのか。実際に危機に陥り、下らないことを考えてみてもわからない。
そんなモノローグを頭の中で練り上げ、俺は空へと投げ出される。
階段をただ、いつも通りにゆっくりとしたペースで降りていた。
瞬間。
途端にバランスを崩して前屈みになり。
瞬間。
体勢を立て直すには手遅れ。
瞬間。
俺を含めたすべてがスローモーションで流れ、意識だけが加速する。これが《加速世界》か。
瞬間。
慣性に従い、伸ばしっぱなしだった暗い茶髪がたなびく。俺の視線は当然のように背後に流れ、長い髪の間から──
瞬間。
俺は見てしまった。
「────────」
瞬間──
すべてを隔絶する意識の耄碌が迫る。
「──、────っ?」
「────しろ!」
「──大丈夫か!?」
そんな声が意識の隅に届く。
靄がかかったような微睡みの中、薄っすらと開けた視界から断片的な情報を得る。
どうやら階段から落ち、気を失っていたらしい。
身体は気怠く、重い。動かないことはないが、鋭い痛みと鈍い痛みが同時にやってきて起き上がれそうもない。
背中と頭にゴツゴツとした感触。これは……床、廊下?
状況から考えるに、階段の踊り場なのだろう。
「だ、大丈夫なのか?おいっ」
やかましい。
倒れる俺の周りにはそれなりにたくさんの人がいることを、騒音から察する
うるさい。頭に響く。大丈夫かと聞く前に静かにしてくれ。
寝たいんだよ。
「あ、先生!」
先生? ……保健室の先生か?
まあいい、どちらにせよ、俺はもう……。
意識を手放し、また深い微睡みに身を委ねた。
目を覚ました先にあったのは染みだらけの白い天井。
湿布のような匂いが鼻につく。
背中と頭の下にあるのは少し硬めだが、床よりは柔らかいもの。ベッドと枕?
そこまで至り、ここが病院か保健室かであることを理解する。
「……っ」
ズキズキする身体を起こし、グワングワンと響く頭を押さえる。
霞む目で見回し、そこが保健室だと知る。
外を見れば夕焼けに染まり、紅い残滓を伸ばす太陽が見て取れた。
「あ、起きたの」
声のする方を見れば、保健室の入り口に我が学校の養護教諭が立っていた。
「大したことはないから安心して。ただまあ、何があるかはわからないから、一応病院で見てもらった方が良いかも。お母さんには連絡してあるから、明日の朝にでも行ってらっしゃい」
一気にまくし立てられる内の半分も聞き取れなかった。まだ醒め切らずボーッとしている。
「ほんと、キミって怪我に縁があるよね。この学校の生徒にしては」
「……はぁ」
「この前は目の下に痣作って来るし。今回は階段から転げ落ちるし。ここ数年、擦り傷以上の怪我をした生徒なんていなかったのにね」
「……すみません」
目の下の痣に関してはこの学校での出来事ではなく、校外活動──クラブでの喧嘩が原因なので、少し違う気もするが。
「そろそろお母さんが車でお迎えにくるはずだから、あまり頭揺らさないようにして安静にしてなさい」
「はい……」
しばらくして、ややおっとり気味の母が迎えに来て、その車で自宅へ。
母に何がどうなってこうなったのかを問い詰められたが、別に、とか、まあ、とか曖昧な言葉を用いながら、ただ『階段から転げ落ちた』とだけ説明した。
本当はそうでないと、知っていながら。
病院での診察で、特に問題はないとされ、軽く外傷を手当てした後に登校。二時限目の途中から参戦である。
大袈裟に巻かれた包帯やら湿布やらで呆気に取られるクラスメイト。だが、授業中であるためそこまで騒がれることはなかった。
──甘かった。
二時限目終了のチャイムが鳴った途端、俺の席の周りには男女問わず多くのクラスメイトが集まった。中にはまったく話したことのない生徒まで。
そりゃそうか。身近に起こった非日常に少しでも関わりたいと思うのは、日常に溺れる人間の性だから。
「なぁ、なんで落ちたの?」
「その包帯大丈夫?」
「脳しんとうとかそういうのは……」
好奇心旺盛な野次馬に反吐が出る。
うるさいうるさい。お前らなんて知らん。普段積極的に絡んでこない奴が絡んで来るとこうもウザいのか。
