決めなくていい幸福――社長は今日も秘書に飼われている①
ギュルギュルギュル、と。
無機質な断裁音が月曜午前九時の薄暗い給湯室に響き渡っている。
私は「無」だった。正確には感情のスイッチを完全にオフにし、目の前のシュレッダーに不要な仕様書を吸い込ませるだけの高性能な肉体労働ロボットと化していた。
隅野ミキ、二十六歳。都内IT企業の歯車の一枚。
周りでは同僚たちが死んだ魚のような眼球をディスプレイに向け、あるいは週末の疲労を濃いめのコーヒーで誤魔化しながら、今週も始まる「労働」という名の懲役を受け入れ始めている。
(⋯⋯月曜朝のオフィス。ここは全人類が『正解』のふりをして『不正解』な人生を塗り固める場所。あるいは、個性という名の汚れを漂白される洗濯槽⋯⋯)
なぜ人は働くのか。その答えを求めようとすること自体が、この砂漠のような現代社会では無意味な足掻きに思える。
(あぁ、足りない。圧倒的に足りない⋯⋯百合という名の、人生を滑らかにする潤滑油が。このパサパサに乾ききった社会に、高密度の関係性(百合)を注がなければ、私は遠からず摩擦熱で焼き切れてしまう⋯⋯!)
――その時だった。
脳内の静寂を切り裂くように、重厚な弦楽器の音が鳴り響いた。
それは軽やかなバイオリンでもなく、陽気なチェロでもない。魂の最深部をじわりと痺れさせるような低く、重く、どこまでも深いコントラバスの重低音――百合の波動。
『ビ、ビ、ビ⋯⋯⋯⋯。百合アラート発令。特殊波動、受信開始⋯⋯座標特定中』
思考回路が瞬時に切り替わる。視界の隅に展開された不可視のホログラム波形。
波形⋯⋯超長波。分類コード:《生活侵食型・依存系・管理長波》。
(この波形⋯⋯長い。そして、深い⋯⋯ッ! 一筋縄ではいかない、人生の全権を相手に委ね、自分という個を溶かしていくような、濃密な依存の予感⋯⋯!)
鼓動が跳ねる。だがしかし冷徹な現実という壁を乗り越えなくてはならない。
今は月曜の朝で私は勤務中。あと数分後には進捗会議という名の公開処刑が控えている。ここで意識投射を行えば観測を終える頃には私の社会的な居場所が消滅しているだろう。
(この波形⋯⋯逃せば一生の不覚。しかし今、勤務中。⋯⋯仕方ない。奥義、使います)
「待ってろよ私の百合ぃ!」
ガシャーン!!
奇声とともに足がシュレッダーのダストボックスを強打し、手元にあった仕様書の束がまるで祝砲のように宙へ舞い上がる。
白い紙吹雪がスローモーションで舞い散る中、しかし私の意識はすでにここにはない。
私は散乱する機密書類を完全に無視し、周囲の目を盗んで「多目的トイレ」へと滑り込んだ。
(出社中専用奥義――時間圧縮観測、開始)
個室の鍵を閉め、便座に腰を下ろす。懐から自作のヘッドギア――百合同調器(アルミホイル裏打ち・高密度段ボール製)を装着。
「起動、《ユリ・スコープ》。
ターゲット座標、設定――同時に時間圧縮観測理論を適用!」
主観時間、最大十数時間。
現実時間、わずか数十秒から数十分。
代償として凄まじい精神疲労と鼻腔への圧迫感、そして現実に戻った後の「後遺症的幸福感」が私を襲うだろう。使いすぎれば身体が死ぬ一歩手前の荒技だ。
(でも構わない。この尊さを観測せずに生き延びるより、観測して散る方が私にはよっぽど『正解』だ⋯⋯!)
