決めなくていい幸福――社長は今日も秘書に飼われている②
ときに時間圧縮観測下においては、時計の針が猛烈な速度で回転する。
執務室を支配していた青白い光は、窓の外から忍び寄る夕闇と混ざり合い、濃厚な茜色へと塗り替えられていった。
超高層ビルの最上階から見下ろす街は、帰宅を急ぐ車たちのテールランプで赤く脈打っている。その都会の喧騒から隔絶された静寂の中で、デスクの上に置かれた一枚の書類が放つ圧迫感だけが、室内の酸素を希薄にしていた。
それは数百、千億という天文学的な金額が動く国家規模の提携契約書。
弁護士団や役員たちはとうに退室し、あとはCEOの最終署名だけを待つ重苦しい静寂が部屋を支配している。
デスクの前に座るアヤの右手には、一本のスタイラスペンが握られていた。
しかし、その穂先は液晶画面に触れることさえできず、ただ虚空で激しく震えている。
「あ⋯⋯う、ぁ⋯⋯」
カタリ、と短い乾いた音が響いた。
耐えきれなくなったアヤの指先から力が抜け、ペンがデスクの上を転がったのだ。
アヤは両手で顔を覆い、椅子ごと丸くなるようにして身を震わせる。その背中は、世界に革新をもたらす「女帝」のそれではなく、ただ重圧に押し潰されそうな迷子の子供のようだった。
「ユイ⋯⋯決めたくない。私が間違えたら世界が⋯⋯たくさんの人が⋯⋯っ。もう、嫌。私には、重すぎる⋯⋯。ねえ、ユイ⋯⋯助けて⋯⋯」
震える声で紡がれたその弱音は、彼女が背負い続けてきた「責任」という名の重力に限界が来た証だった。
――その瞬間、静寂を破ることなく、長い影が動いた。
アヤの背後に控えていたユイが、音もなく一歩踏み出す。
彼女は椅子の背もたれを包み込むようにしてアヤの背後を奪うと、そのまま流れるような動作でアヤの身体を抱きしめた。
「ひゃっ⋯⋯」
不意の体温にアヤが小さく跳ねる。だがユイは逃がさない。
ユイは左手を伸ばすと、アヤの視界を遮るようにその両目を優しく、けれど拒絶を許さぬ強さで覆った。
そして、空いた右手でデスクに落ちたペンを拾い上げると、アヤの右手をその上からそっと包み込む。
「⋯⋯怖いのなら、目をつぶっていてください。何も見る必要はありません」
耳元で囁かれるユイの声は、先ほどまでの冷徹な秘書のそれとは一線を画していた。それは甘い麻酔を含んだ毒薬のように、アヤの脳髄をじわりと痺れさせていく。
「指に、力を入れないで。九条さんの意志は不要です。私があなたの身体を動かしますから⋯⋯。いいですか? 九条さんは、何も決めていない。すべては私が勝手にやったことです。あなたはただの、私の指の延長に過ぎません」
その言葉を紡ぐ直前に。ユイは覆っていた手の隙間からアヤの瞳をじっと見つめた。
その眼差しが問うていた――『私は、あなたの重責をすべて引き受ける。あなたは私にすべてを預けられるか。その覚悟がありますか』
アヤはゆっくりと頷いた。瞼を閉じる前にユイに向かって。
その小さな首振りがユイへの完全な信頼であり、同時にユイが「これから何をするか」を十分に理解していることを示していた。そして――ユイもまた、それを受け入れた。
視界はユイの掌によって闇に閉ざされ、右手の感覚はユイの指の動きと同化していく。
ユイの力がアヤの手を導き、さらさらとペンが走り出す。
(――す、素晴らしい!)
私の意識は震えながらも冷徹に観測を続けた。
アヤさんは今『サインをしていない』。
彼女は『サインをさせられている』。
その『受け身』の状態こそが、彼女にもたらす『最高の喜び』になっている!
なぜなら、彼女はもう『判断の重責』から完全に解放されたから!
『私が間違えたら』という恐怖も『責任をとらなければ』という義務も『世界を左右する決定』という圧迫感さえも、すべて、ユイさんの手の中に吸い込まれた⋯⋯。
その『安堵』こそが――人類が到達可能な、最高の『幸福』だというのか!!!???
その瞬間、アヤの瞼の奥で彼女の頭脳が何かを「処理」していることが、かすかな呼吸の変化で伝わる。
目を塞がれているからこそ、彼女は初めて「完全に脱力」ができた。判断の苦痛から解放され、ただユイという軌道に身を委ねる。その過程でアヤの口元にかすかな笑みが浮かぶ。
それは「助かった」という笑みであり「ようやく、本当の自分に戻れた」という笑みだった。
(これだァァァッ!! 見ましたか今!? 全宇宙が震えるレベルの『責任という名の自由』を返上する恍惚!!)
