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百合の波動を観測します ~限界OL隅野ミキの命がけ報告書~  作者: 抵抗する拳
VTuberの裏側――観測対象:獅子王レオ、真壁サキ 
3/5

EXステージ:所有印(マーキング)は、朝陽に溶けて


 世界が青白く震えていた。


 小鳥のさえずり。新聞配達のバイクが遠くで走る音。カーテンの隙間から差し込む、遠慮のない朝陽の暴力。

 それらが私の鼓膜と網膜をノックし、泥のような睡眠の沼から意識を強引に引きずり上げる。


「⋯⋯ふごッ!?」


 私は奇妙な呼吸音とともに覚醒した。

 ガバッ、と上半身を起こす。視界がグラグラと揺れる。

 ここはどこだ。私は誰だ。


 見慣れたカビ臭い天井。散乱した栄養ドリンクの空き瓶。そしてPCモニタの前に突っ伏していた自分の無様な姿勢。


 ああ、そうだ。ここは都内の安アパート「メゾン・ド・エスポワール(希望などない)」の六畳一間。そして私はしがない企業のOL、隅野ミキ(二十六歳)だ。


 ズキリ、と鼻の奥が痛んだ。

 手をやると昨夜詰め込んだティッシュがカピカピに乾いて詰まっていた。

 記憶が濁流のように蘇る。


 昨夜の観測。

 獅子王レオと真壁サキ。

 スタジオの楽屋。

 ソファでの密着。

 そして――首筋への甘噛み。


「⋯⋯は、夢じゃ⋯⋯なかった⋯⋯」


 乾いた唇から、祈るような言葉が漏れる。

 夢であってたまるか。あんなにも鮮烈で、あんなにも神聖で、あんなにも私の生命維持装置を揺るがした光景が、私の脳内が生み出した妄想であっていいはずがない。

 あれは現実だ。

 この東京の片隅で、確かに起きた奇跡なのだ。


 私は震える手で鼻の詰め物を抜き取り、PCのマウスを握った。

 モニタはスリープモードに入り、真っ暗なままだ。

 しかし、私の脳内に埋め込まれた(と信じている)第六感――「百合の波動」感知センサーが、微弱ながらも、とてつもなく純度の高いシグナルを受信していた。


 ピ、ピピ⋯⋯。

 脳内で鳴り響くソナー音。


(⋯⋯残っている)


 私は確信する。

 昨夜の波動は爆発的な「臨界突破」だった。


 今朝の波動はそれとは違う⋯⋯嵐が過ぎ去った後の凪のような。

 雨上がりのアスファルトから立ち昇る陽炎のような。

 静かで、気だるげで、それでいて湿度を一二〇パーセント含んだ「事後」特有の残り香。


「場所は⋯⋯特定済み」


 スタジオではない。

 あそこは「仕事場」だ。あんな場所で朝を迎えるほど真壁サキという女は無粋ではないし、レオという少女を粗末に扱ったりはしない。

 ならば場所は一つしかない。

 二人が帰るべき場所。

 この世界から切り離された、真の聖域。


 ――真壁サキの自宅マンション! 


「見届けなければならぬ⋯⋯」


 私は充血した目をこすり、自作のヘッドギア(段ボール製・アルミホイル巻き)を装着し直した。

 体調は最悪、睡眠不足と貧血で立っているだけで目眩したが観測者としての魂が叫んでいる。

 夜の激情が朝の光の中でどう変質したのか。

 それを確認せずして、どうしてのうのうと満員電車になど乗れようか。


起動(ブート)、《ユリ・スコープ》。

 ターゲット座標、再設定。

 ――朝チュンの向こう側へ、全速前進ッ!!」


 カッ、と視界が白く染まる。

 肉体の重力が消失する。

 私は再び、意識だけの透明な存在となって、朝の東京上空へと射出された。



 ――着地成功。


 肌を撫でる空気が六畳一間のそれとは決定的に異なっていた。

 湿度調整された完璧な空調。


 ほのかに漂う高級なリネンの香りと淹れたてのコーヒーのアロマ。

 そこは都心の一等地に建つ高級マンションの一室だった。

 広いリビングには朝の柔らかい光が満ちている。


 私の意識体カメラが捉えたのはリビングではなく、その奥――生活感がありながらも生活の匂いを極限まで消した清潔な空間、洗面所だ。


 大きな鏡の前に一人の少女が立っていた。


(⋯⋯ッ!?)


 その姿を視認した瞬間、私は音のない悲鳴を上げて意識体ごと床に転がりそうになった。


 獅子王レオ。

 一〇〇万人のファンを持つVtuberの「中身」。

 彼女は今、鏡の前でぼんやりと歯ブラシを口にくわえていた。


 問題は、その服装だ。


 白い⋯⋯ワイシャツ。それも明らかに彼女のサイズではない。

 肩のラインはずり落ち、袖は指先まですっぽりと隠れ、裾は太ももの半分ほどまでを覆っている。


 下はショートパンツを履いているのだろうがシャツの丈が長すぎて、まるで何も履いていないかのような錯覚アリュージョンを引き起こす、奇跡の絶対領域!


