第四談。まさか、初めてがアンタなんて ♯3
本当に優秀な人間は、気持ちの切り替えが早いという。
だから、るみねが立ち直るのにわずか十五分三十七秒しか掛からなかったというのも、頷ける話である。
「ダメだ……私の人生終わりだ……変態だと思われた……完全に変態だと思われた……」
と、呪詛のように――というより呪詛を、部屋の隅に座り込んで呟き続けたのも、ほんの一瞬のことである。
ちなみにその間、部屋の主は沈黙を保っていた。
るみねが何故このような状態になってしまったのかは分からないが、それが正解だ。というか、それ以外は全て間違いだ。
本能がそう叫んでいた。だから脱いだシャツを着直し、ただ静かに――気配を消し、音を立てぬように、春壱は幸路が持ってきてくれたコーヒーをすすっていた。
「……アンタさ」
「――は、はいっ!」
突然ゆらりと立ち上がったるみねに、思わず身を竦ませ、声を裏返す春壱。
そしてそのまま硬直した彼に、彼女はゆっくりと歩み寄ると、
「しばらくの間、ここにいなさい。下に降りてきちゃダメよ」
これまでに見せたことのない微笑みを見せた。
それは女神の美しさと、聖母の優しさを合わせ持つような表情。しかしそんな笑顔を目の前に、春壱の脳裏によぎったのは『動くな危険』という警告の文字。
そしてその表情のまま「あ、それともう一つ」と彼女は続ける。
「もし誰かに余計なことしゃべったら、×××に××××で××××××してあげるからね」
――オプションで××と×××××も追加してあげてもいいけど。
と、春壱の横に置いてあった鞄を取るついでに、耳元で囁いたるみね。もちろん終始笑顔である。
「――それじゃ、また明日学校で」
「…………」
るみねが爽やかに、にこやかに部屋を出ていく。またこの部屋に静寂が訪れた。
「…………」
ドクンドクンと、脈打つ心臓の音が聞こえる。
それを耳にして、春壱は再度実感する。
「……あー、生きてるって素晴らしい」
「あら、勉強会終わったの?」
一階に下りてきたるみねに、真っ先に声を掛けたのは女郎花だった。
「はい、お邪魔しました。あ、それとコーヒーありがとうございました」
「別にお礼なんていいのよぉ。わざわざ春ちゃんに勉強を教えに来てもらってるんだから」
むしろこっちが感謝しないと、と女郎花が言いかけた瞬間、
「え、何? この美少女、春壱のクラスメート?」
カウンター席に座っていた男が会話に割り込んできた。
「何だよ春壱のやつ、こんな可愛い女の子を部屋に連れ込んでやがったのか」
一見すればサラリーマンのようなスーツ姿の、三十代前半くらいの男性。しかし、スーツはもう何日も着続けているような感じで、髪はボサボサ・顎には無精ひげと、とても普通の会社員とは思えない。
「連れ込んだなんて、変な言い方するんじゃないの。るみねちゃんに失礼でしょ」
本当にアンタは下品なんだから、と顔をしかめる女郎花。
しかし、そんな言葉には一切耳を傾けず――いや、一部だけはちゃんと聞き取って、
「へえ、るみねちゃんって言うんだ。やっぱり可愛い子は名前まで可愛いね」
男はるみねに微笑みかけた。
「俺は紫ノ村。『紫』に片仮名の『ノ』と、市町村の『村』で紫ノ村。春壱の育ての親というか良い兄貴分というか、まあそんな感じかな。ちなみに仕事はIT関係の社長やってます」
よろしくね、と紫ノ村がるみねに手を差し出す。
だが、すかさずその手を叩き払い、「今の全部覚えなくていいからねー、るみねちゃん」と女郎花は笑顔を見せた。
「平然と嘘吐くんじゃないわよ、国家公務員。そして、どこの誰が『育ての親』に『良い兄貴分』よ。アンタは一ヶ月間、春ちゃんに悪影響及ぼしただけじゃないの」
「別に悪影響じゃねぇよ。健全な男子なら誰しも通る道を教えてやったんだよ」