私は脳内の記録回路をフル稼働させ、震える指(意識体)で虚空にこの聖なる関係性の定義を打ち込む。
【観測報告書 No.1025】
対象:九条アヤ、篠宮ユイ
判定:Sクラス(選択権剥奪・決断疲れ依存・全環境管理)
備考:表向きの「CEOと秘書」は、ただの舞台設定に過ぎない。
その実態は意思を放棄した美しい観賞魚と、水温さえも支配する飼育員。
このサインは契約ではない。――完全なる家畜化の証明だ。
(ユイさんは知っているんだ⋯⋯! アヤさんのような天才にとって『選択』という行為がどれほどの猛毒であるかを! だからこそ彼女は『合理性』という名の麻酔でアヤさんの自我を丁寧に切り離し、自分という『絶対的な正解』に寄生させている⋯⋯。この首輪は目に見えない。けれど鎖の端は確かにユイさんの指に握られているんですよ⋯⋯!!)
自立心を放棄し、管理されることに無上の安らぎを見出す社長。
そして、その自立心を外科手術のように切除し自らの手の中に囲い込む秘書。
重なり合った二人の影は、夕闇の中で一つの巨大な生き物のように深く、深く溶け合っていた。
深い夜がCEO室のガラスの壁を漆黒の帳で塗り潰していた。
先刻まで街を彩っていた光も、今や遥か眼下で静かに明滅する塵の山に過ぎない。
時間圧縮観測の終わりが近づいている。私の意識は激しい疲労と引き換えに、二人の関係が最も「純化」される瞬間を捉えていた。
部屋の中央に置かれたソファの上で、二人の輪郭が混ざり合う。
アヤは社長としての鎧を完全に脱ぎ捨て、ユイの膝にその頭を横たえていた。
ユイは何も言わず、ただ一定のリズムでアヤの柔らかな髪に指を通していた。
指先が頭皮を掠めるたび、アヤの喉から小さく、甘やかな吐息が漏れ出す。人前で見せる鋭利な知性は消失し、彼女はただ、ユイが与える「無」という名の揺り籠に揺られていた。
ソファに身を預けたアヤが、だんだんと瞼が重くなるのを感じ始めた。
その時ふと不安が襲った。
「⋯⋯ユイ。私、明日、何時に起きればいい⋯⋯?」
アヤの掠れた声がユイの太ももに吸い込まれるように響く。
それは単なるスケジュールの確認ではない。自分の人生の「秒単位の主権」を、再び相手に差し出すための問いかけ。
「午前七時です⋯⋯それまで、九条さんは何も考えなくていい。ゆっくり休んでください」
その言葉とともにユイの深いダークグレーの袖が、かすかにアヤの顔に当たった。
その『接触』だけでアヤの身体は『これが命令である』と理解する。
「⋯⋯ユイ。もし、夢の中で⋯⋯仕事のことを思い出しちゃったら⋯⋯」
その言葉に込められたものは単なる心配ではない。アヤは知っている。自分の脳は勝手に動く。
眠っている間も無意識のうちに、あの契約書のことを処理しようとするだろう。
責任という鎖は、たとえ意識を手放しても勝手に脳髄に絡みつく。
だから彼女は、その「自動思考」さえも、ユイに委ねたいと願っていた。
ユイは指を止め、アヤの額にそっと掌を滑らせた。
「いえ、夢を見ることも許可しません。無になって私に身体を預けてください。⋯⋯いいですね?」
その冷徹な言葉を受けたアヤの顔に浮かんだのは、この世の何物にも代えがたい幸福の色だった。
彼女はうっとりと瞳を閉じ、ユイの指先に自ら顔を擦り寄せ、吸い付くように甘えた。
「⋯⋯うん。わかった。夢も見ない⋯⋯。ユイの中に、ずっと、いる⋯⋯」
(――あ、あああああああッ!!)
私は本棚の陰で、もはや魂が揮発しそうなほどの衝撃に打ち震えていた。
脳内の百合センサーはとっくに針を振り切り、計測不能のアラートが真っ赤なノイズとなって視界を覆い尽くしている。
(出た⋯⋯出たァァァッ!! 『終生契約』の再構築!! 『夢を見る自由』さえ返上して、秘書の存在なしでは己の輪郭さえ保てないほどに堕ちていく社長⋯⋯ッ! それは幸福な寄生であり、美しき家畜化⋯⋯!! ユイさんの指先ひとつで、一人の天才が、ただ愛されるためだけの『装置』に書き換えられていくんだァァァッ!!)
尊さが致死量を超えた。
アヤがユイの指先に鼻先を寄せるその瞬間、二人の間に流れる波動は、物理的な質量を持って私の意識体を押し潰した。心拍数は限界に達し、視界がピンク色の吹雪に呑まれてホワイトアウトしていく。
同時に観測用のヘッドギアが内部から焼け始める(ような気がする)。
一二〇〇度の窯にくべられた陶土のように私の精神は、熱量で肉体という容器を突き破ろうとしていた。
(あ、やばい、そろそろ戻らなきゃほんとに死ぬ。使いすぎた奥義の反動が⋯⋯でも、最高に重たくて、最高に清らかな⋯⋯終生契約⋯⋯ッ!)