(か⋯⋯彼シャツ⋯⋯だとぉっ!!)


 私は洗面所の天井付近で高速回転した。

 ベタだ。あまりにもベタだ。


 平安時代から続く古典芸能と言ってもいい。

 だがしかし――王道ベタとは、それすなわち王の道。

 人類が数千年かけても塗り替えられない「萌え」の極致が、そこにはあった。


 小柄な身長のレオに対してサキは長身のスレンダー体型。

 サキが普段着ているであろう、仕立ての良いシンプルなシャツは、レオが着るとまるで「布の要塞」のように彼女を包み込んでしまう。


 それは単なるサイズの違いではない。

 「真壁サキという人間の抜け殻に、獅子王レオが包まれている」という、物理的な所有の証明なのだ。

 あの布地の一枚一枚、繊維の一本一本にサキの匂いと体温が染み付いているはずだ。

 レオは今、全身で「サキ」を纏っている。


「⋯⋯ん」


 レオが口から歯ブラシを離した。

 鏡の中の自分を見つめる瞳は、まだ眠気でとろんと濁っている。


 昨夜の緊張感など微塵もなく警戒心ゼロ。野生解放ゼロ。

 そこにいるのは飼い主の寝床で腹を出して眠り、朝ごはんに起こされたばかりの愛玩動物そのものだ。


 レオはだらりと長い袖を振って口元の泡を拭った。

 そして、ふと首を傾げた。


 さらりと黒髪が流れる。

 無防備に晒された、白く細い首筋。


 そこには――「赤」があった。


(――ひゃっ!?)


 私は息を呑んだ。

 鮮やかな、花弁のような赤。

 虫刺されではない。火傷でもない。

 それは柔らかい唇で皮膚を強く吸い上げ、内出血を起こさせた痕跡――キスマーク。あるいは所有印マーキング


 昨夜、私が最後に目撃した、あの楽屋での「甘噛み」は、ただの儀式ではなかったのだ。

 サキは本気でレオの肌に自分の名前を刻み込んだのだ。消えないように。忘れないように。一晩中、その熱がレオの身体を支配するように。


 レオは鏡越しにその痕を見つめている。

 さして驚く様子はなく彼女は袖に隠れた指先を伸ばし、その赤い花弁にそっと触れた。


 なぞる。

 愛おしそうに。

 宝物を確かめるように。


「⋯⋯えへへ」


 静かな洗面所に甘く、ふやけた笑い声が落ちた。


「⋯⋯残ってる」


 独り言。けれど、その声に含まれる感情の湿度は私の計測器を破壊するには十分すぎた。

 とても嬉しそうなのだ。

 自分の体にあとがつけられたことが。

 自分が「誰かのもの」である証拠が、朝になっても消えずにそこにあることが。

 彼女にとってこの赤い痕は勲章であり、結婚指輪であり、そして絶対的な安らぎの象徴なのだ。


 レオはうっとりと目を細め、鏡の中の痕に向かって口づけを送るように唇を突き出した。

 その表情はあまりにも無防備で、そして淫靡だった。


(だ、だめだ⋯⋯これ以上見てはいけない⋯⋯これ以上は⋯⋯!)