「それを不健全なアンタに、高速道路レベルで教わったっていうのが問題なのよ。あーまったく、アンタになんか春ちゃんを預けるんじゃなかった……」
「はっ。男の道を踏み外したお前に、不健全だとか言われたくねぇよ」
「ふん。こっちこそ男の道の意味を履き違えた勘違い男に、何も言われたくないわよ。大体アンタのその格好、リストラされたサラリーマンにしか見えないって分かってる? どうせアンタのことだから、雑誌を鵜呑みにして『これで女の子のモテる』とか思ってたんでしょうけど、そんなの――」
「あーあーあー、うるせぇうるせぇうるせぇ! 会う度にギャーギャーと……やっぱりお前、九官鳥なんじゃねぇの?」
「鳥以下の脳みそしか持ってないアンタに言われたくないわよ!」
「ひーん、この人がいじめてくるよー。助けて、るみねちゃん」
「どさくさに紛れて触ろうとするんじゃないの! セクハラで訴えるわよ!」
そう言って紫ノ村の額を叩き、「このバカがバカみたいにバカ騒ぎしてごめんなさいね」と本当に申し訳なさそうに、女郎花はるみねに謝る。
「あ、いえ、別にそんな……」
目の前で繰り広げられた二人の会話のテンションに、戸惑いを隠しきれないるみね。そのせいで、何か重大な事実を聞き逃したような気もする。
だけど、そんな彼女でも確かに分かったことが一つ。
――崎守くんは、さっきの〝勉強会〟のことを、この二人には話してない。
性格上、彼はそういうことを他言するタイプじゃないとるみねは踏んでいたが、その予想はどうやら間違いないみたいだ。
つまり、あのことを知っているのは幸路一人だけ。彼の誤解さえ解ければ、全ての問題が解決するということだ。
だからそのために、るみねは決意と釈明(あれは『魔法科学のちょっとした実験』という、苦しいのは重々承知なもの)を胸に一階に下りてきた。余計なことを口走りそうな春壱を部屋に残して。
それなのに――
「あれ? 崎守くん……もう帰りました?」
この店に初めて来たときと同じように――だけど今回はちゃんとキッチンも覗いてから、るみねが店内を見回す。しかし、やっぱり今回も幸路の姿は見当たらない。
「あら、幸ちゃん? ごめんなさい。実はさっき牛乳切らしちゃって、今お使いに行ってもらってるのよ。あ、でもでも、多分もう少しで帰ってくると思うから、もうちょっと待ってみたら?」
本当にもうすぐだと思うから、とカウンターの紫ノ村から二つ離れた席を勧める女郎花。
しかしその提案を受け、るみねは瞬時に考える。
ここで彼の帰りを待てば、言い訳することに必死さが見えて、逆に怪しまれる可能性がある。
さらには、わざわざそこまでした用事の内容に女郎花たちが関心を持ってしまうかもしれない。そして最悪、春壱の口から余計なことだけが漏れるかもしれない。
だからその危険性を考慮して、るみねの出した答えは、
「あ、いえ、別に大した用事じゃないんで。それじゃあ、今日は遅くまで失礼しました」
さりげなくこの場を立ち去ることだった。
「あら、そう? それじゃあまた来てね、るみねちゃん」
「それじゃあまた会おうね、るみねちゃん」
と、紫ノ村の顔面を鷲掴みにする女郎花に軽く会釈してから、るみねはパトリニアを後にする。
空は完全に夜の色。るみねが携帯電話で時間を確認すると、昨日この店を出たときより少し遅い時間だった。
――そっか……ちょうどこのくらいの時間か。
携帯電話がなかったから正確な時間は分からないが、大体昨日の今頃だろう。あの出来事があったのは。
そう思い返し、るみねが手元から記憶に新しいその方向へと視線を移したときだった。
そこの空だけが、明るく輝いているのに気付いたのは。
「どうやら、また火事みたいだ」
スーパーの袋を片手に提げた幸路が、そう教えた。
「な、何で……また……」
るみねの口から疑問が漏れる。
その瞳が見つめる先は――昨日、春壱の秘密を知った場所と同じだった。




