聖女様は、お疲れ騎士の『もふもふ』になりたい
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。
月曜日の二十一時。
空調の音だけが低く唸る深夜のオフィスに、私のマウスをクリックする乾いた音だけが響いている。
広いフロアには、すでに私以外の人影はまばらだ。残っているのは、私と同じように魂をロッカーに置き忘れた数名の残骸たちのみ。
隅野ミキ、二十六歳。
今の私は人間ではない。生体電流でエクセルのセルを結合し、罫線を引くためだけに最適化された「事務処理マシーン」だ。
思考は停止し、感情は凍結。ただひたすらにディスプレイの中の数字を右から左へ流す作業に従事する。
――その時だった。
ポロロン⋯⋯♪
脳内の荒野に突如として清らかな泉が湧き出るような音が響いた。
ビクンッ、と私の指が痙攣する。
前回の腹の底に響くような重低音ではない。これは⋯⋯天使が爪弾くハープの音色!?
『ピロリン♪ 百合アラート発令。種別:ホワイト・ピュア・ファンタジー。成分:マイナスイオン一二〇%』
(き、来た⋯⋯ッ! この透明感、不純物ゼロの純白百合! 舞台は⋯⋯異世界!? しかも成分分析の結果、これは「高貴なる身分差」と「秘密の共有」が織りなす癒やしの波動!)
反射的に、私の魂が肉体という檻をこじ開けて飛び出そうとする。
百合の波動は待ってくれない。今この瞬間、次元の彼方で「尊さ」が生まれているのだ。
だが――!
(――ダメッ! ステイ、ステイだ私の魂!!)
私はギリギリで理性を総動員し、口腔から飛び出しそうになった魂を、奥歯を噛み締めて肉体に押し戻した。
今ここでダイブすれば私は確実に白目を剥いて椅子から転げ落ちる。
そして救急車で搬送され、翌朝には「職場で奇声を上げて卒倒したヤバい女」として伝説になり、私の社会人ライフ(社会保険完備)は「THE END」だ。
(くっ、この波動⋯⋯百合は鮮度が命だが背に腹は代えられない。脳内HDD、フル稼働! この波動を一時保存しますッ!)
私は眉間に青筋を立て、眼球を血走らせながら、脳内の受信アンテナを「録画モード」に切り替えた。
今、宇宙から降り注ぐ尊い信号を一ビットたりとも漏らさずに脳の深層領域へ圧縮保存する。頭蓋骨の中で脳みそがキュルキュルと音を立てて回転している気がする。
「⋯⋯ふぅ。保存、完了」
額の汗を拭うと私はディスプレイの時計を睨みつけた。
二十一時十五分。
ここからが本番だ。
「⋯⋯帰るわよ」
私は残りの仕事をマッハの速度で片付けた。
キーボードを叩く指は残像と化し、エクセルは恐怖に震えて瞬時に完成した。
上司への報告メールを送信(件名:退勤報告/本文:お疲れ様でした。帰ります)。
PCの電源を落とし、鞄をひっつかんでタイムカードを切るまで所要時間わずか三分。
夜の街を疾走する。
駅前のコンビニにドリフト気味に入店し、棚から「明日のための栄養ドリンク(カフェイン最強)」と「観測用の糖分」を鷲掴みにしてレジへ叩きつける。
終電間近の地下鉄に飛び乗り、吊革に捕まりながらも、私は脳内のキャッシュデータが劣化しないよう、必死にメンタルを「無」に保ち続けた。
* * *
帰宅。二十二時四十五分。
玄関の鍵を閉めると同時に、私はスーツを脱ぎ捨てながら浴室へ向かう。
シャワー、所要時間三分(烏の行水)。
髪を乾かす時間すら惜しい。タオルを頭に巻き、スウェットに着替えて万年床という名のコックピットへ滑り込む。
枕元には愛用の観測デバイス。
スーパーで貰った段ボールにアルミホイルを裏打ちし、謎の配線を飾り付けただけの「自作ヘッドギア――百合同調器(3号機)」だ。
はたから見れば不審者以外の何物でもないが、これがあるのとないのとでは意識の没入深度が違う(と本人は信じている)。