ぐりり、と鼻の奥に鋭い痛みが走る。内圧が上がる。
意識が肉体という檻を強引に突き破り、圧縮された時間の隙間へと滑り込む。
「全速前進――意識を港区の摩天楼、ガラス張りの鳥籠へ射出ッ!!!」
カッ、と視界が真っ白な光に染まった。
オフィスの喧騒も、シュレッダーの音も、圧縮された時間の彼方へ。
重力から解き放たれた私の精神は、青白いガラスに囲まれた、空に最も近い「水槽」へとダイブした。
浮遊感のあと、私の意識は「青」の世界に着地する。
そこは港区の一等地に聳え立つ、地上二百メートルを越える超高層ビルの最上階。壁一面が継ぎ目のない強化ガラスで覆われたCEO室は、眼下に広がるコンクリートのジャングルを、あたかも水槽の外側にある風景のように切り取っていた。
あまりにも静謐で、無機質で、外界から隔絶された空間。
私は気配を殺し広大なウォルナット材のデスクの背後、重厚な書棚の陰へと滑り込んだ。時間圧縮観測理論を適用しているため、私の感覚は鋭敏を極め、呼吸の間、まつ毛の震えひとつまでがスローモーションのように克明に読み取れる。
視界の中央に今回の観測対象A――九条アヤがいた。
彼女は時代の寵児と謳われるITベンチャー『クジョウ・システムズ』の最高経営責任者だ。数千の社員を率い、複雑怪奇なアルゴリズムの海を支配する「天才」。
しかし、デスクに置かれたタブレット端末を見つめる今の彼女に、その威厳は微塵もなかった。
「⋯⋯あ。あぁ、嫌だ⋯⋯どうしよう⋯⋯」
アヤの細い指先が、絶え間なく更新されるスケジュール通知を見て、小刻みに震えている。
彼女の知能は世界の仕組みを数式で解き明かすために特化されている。
その副作用か、彼女の脳は「日常的な選択」という行為に対して極端な脆弱性を抱えていた。
昼食は和食か洋食か。会議のネクタイは青か赤か。メールの返信は「承知」か「了解」か。
凡人なら無意識に処理する無数の分岐が、彼女にとっては神経を削り取る暴力として襲いかかる。
ブラウスの襟は不格好に跳ね、第一ボタンは掛け違えられ、世界一美しいはずの知性は「決断」という名の疲労によって萎れかけていた。
「⋯⋯ユイ。来て」
スケジュール通知の画面を見つめたまま、アヤはそう呟いた。
その時、音もなく自動ドアが開いた。
(――こ、これはッ!! 波形分析完了!
『ユイ。来て』は単なる『呼び出し』なんかじゃないっ!
アヤさんが無意識に発した、その『呼び声』はユイさんという秘書を『磁力で引き寄せる』ようなものっ!!
即ち、これはもう『主従関係』ではなく『相互依存システム』が成立している証拠だぁ!!
アヤさんはユイさんなしに判断ができず、ユイさんはアヤさんから求められることでしか自分を定義できない。
その『相補的な欠損』が、二人の間に流れる『無言の通信』を可能にしている⋯⋯!!!)
観測対象B、篠宮ユイの登場――彼女は秘書という概念を具現化したような、一分の隙もないダークグレーのパンツスーツ姿でアヤの背後に立った。眼鏡の奥は氷河のように冷徹だが、その指先がアヤの肩に触れた瞬間、室温が数度下がったような、心地よい静寂が室内に満ちる。
「九条さん。また、呼吸が浅くなっていますよ」
ユイの声は低く、そして慈雨のように柔らかかった。彼女は躊躇いなく手を伸ばし、アヤの乱れたブラウスの襟を整え始める。
アヤはビクリと身体を強張らせた。しかし――その瞬間、アヤは自ら身体の角度を調整した。
ユイの手が、より容易に自分の衣を扱えるように。その首と鎖骨が、より無防備に晒されるように。
その身体言語を受け取ったユイの指先は、一瞬だけ停止した。
(――見た!? 今、見たよね全人類!!)
私は観測空間の隅で音のない絶叫を上げていた。
(これは『拒絶しない』という受動的な許可ではなく『今、やってくれ』という能動的な懇願!
アヤさんは『支配されることを、自分で選んでいる』んですよ。
その『選択』を受け取ったユイさんの指先は、単なる『秘書業務』ではなく『これからも、この人を完全に支配し続ける責任を自分一人で背負う』という、究極の『覚悟』に変わったんです。こ、これは高濃度の百合だっ!!!)