 私の理性が警告を発する。

 これはプライベートの覗き見だ。犯罪だ。倫理的にアウトだ。

 だが魂が叫んでいる。「見ろ」と。「これを見届けずに死ねるか」と。


 その時、背後のドアが開く気配がした。


「――何をニヤニヤしているの、レオ」


 凛とした冷たくも艶のある声――真壁サキの登場だ。


 鏡の中にもう一人の人物が映り込む。彼女は既に完璧な身支度を整えていた。

 レオのダボダボシャツとは対照的に、身体のラインにフィットしたダークネイビーの部屋着。髪はアップにまとめられ、薄くメイクも施されている。


 朝六時だというのに隙がない。

 この女に「油断」という文字は存在しないのだろうか。


 サキは腕を組み、ドア枠に寄りかかってレオを見下ろしている。

 その視線は呆れているようでいて、底知れない甘やかさを孕んでいた。


「あ、サキ⋯⋯」


 振り向くレオの満面の笑み。尻尾が見える。ブンブン振っている。そのまま飛んでいきそうなぐらいだ。


「見て、これ。⋯⋯消えない」


 レオは恥じらうどころか誇らしげに顎を上げ、首筋の痕をサキに見せつけた。

 「見て見て、こんな素敵なものをもらったよ」と報告する子供のように。


 サキの眉がピクリと動く。

 彼女はゆっくりとレオに歩み寄り、その首筋を覗き込んだ。


「⋯⋯随分と、派手に残ったわね」


 言葉とは裏腹に、サキの指先が痕に触れる手つきは優しかった。

 冷たい指が熱を持った赤い皮膚をなぞる。

 レオが「ん」と小さく声を漏らし、サキの手のひらに頬を擦り寄せる。


「サキがつけたんだよ」

「ええ。私がつけた」


 淡々と肯定しているように見える、がしかしその瞳の奥に所有欲という名の暗い炎が揺らめいているのを私は見逃さなかった。

 彼女は後悔など勿論していない。自分の所有物に自分の印がついている。その事実を視覚的に再確認し、悦に入っているのだ。


 しかし次の瞬間、サキはふと現実的な表情に戻った。


「⋯⋯困ったわね」

「ん? なんで?」

「忘れたの? 今日は雑誌の取材と撮影がある日よ」


 レオが「あ」と口を開けた。

 Vtuberといえど最近は「中身」の露出も増えている。顔出しはしなくとも、シルエットや首元が映る撮影はあるだろう。


 一〇〇万人の登録者を持つ清廉潔白なアイドルの首に生々しいキスマークなどあろうものなら、即スキャンダル、炎上確定演出だ。

 マネージャーとしては絶対にあってはならない失態である。


「⋯⋯どうする? 絆創膏、貼る?」


 能天気なレオの提案にサキは鼻で笑った。


「馬鹿ね。余計に目立つわよ。『私、昨日情事がありました』って宣伝して歩くつもり?」

「むぅ⋯⋯じゃあ、どうするの」

「隠すのよ。メイクで」


 サキは洗面台の引き出しを開け、自身の化粧ポーチを取り出した。

 手慣れた手つきでコンシーラーとパフ、そしてファンデーションを選び出す。


「⋯⋯隠しちゃうの?」


 レオが心底残念そうに呟いた。

 彼女にとってこの痕はサキとの繋がりの証だ。消されることは繋がりを断たれることに等しいのだろう。そのションボリとした表情に、サキの手が止まる。


 サキは鏡越しにレオと目を合わせた。そして低い声で告げた。


「レオ。勘違いしないで」

「え?」

「私がこれを隠すのは仕事のタメじゃないわ」


 サキの瞳が剣呑な光を帯びる。

 それは獲物を他者に奪われまいとする獣の目だった。


「私の『印』を⋯⋯わざわざ有象無象の目に触れさせる必要がないからよ」


 ――ッ!!


 私は天井で頭を抱えた。

 (待って! 待ってください真壁さん! その理屈は⋯⋯その理屈はズルい!!)