ガボッ、とヘッドギアを装着する。
視界が段ボールの闇に覆われる。
深呼吸。心拍数を調整。
脳内の解凍ソフトを起動。キャッシュされた「ホワイト・ピュア・ファンタジー」のデータを展開する。
「⋯⋯待たせたわね、異世界の乙女たち。今いくわよ⋯⋯ッ!」
私は意識を集中させ、現実世界の重力を断ち切るように叫んだ。
「再生――観測、開始! うぉおおお!!! 跳べよぉぉぉぉぉぉ!!!」
ブツンッ。
現実世界との接続が切れる音がした。
六畳一間の天井が消え、私の意識は次元を超えた「王宮の庭園」へと射出された。
視界が反転し、色鮮やかな光が弾ける。
六畳一間の湿った空気は消え失せ、鼻孔をくすぐるのは夜露に濡れた薔薇の香り。
意識が着地したのは青白い月光が降り注ぐ、石造りの王宮庭園だった。
その庭園の片隅、月下美人が咲くベンチに一人の騎士が座り込んでいる。
観測対象A――近衛騎士団長、カミラ。
普段は鉄壁の守りで聖女を守護し、その冷徹な仕事ぶりから「氷の騎士」と恐れられるクールビューティーだ。
そんな彼女だが今は兜を脱ぎ、流れるような銀髪を夜風に晒し、その白皙の美貌には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「⋯⋯はぁ。リリアーナ様⋯⋯」
カミラは夜空を見上げ、重たい溜息をついた。
激務、重圧、そして何より主君である聖女への報われぬ恋心。
騎士のメンタル装甲値(HP)は、実はもうレッドゾーンに突入していたのだ。
ガサゴソ――その時、植え込みが揺れ白い塊が転がり出てきた。
「ん? ⋯⋯こんな場所になにものだ」
カミラが鋭い視線を向け、剣の柄に手をかける。
しかし、現れたのは魔物ではなかった。
それは耳が長く、雪見だいふくを二つ重ねたような、真ん丸で真っ白な謎の小動物だった。
(――ちょ、待って!? あのあざといフォルム! あの小動物の中身、どう見ても観測対象B・聖女リリアーナ様ですよね!? 変化の魔法!? 聖務のストレス発散で夜な夜な獣になって徘徊してるんですか!?)
私のツッコミなど届くはずもなく、小動物は警戒心ゼロでカミラに近づく。
つぶらな瞳で見つめ、短い手足を精一杯伸ばして「抱っこ」を要求したのだ。
カミラは周囲に誰もいないことを確認する。
そして、恐る恐るその白い塊を両手で掬い上げた。
ふにゅん。
効果音が聞こえそうなほどの柔らかさが、鉄のガントレットを外したカミラの掌に伝わる。
「⋯⋯柔らかいな。それに、なんだこの⋯⋯お天道様のような温かい匂いは」
瞬間、カミラの表情ガードが崩壊した。
眉間の皺が消え、張り詰めた口元が緩み、あの「氷の騎士」が灼熱の太陽の下に置かれたアイスクリームのような顔になっている。
カミラはあろうことか、その小動物の腹毛に顔を埋めた。
「すー⋯⋯っ、はぁぁぁ⋯⋯」
深呼吸、それは俗に言う「モフ吸い」である。
騎士団長としての威厳も、大人の女性としての矜持もすべてかなぐり捨て、カミラは一心不乱に「聖女成分一〇〇%の毛並み」を肺いっぱいに吸い込んだ。
「⋯⋯すまない。少しだけ、癒やしをくれ。⋯⋯私はもう限界なんだ」
カミラは小動物の温もりに顔をうずめたまま、誰にも言えない弱音を吐露し始めた。
相手が言葉の通じない獣だと思って、心のダムが決壊したのだ。
「あぁ、リリアーナ様。あなたの笑顔を見るたびに、この胸が張り裂けそうになる。騎士と聖女、決して結ばれぬ運命とは知っているが⋯⋯私は、あなたのすべてを守りたい。けれど、あなたに触れることさえ許されないこの距離が、時々たまらなく辛くなるんだ⋯⋯」
小動物(中身は聖女)の身体が、ビクン!と跳ねた。
(――アアアアッ! 言っちゃったァァァ!