そんな折、ある一人の男子生徒が俺の席に近づく。
学ランに身を包みながら、その身から溢れ出る清潔感によって爽やかさを維持し続ける美形の男。
世にいうイケメンという奴だ。ぶん殴りたくなる。
少し癖のある髪を弄りつつ、俺に話しかけてくる。
「やあ」
──落ち着け。
──大丈夫。
──無心。
猛る想いを抑え、昂ぶる鼓動を鎮ませようとする。
「──大丈夫?」
我慢の限界だった。
「ッ!!」
音を立て立ち上がり、そいつの胸倉を掴み右手を一閃。左頬にクリーンヒットする。右手に鋭い痛みが走る。
「きゃあっ!」
「な、なにしてんだよ!」
うるさい。
うるさい。うるさいうるさいうるさい。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
「──っせえよ」
俺の喉から零れたとは思えない、低く、獣の唸りのような声。
「──『大丈夫』?」
紡がれる声もまた同様に低い。
「──どの口が」
視線の先には、その端正な顔を歪ませた、学校一のイケメンモテ野郎がいる。
普段の俺なら特に気にかけることもなかった、その顔に。
「──どの口が言いやがるッ!」
蹴りを入れてやった。
またも短い悲鳴が上がる。
「てめえが、てめえがッ! てめえが突き落としたんだろうがッ!」
この時の俺はどうかしていたとしか思えない。
階段を降りている時、すれ違い、俺に足をかけた男。
最初は見間違いだと思った。被害妄想だと。
俺がつまづいたのは、階段を下りる俺の前に差し出されたこいつの足ではない。そう思っていた。
だけど見てしまった。落ちる瞬間。
俺自身の長い髪の隙間から覗く、この男の──
「こいつは! 俺が落ちる瞬間! 笑ってやがったんだ!」
──薄汚い、嘲笑を。
また蹴りを、今度は腹に入れる。
振り下ろされる足を避けることもせず、ただ受け続ける爽やかイケメン。癖のある髪が汚れた床に擦られ崩れている。
やりすぎだ。止まれ。誰か止めてくれ。
俺自身が止めようとする。止まらない。
誰かが止めようと──しない。皆その目には怯えの色があり、俺とイケメンから距離を取りつつ、二人を囲んでいる。
「そんなわけ、ない」
その野次馬から、ポツリポツリと声が漏れる。
「ありえないよ」「早川くんがそんな」「本当かよ」「被害妄想じゃね?」「イタいわ……」「そんなことするわけないもんねぇ?」「本当だったとしてもやりすぎ」「あの靴便所行ってる靴だろ?」「汚ったね」「早川まで汚れちまう」「やめろよ」「キレすぎキモ」「頭おかしいんじゃね」「知的障害者ってやつ?」「それだ」「チテショー!」「何それアニメのパクり?」「知的障害者の略だろ」「ってかアニメって?」「オタクかよw」「そいつもオタクじゃん」「オタク怖いわうわー」「マジかよオタクマジきめえ」「オタクの品位下げらったわー」「早川くんがオタクに……」「汚されちゃう」
ボソボソと。
それがザワザワとなり。
いつしかガヤガヤというまでに大きな声となり。
「何やってる!」
次の授業の教師に、見咎めれた。
俺と早川という名前のイケメンが連れられ指導室に。そこで事情を話させられた。
だが、階段での事に関しては俺の妄言とされ、たくさんの証人がいる、『俺が早川に暴力をはたらいた』という事実だけが認められた。
結果、俺は停学。
早川は何事も無く、平凡な学校生活を送ることとなった。
階段から落ちた時の怪我が目立たなくなった頃に停学が解け、再び学校に通うことになった。
停学期間中、両親には気苦労をかけた。本当ならもう学校なんて行きたくもない。そう思っていたが、これ以上両親に迷惑をかけたくない。
ただその一心だけで、また登校することを決めた。
教室に着いた俺を貫いたのは侮蔑の視線。
それに構うこと無く自分の席に着く。
「──、────」
「────、──」
「──っ、あはは」
何を喋っているのかは聞こえない。だが、チラチラと俺を見るその視線から、どんな内容であるかくらいは理解できる。