ユイは掛け違えられたボタンを一つずつ、丁寧に、そして執拗なほどゆっくりと外していく。
指先がアヤの鎖骨に微かに触れるたび、アヤの喉が小さく鳴った。ユイの指先は常にひんやりとしていて、決断疲れで熱を持ったアヤの肌には至高の鎮静剤として機能する。ユイはそれを楽しむように、ボタンを一番上まで留め直した。まるでアヤの自由意志を物理的な布地で封じ込めるような手つき。
「⋯⋯ユイ。私、今日、何をしなきゃいけないんだっけ。メールが⋯⋯たくさん、赤いバッジが消えなくて⋯⋯どれを読めばいいのか、わからないんだ⋯⋯」
「今日、あなたが会うべき人は既に選別して時間を抑えています。それ以外は私が全て『不要』と判断して消去しました。⋯⋯いいですか。あなたは私の用意した椅子に座って、私の選んだ言葉をなぞるだけでいい。⋯⋯それ以上のことは、九条さんの脳には負荷が強すぎます」
「⋯⋯うん。わかった。ユイが決めたなら、それが正解なんだよね」
アヤの瞳から自立という名の苦痛が霧散していく。
代わりに宿るのは、完全な受動性がもたらす恍惚だ。ふとアヤは自分の足元へ不安げに視線を落とした。
「⋯⋯ユイ。靴下⋯⋯これ、合ってる⋯⋯?」
その問いかけにユイは小さく、しかしどこか満足げな溜息をついた。
そして流れるような動作でアヤの足元に膝をついた。
跪く。それは臣下の礼であるはずなのに、その場を支配しているのは圧倒的な「飼育員」のオーラだった。
「⋯⋯いいえ。左右で僅かにリブの深さが違いますね」
ユイは膝をついたまま、アヤの足首をそっと持ち上げた。その動作で明かされるのは、この秘書が毎日、主の足がどれだけむくむかを、ミリ単位で把握していることだ。
左足がほんのわずか腫れている。昨日の会議でアヤが緊張のあまり脚に力を入れ続けていたからだろう。
「昨夜揃えておいたもの以外は履かないでと言ったでしょう? この靴下なら、あなたの足に最適な圧をかけます」
それは指摘というより「診断」だった。完璧な管理とは相手の苦痛を先読みし、その苦痛が生じる前に、すべてを整えることなのだ。
新しい靴下を丁寧に履かせ、シワをピンと伸ばす。その指の動きは肌に「私はここに触れている」という記憶を刻みつけるような、愛撫に近い湿度を帯びていた。
そしてユイが、アヤの足首を両手で包み込む。
その掌が感じるのは自分の世話によって温まったアヤの肌。
「次は私が履かせますから」
その言葉は単なる約束ではない。毎朝、毎晩、この肌温を感じながら靴下を用意し、膝をついて、履かせ続ける。その行為そのものへの、約束だった。
相手の「朝」と「夜」をすべて自分が管理する。相手の肌に触れる時間を自分が独占する。
それは支配でありながら同時に愛撫そのものだ。
アヤの頬がポッと朱に染まった。彼女は抗うどころか、その支配的な提案に熱っぽい視線を返し力なく頷いた。
「⋯⋯うん。ユイが、全部やって⋯⋯私、何もしないから⋯⋯」
(――!? これですよ、これ!!
『毎朝、毎晩』ですよ。つまり、この秘書はアヤさんの『起床』から『就寝』まで『朝』と『夜』という、人間の最も無防備な瞬間をすべて自分の手の中に囲い込むんです。
その『儀式の繰り返し』こそが『見えない首輪』の正体なんですよ。
毎日、毎日、肌に触れる。
毎日、毎日、命令を聞く。
毎日、毎日、支配を受ける。
その『積み重ね』が、やがて『依存』に変わり『依存』が『愛』に変わり『愛』が『必然』に変わる。
そう、それは⋯⋯美しい進化です)
アヤという稀代の天才が、ユイという完璧な管理者の手によって、一歩ずつ「機能的な観賞魚」へと仕立て上げられていく。
このCEO室という名の巨大な水槽において水の温度も、酸素の量も、そして自分がいつ尾びれを振るべきかさえも。
全てはユイさんによって完璧に管理されているのだ。
(あぁ⋯⋯尊い。美しすぎる支配⋯⋯。これが現代社会の最果てにある、母性と合理性が融合した『究極の飼育』の形か⋯⋯!)
私は震える意識でその一挙手一投足を、魂のログに刻み込み続けた。