見て今の! あの騎士様の蕩けた顔! 普段のクールさはどこへ!?
しかも『リリアーナ様が好きすぎて死ぬ』みたいな激重な告白を、本人にダイレクト注入してる!
これは事故だ! いや、ご褒美だ! 聖女様の心拍数で波動がピンク色⋯⋯いや、真っ赤に染まってるわよ!)
カミラは止まらない。小動物が暴れないのをいいことに、その長い耳を甘噛みし、ピンク色の肉球をプニプニと押し、自分の頬を毛並みに擦り付ける。
「お前はいいな⋯⋯こうして、誰にも気兼ねなく私に抱きしめてもらえるのだから。⋯⋯私も、お前になりたい」
ポツリ、と零れた騎士の涙が小動物の白い毛並みを濡らす。
その涙を小動物は小さな舌でペロリと舐めとった。
そして慰めるように、カミラの頬にその小さな頭をこてんと預ける。
(尊い⋯⋯ッ! これは「癒やし」の皮を被った「公開処刑」!
聖女様、正体バラしたいけど今バラしたら騎士様がショック死しちゃう!
でも尻尾がバタンバタン動いてるから嬉しさは隠せてないわ!)
カミラはそのまま、小動物をマントの中に招き入れ、抱き枕のようにしてベンチに横たわった。
硬いベンチの上だが、今の彼女には最高級の羽毛布団よりも暖かいだろう。
月光の下、騎士と(獣になった)聖女が一つになる。
(おっと、ここから先は長尺の睡眠タイムね。
今の私には時間がない。明日の出社(地獄)が待っている。
発動――特殊能力『ユリ・相対性理論』! 一二倍速で再生!)
キュルキュルキュル⋯⋯!
私の脳内で映像が早送りされる。
カミラが寝返りを打ち、小動物をギュッと抱きしめる。小動物が「ぐぇっ」と潰れかけ、もがくが、すぐに諦めてカミラの胸の谷間に顔を埋める。
カミラの寝言が「リリアーナ様⋯⋯むにゃ」と漏れるたび、小動物の耳がピクピクと動く。
そのすべてが、ハイスピードな走馬灯のように私の網膜を焼き尽くす。
(あぁ~、ダイジェストでも伝わる栄養素!
ビタミン、ミネラル、ユリ・ポリフェノール!
冷徹な騎士のデレ顔と、それを独占する聖女の優越感⋯⋯。
はい、朝チュン来ました!)
チュン、チュン⋯⋯。
小鳥のさえずりと共に王宮に朝が来た。
カミラがカッ!と目を見開く。
「寝てしまったのか⋯⋯」
腕の中の小動物は、いつの間にか消えていた。恐らく夜明けと共に森へ帰ったのだろう。
しかし、カミラの顔は晴れやかだった。
昨夜の全力の「モフ吸い」によって、精神(SAN値)が完全にカンストまで回復しているのだ。肌艶も心なしか良く見える。
シャキッ!