「お、おはよう……」
しばらくして、俺に声をかけてくる生徒がいた。
そいつは俺の親友とでも言うべき奴で、こんな時でもあいさつをしてくれる奴。
──そう、思っていた。
「……おはよう」
「…………あの、さ」
「ん?」
いつものように、素っ気ない返し。
いつもこうだ。これで良い。俺たちの仲に、多くの言葉は無用。
だが、次にそいつが放った一言は、
「……もう、話しかけてこないでほしい。僕からも、話しかけないから」
俺の心を、深く、深く抉った。
そいつは「それじゃ」と言い残しそそくさと自分の席に戻る。
俺はどんな顔をしていたのだろう。クラス中から、くすくすとした笑いが聞こえて来た。
──世界が反転した。
灰色の世界を生きた。
大した音もなく、色もなく、生も感じられず、ただ無為な時間を過ごした。
気づけば俺のいる教室から早川はいなくなっていた。転校したらしい。その原因はどうやら、俺なのではないかとの憶測が飛び交っていた。
どうでもいい。
もう、どうでもいい。
冬が訪れ、あと一月もしないうちに卒業。
既に進学する高校は決まっており、あとは卒業に向けて中学生活を消費するのみ。
皆一様に、何かを惜しむように数々のイベントをこなしていく中、俺はただそこにいた。
流れるままに卒業式は終わった。
涙を流し、共に過ごした者たちとの別れを悲しみ、新たな日々の始まりに胸を高鳴らせる。
これで本当のサヨナラ。校門から散り散りに消えていく生徒の中には俺もいて。
その途中、あの日俺に『もう話しかけてこないで』と言った、親友だったあいつもいた。
そいつは俺を見ると、視線をサッと逸らし俺に背を向けた。
思う事は、何もない。
高校で、新たなクラスメイトとの顔合わせ。
今まで通り、無為な日々を過ごして行こう。そう思っていたが、なぜかそれができない。
期待してしまっているのだ。俺はまた、新たに色づいた日々を過ごすことができるんじゃないかと。
誰も中学の頃の俺を知る奴がいない、この高校でなら。
結論から言うと無理だった。
恐らく、俺の心の中には深く刺さってしまっているのだろう。
早川が、クラスメイトが、親友だったあいつが俺に向けた拒絶の針が。
自己紹介をするため黒板の前に立ち、新たなクラスメイトを前にした俺は、俺ではなくなっていた。
顔は青ざめ、嫌な汗が背中や頬を伝い、膝は笑う。
ただの緊張なんかじゃない。
俺の目には、俺に視線を向けるクラスメイトが皆、早川はクラスメイトたちに見えて仕方がなかった。
せり上がる嘔吐感。
俺は、自己紹介などできず、ただ一人、トイレで泣きながら吐いていた。
対人恐怖症。
知らない人と面向かうだけで、脳が、身体が、心が。すべてが拒絶を現し、トラウマを再現する。
もう駄目だ。灰色の世界を生きていくことすらできない。
立ち入り禁止の屋上に立ち、冷たい風を浴びる。
もう駄目だ。灰色の世界を生きていくことすらできない。
俺の人生はお終いだ。ここからどう挽回しろと言うのだろう。
これが試練だと言うのなら、与えた神様は、与える人間を間違えた。
もう駄目だ。灰色の世界を生きていくことすらできない。
死のう。
屋上のへりに立ち、一歩踏み出そうとしてまた迷う。
死ぬのは怖い。
トラウマよりも怖い。
何よりも怖い。
でも死にたい。
生きるのは怖い。
トラウマが怖い。
すべてが怖い。
まだ迷う。
そんな俺の背中を、誰かが押した。
「────え」
進学する際にある程度短く切りそろえた、暗い茶髪が慣性に従い、風に習い、空にたなびく。
俺の視線は当然のように背後に流れ、短くなった髪の間から──
瞬間。
俺は見てしまった。
「────────」
瞬間。
重力に従い、俺の身体は落下を始めた。
俺は見た。
俺は、恨んでいたのだろうか?
俺は、恐怖していたのだろうか?
俺は、あいつを────
早川はまた、笑っていた。
盛りに盛りました。
ベースとなった経験があるのですが、まあこんなに酷くないので……そんなわけで、
盛りに盛りました。