意識の深淵、その最後の一幕。
深い闇に包まれたCEO室で、アヤは安らかな寝息を立てていた。秘書の膝という唯一の安息地に身を預け、世界から完全に切り離された彼女の寝顔は、無垢な乳児のようでもあり、あるいは意志を剥奪された美しい彫像のようでもあった。
ユイは眠るアヤの顔をそっと見つめた。
その表情は、さっきまでの「完璧な秘書」のそれではない。
ゆっくり、その手を伸ばし自らの銀縁眼鏡に手をかける。
(――あ。あ、あ⋯⋯?)
観測空間の私の感覚が微かに『歪み』始めた。
眼鏡が外され、露わになった素顔。その瞳の奥底に浮かぶのは底なしの、飢えた独占欲。
その瞬間、ユイさんから放たれた『波動』の質が確かに変わった。
『秘書』という役割の下敷きにあった『本体』がついに顔を出す。
それは『支配者』の顔。いや、それ以上に――
『飼育者』の顔⋯⋯いや、もっと⋯⋯
『所有者』の、もっと奥深い⋯⋯
(この波動⋯⋯計測⋯⋯計測⋯⋯計⋯⋯)
観測者としての『感覚システム』が初めて『エラー』を示した。
「――ここから先は、業務外です」
ユイはゆっくりと顔を近づけ眠る主の額に、氷のように冷たい唇を落とした。
その唇は「仕えるもの」のそれではなく「支配するもの」のそれだった。
そしてアヤはその支配の下に、もう二度と離れることが出来ない。
百合の波動は二人だけの聖域で静かに遮断された。観測者は、もはやその扉を開く権利を持たない。
* * *
「ぶふぉっ!!」
現実世界。IT企業の多目的トイレ。
私は便座の上で盛大にのけ反り、同時に鼻から噴水のように鮮血を放った。
時間圧縮観測の代償。鼻腔を襲う強烈な圧迫感と脳を焼くような後遺症的幸福感が私を襲う。
「はぁ⋯⋯っ、はぁ、はぁ⋯⋯ッ!!」
震える手でトイレットペーパーを引き出し、鼻に詰め込む。自作のヘッドギアからは過負荷で目に見えない煙が出ている気がした。
しかし、私の心は洗いたてのシーツのように清らかだった。
(素晴らしかった⋯⋯。これこそが管理百合の極致⋯⋯。私は今、人生の最高到達点に立っている⋯⋯)
鼻血で赤く染まった床を大急ぎで拭き取り、鏡を見る。そこには鼻に紙を突っ込んだ、どう見ても社会不適合者な二十六歳OLがいた。
さて会議だ。資料を持って何食わぬ顔で戦場に戻らなければ。
意気揚々と個室の鍵を開け、外へ踏み出した、その時だった。
「――隅野ォ!!」
背後から氷点下の、そして聞き慣れた地獄の怒号が響いた。
ゆっくりと振り返ると、そこには顔を真っ赤にして、頭頂部を怒りでさらに光らせた課長が腕を組んで立っていた。
「⋯⋯あ。課長。お疲れ様です?」
「『お疲れ様』なわけがあるか!! お前、いきなり給湯室で紙吹雪を撒き散らして、どこで何をしていたんだ!? シュレッダーのゴミ箱はひっくり返ってるわ、仕様書は宙を舞ってるわで、オフィス中が紙屑だらけなんだぞ!」
「いえ、その、宇宙の波形を観測しておりまして⋯⋯」
そう言いながら、私は微かに笑みを浮かべていたかもしれない。
この課長には永遠に理解できない『波動』が確かに存在する。
それを『認識』できない存在が、この男だ。
(⋯⋯ふっ、哀れだ。本当に)
「宇宙だぁ!? お前、またわけのわからんことを⋯⋯! それにその鼻は何だ! ティッシュが真っ赤じゃないか! 喧嘩でもしてきたのか!?」
時間圧縮を使ったとはいえ、主観時間の十数時間は現実でも数十分のロスを生んでいたらしい。
「いいか、今すぐ会議室に来い! 部長がお前の持ってくる資料待ちで、取引先の前で延々と自社ビルの構造について語るハメになってるんだぞ! 早くしろ!!」
そのまま私は課長に首根っこを掴まれ、ズルズルと廊下を引きずられていった。
同僚たちの「またか⋯⋯」という憐憫にも似た視線が突き刺さる。
だけど。
怒鳴り散らす課長の背後で、私はそっと指で勝利のVサインを作った。
どれだけ怒られようと、どれだけ始末書を書かされようと私の魂は無敵だ。
なぜなら私の脳内には、あの「業務外の尊い」記憶が永遠の資産としてアーカイブされているのだから。
(⋯⋯ふふ、お疲れ様です課長。でも、あなたの怒声も今の私には、祝福のファンファーレにしか聞こえませんよ⋯⋯)
私は鼻に詰めたままだったトイレットペーパーを課長にいつまで詰めているんだと、さらに倍の音量で怒鳴られることになったが、その足取りはどこまでも軽やかだった。
観測終了。
今日も今日とて世界は関係性(百合)によって救われている。