銀の鎧を纏い、いつもの「氷の騎士」モードを再起動したカミラが、凛とした足取りで執務室の扉を開けた。
「おはようございます、カミラ様」
そこには、すでに聖女リリアーナが待っていた。
朝日の逆光を背負い、紅茶を準備するその姿はまさに女神。
「おはようございます、リリアーナ様。昨夜は⋯⋯よく眠れましたか?」
「ええ、とても。暖かくて素敵な夢を見ましたわ」
リリアーナは意味深に微笑むと、カミラの元へ音もなく近づいた。
そして、すっと白魚のような手を伸ばしカミラの顎の下――昨夜、小動物が涙を舐めたあたり――を、人差し指でツツ、となぞった。
「カミラ様こそ。何か⋯⋯『良いこと』でもあったようなお顔ですね? 憑き物が落ちたような、スッキリとした表情ですわ」
「っ!?」
カミラが動揺して赤面する。
まさか、迷い込んだ野生動物の腹に顔を埋めて「好きだー!」と叫び、あまつさえその耳を甘噛みしていたなど、口が裂けても言えない。
「い、いえ! 決して、迷い込んだ小動物を朝まで愛でていたなどと⋯⋯そのような軟弱なことは!」
「ふふ。そうですか」
リリアーナは目を細め、カミラの耳元で悪戯っぽく囁いた。
「⋯⋯私、その動物さんが羨ましいですわ。カミラ様にそんなに愛されて」
ドクン。
カミラの心臓が早鐘を打つ音が、次元を超えて私の鼓膜まで届いた。
リリアーナはカミラから離れると何食わぬ顔で聖務に戻っていく。その背中には目には見えないが、確かに「ご機嫌なウサギの尻尾」がパタパタと揺れていた。
(うわあああ! 聖女様の追い打ち! クリティカルヒット!
『私は全部知ってるのよ』という王者の余裕!
騎士様の防衛線がガラガラと音を立てて崩れ去ったわ!
完敗ね、騎士様。あなたの首輪、もう聖女様がガッチリ握ってるわよ!!)
私は震える意識で、脳内のキーボードを叩きつけた。
【観測報告書 No.126】
対象:近衛騎士カミラ、聖女リリアーナ
判定:Aクラス(秘密共有・ギャップ萌え・擬態スキンシップ)
備考:騎士のストレスケアを口実に、聖女が合法的に騎士を独占する高等戦術。
騎士は「秘密の癒やし」と思っているが、実態は「聖女の手のひら(肉球)の上」。
この関係性は、騎士が真実に気づいた時に「爆発(赤面死)」する時限爆弾付きである。
(あぁ⋯⋯軽い。なんて軽やかで、甘酸っぱい百合⋯⋯。
前回の重厚な主従もいいけど、このデザート感覚の百合もまた、疲れた現代人の胃に優しい⋯⋯ご馳走様でしたッ!!)
* * *
プシュウゥゥゥ⋯⋯。
段ボール製ヘッドギアの隙間から、白い煙のようなものが抜けていく(幻覚)。
「⋯⋯生きてて、よかった」
現実世界。深夜二十三時半。
私は煎餅布団の上で、天井のシミに向かって一筋の清らかな涙を流していた。
今回は鼻血ではない。あまりの浄化作用に魂がデトックスされたのだ。
身体中に満ちる多幸感。ホワイトな波動が昼間の労働で蓄積した活性酸素をすべて除去してくれた気がする。
「おやすみなさい、世界。ありがとう、百合」
私は泥のように、しかし最高に幸福な眠りへと落ちていった。
* * *
翌朝。午前九時。
殺伐としたオフィスに、怒号が響き渡っていた。
「隅野ォ!! なんだこの見積もりは! 桁が一つ多いぞ!!」
課長の顔が真っ赤に茹で上がっている。唾が飛ぶ。周囲の社員が怯えて縮こまる。
しかし、私は無敵だった。
怒鳴られながらも、私の口元には聖母のようなアルカイックスマイルが浮かんでいたのだ。
「申し訳ございません、課長(⋯⋯ふふ、吠えるがいい。私には昨夜見た、騎士と聖女の秘密の朝チュンという永遠の資産があるのだから⋯⋯)」
私の瞳には課長のハゲ頭ではなく、月光の下で寄り添う二人の美しい姿が映っている。
今の私にとって、課長の怒声など小鳥のさえずり以下だ。
「お前、なんで反省しながら悟りを開いてるんだ! 気味が悪いぞ!」
「いえ、世界が美しいなと思いまして」
「はぁ!? 病院行け病院!!」
今日も今日とて世界は理不尽だ。けれど私の心は乱れない。
百合の波動がある限り、この無機質なオフィスの砂漠でも、私は一輪の花として生き延びていけるのだから――観測終了。




