初めての命令違反
第7話 初めての命令違反
夜明け前の灰枝は、音が薄い。
石畳を打つ槌の音、荷車の軋み、遠くの咳。
眠っていない街が、寒さと焦りで軋んでいた。
俺は管理局前の掲示板に貼られた暫定運用表を見上げる。
第一段階は区画独立、出力上限四二、監視間隔は二十分固定。
セラが横で紙束を抱えていた。目の下に薄い隈。
「監視班は三隊に分けた。北区画は私が見る」
「寝てないだろ」
「リクが言わないで」
短い返し。いつもの調子で、わずかに安堵する。
フィンが外套の襟を立てたまま歩いてきた。
「第一避難線は開けた。北側の坂道を優先退避路に指定した」
「早いな」
「夜明け前までに、と言ったのはお前だ」
フィンは一枚の金属板を差し出した。監察局への簡易報告板だ。
「運用開始時点で一次報告を送れ。書式は固定だ」
受け取った瞬間、視界にログが重なる。
`REPORT TEMPLATE LOADED`
`REQUIRED: NETWORK VIOLATION FLAG`
喉の奥が冷える。
俺は報告板を裏返して、懐へ入れた。
「あとで送る」
フィンの視線が一瞬だけ止まった。
「書式をいじるな」
「努力する」
嘘だった。
朝六時、北区画の暖機群を起動する。
俺が出力を四二で固定し、セラが間隔を測り、カディルが現場班へ指示を飛ばす。
「三番石柱、弁を半段戻せ。流量を揃えろ」
「導水二系統、接続禁止。印を見ろ。赤線は触るな」
カディルの声はよく通る。怒鳴るためじゃなく、生き延びるための声だ。
最初の二巡は安定した。井戸水温が上がり、小屋の暖機石が白く発熱する。
集まっていた住民の肩が、目に見えて下がった。
視界ログ。
`CIV-RISK 79% -> 74%`
`MODE: SEGMENTED / STABLE(2)`
数字は下がった。
その代わり、別の項目が上がる。
`SYNC RATE 0.82 -> 0.76`
`CAUSE: COMMAND DEFERRED`
耳鳴りがした。こめかみの奥で細い針が回る感覚。
「顔、白い」
セラが俺の肩に触れる。
「平気。続ける」
「平気な顔じゃない」
言い返す前に、南列の暖機石が赤く脈打った。
出力波形が揺れて、石柱の継ぎ目から火花が散る。
「過励起だ! 全員下がれ!」
カディルが怒鳴り、班員が住民を押し戻す。背後で子どもの泣き声が上がる。
俺は反射で手をかざした。無詠唱の抑制式。
いつもなら、ここで止まる。
止まらなかった。
式が途中でほどける。光が散って、逆に火花が太る。
`CAST FAIL`
`SYNC RATE 0.69`
`REASON: NON-COMPLIANT OPERATION`
「くそっ」
膝が揺れた。セラが前へ出る。
「詠唱は捨てて。手動で切る!」
彼女は監視棒で分岐弁を叩き、二系統を物理遮断した。
俺も遅れて主弁を締める。カディルが班員に叫ぶ。
「隔壁板! 急げ! 火元を囲め!」
三十秒。体感では三分に等しい。
脈打っていた赤が、ようやく鈍い橙へ落ちた。
静まり返った現場で、セラが息を整えながら言う。
「救う方法は一つじゃない。魔法が揺れるなら、手で止めればいい」
その言葉で、肩の力が一気に抜けた。
被害確認。軽い火傷が二名、転倒打撲が三名。死者なし。
住民代表の老婆が、両手を擦りながら何度も頭を下げた。
「湯が出た。ほんとに、湯が出たんだよ」
カディルが短く頷く。
「段階導入は続ける。次は出力三八で再試験だ」
フィンは黙って現場を見ていた。
やがて俺の脇に来て、低く言う。
「さっきの失敗、同期低下だな」
「……そうだ」
「命令を保留している間だけ落ちる。説明はつく」
俺は答えない。答えなくても、肯定と同じだった。
昼、監察局への一次報告を送る時刻が来る。
俺は金属板を開き、書式欄を見た。
`NETWORK VIOLATION FLAG: [REQUIRED]`
`SUBMIT WITHOUT FLAG: DENIED`
`OVERRIDE: LIFE-SUPPORT EXCEPTION(FIN-04)`
指先が冷える。
俺は違反欄を残したまま、例外コードに `FIN-04` を差し込んだ。
告発欄が灰色に変わり、編集可能になる。
`OPERATION TYPE: EMERGENCY LIFE-SUPPORT`
`NETWORK STATUS: SEGMENTED / NO PERSISTENT LINK`
送信。
一拍遅れて、視界が白く弾けた。
`COMPLIANCE BREACH`
`UNAUTHORIZED DECISION PATH`
`SYNC RATE 0.61`
吐き気が込み上げる。壁に手をつく。
それでも、送信は取り消さなかった。
夕刻、屋上の風が冷たい。
セラが湯入りの小瓶を押しつけてきた。
「手、震えてる」
「見ないでくれ」
「見る。見るし、止めるときは止める」
彼女はわずかに間を置いて、続けた。
「でも今日は、止めない。今の選び方は、私も賛成」
言葉が出なかった。
代わりに小瓶を握り直して、頷く。
階段口でフィンが待っていた。
「監察本局から照会が来た。報告欄の改変についてだ」
「もう来たか」
「私は“現場混線”で一次保留にした。だが次は庇えない」
「十分だ」
フィンは目を細める。
「庇っているわけじゃない。住民がまだ線上にいるだけだ」
そう言って去っていく背中は、やはり敵でも味方でもなかった。
夜。独りで報告板を閉じた瞬間、見慣れない画面が割り込む。
`[ADMIN] ERROR STACK OPEN`
`CALLER: AUDIT_UNIT_RIKU`
`TRACE: ROLEMAP_ACCESS_VIOLATION`
`MODULE: P_ARC***_HANDLER`
`HINT: OPEN DEBUG LOG ?`
指先が止まる。
これは、今までの神託画面と違う。命令文でも警告でもない。
もっと内側の、管理者向けの失敗画面だ。
`Y / N`
俺は、ためらいながら `Y` に触れた。