 スキャンダル回避ではない。

 「見せたくない」のだ。

 自分だけが知っているレオの肌。自分だけがつけた痕。

 それをカメラマンや雑誌を見る読者ごときに共有されるのが我慢ならないのだ。

 ――独占欲、あまりにも純粋で傲慢な独占欲。


 レオの顔がパァッと輝いた。とても単純な子、でもその単純さが愛おしい。


「⋯⋯そっか。サキだけのものだもんね」

「そうよ。私だけのもの。⋯⋯分かったら座りなさい」


 サキはレオの肩を押し洗面台の前に置かれた丸椅子に座らせると、その後ろに回り込んだ。

 美容室で美容師が客の髪を触るような位置関係だが、これから行われるのは髪の手入れではない。

 「隠蔽」という名の愛撫だ。


「顎を上げて。じっとしていなさい」


 命令――レオは素直に顎を上げ、無防備な喉元をさらけ出す。

 サキはコンシーラーのキャップを開け、リキッドを指先にとった。


 冷たい液体がレオの熱を持った痕の上に落とされる。

 ひやりとした感触に、レオの肩が震える。


「ん⋯⋯つめたい」

「動かないで」


 サキはレオの頭を左手で固定し右手の指先で、リキッドを肌に馴染ませていく。

 トントン、トントン。

 リズミカルに優しく、叩き込むように。


 その手つきは恐ろしいほどに丁寧だった。

 ただ汚れを塗りつぶすような雑な作業ではない。

 レオの肌のきめ細かさを損なわないように痕の赤色を少しずつ、少しずつ、肌色へと同化させていく。


 それはまるでもう一度キスをしているかのようだった。

 唇の代わりに指先で。

 吸い上げる代わりに塗り込めることで。

 サキはレオの肌に触れるという行為そのものを楽しんでいるように見えた。


「⋯⋯ん、ぅ⋯⋯」


 レオの喉から甘い声が漏れる。

 くすぐったいのか、それとも感じているのか。

 首筋は神経が集中する敏感な場所だ。そこを愛する人の指で執拗に触れられれば、どうなるか。


「サキ⋯⋯なんか、変」

「何が?」

「くすぐったい⋯⋯奥が、ぞわぞわする」

「我慢しなさい」


 サキは手を止めない。

 むしろ、わざと指の腹で首筋を撫でるように動かしレオの反応を煽る。


「⋯⋯レオが昨日の夜、あんなに甘い声を出して誘うから深く噛みすぎたのよ。自業自得だわ」

「だって⋯⋯サキが⋯⋯」

「言い訳は聞かない」


 サキはパフを取り出し、仕上げのファンデーションを叩いた。

 ポン、ポン、ポン。

 赤い花弁は薄いベージュの粉雪の下へと沈んでいく。

 鮮やかだった痕は、見る見るうちに消え失せ、そこには何事もなかったかのような白磁の肌だけが残った。


 完璧な隠蔽工作カバー

 鏡の中には、いつもの綺麗な首筋に戻ったレオが映っている。


 しかし、これで終わりではない。

 サキはパフを置くと、メイクを終えたばかりのその場所に――自分の親指をぐり、と押し付けた。


「⋯⋯ッ!」


 レオが息を呑むほどの強い力。メイクが崩れることなどお構いなしの強引な接触。

 サキは鏡越しに、レオの瞳を射抜いた。

 その瞳は、朝陽の中でも昏く光っていた。


「⋯⋯いい? よく聞きなさい、レオ」


 サキがレオの耳元に唇を寄せる。

 吐息が鼓膜を揺らす。


「世界中の誰も気づかない。カメラにも映らない。ファンも、スタッフも、誰一人として知らない」


 サキの親指が見えなくなった痕の上を熱く圧迫する。


「でも、このファンデーションの下には私の名前が刻まれている」


 囁き。

 それは呪文であり、契約の更新だった。


「今日一日、誰と話していても、どんな顔をして笑っていても⋯⋯この首筋の熱さを思い出して」


 サキの声がレオの脳髄に染み渡る。


「貴女は、私のものよ」


 ――ッ!!


 レオの身体が弓なりに反る。

 彼女は恍惚とした表情で鏡の中のサキを見つめ返し、震える手でサキの手首を掴んだ。

 拒絶するためではない。

 その指を、もっと強く押し付けてほしいと懇願するように。


「⋯⋯はい。私⋯⋯サキだけのもの」


 隠されたことで逆に意識させられる支配。

 見えないからこそ、強く感じる鎖。

 それは「(おおやけ)での秘密」という名の、二人だけの背徳的な遊びだった。


 レオの瞳が潤み、呼吸が荒くなる。

 朝の支度をするはずの洗面所が、一瞬にして夜の密室のような湿り気を帯びる。


(あ、これダメだ。限界だ)


 天井で見ていた私の意識が明滅を始めた。

 情報量が多すぎる。

 「彼シャツ」に始まり「キスマーク」「隠蔽」「耳元での囁き」「独占宣言」。

 フルコースどころの話ではない。これは致死量のカロリー爆弾だ。

 私の貧弱な精神では、これ以上の尊さを受け止めきれない。


 サキが、レオの髪に口づけを落とすのが見えた。

 レオが、蕩けるように目を閉じるのが見えた。


 そして、私の視界はホワイトアウトした。


「ごちそうさまでしたァァァァッ!!」


 魂の絶叫とともに、私は朝の光の中へと弾き飛ばされた。


「⋯⋯ッ、はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯ッ!!」


 ガバッと私はゲーミングチェアの上でのけ反った。


 天井のシミが見える。聞き慣れたアパートの騒音が聞こえる。隣の部屋の目覚まし時計、階下の住人がトイレを流す音――現実だ。

 私は無事、あの甘美な異次元空間から生還したのだ。


 ズズッ、と鼻をすすると鉄の味がした。

 手元にあった箱ティッシュから数枚を引き抜き、両の鼻の穴にねじ込む。本日二度目の止血処置。私の粘膜はもうボロボロだが、心はかつてないほど晴れやかだった。


「⋯⋯危なかった」


 私は天井を仰ぎ、虚空に向かって独りごちる。


「あと五秒遅かったら、尊さの過剰摂取(オーバードーズ)でショック死していた⋯⋯」


 朝から「彼シャツ」を見せられ、さらにその下の「痕」を見せられ、極めつけにそれを「隠すことで所有を再確認する」という高度なプレイを見せつけられたのだ。


 胃もたれする。

 朝食にフォアグラとトリュフのステーキをホールケーキで挟んで食わされた気分だ。重い。重すぎる。だが最高に美味だった。


 私はPCのモニターに目を落とす。

 画面は真っ黒で何も映っていない。それでも私の脳裏には鮮明に焼き付いている。


 鏡の前で恍惚とした表情を浮かべていたレオ。

 その首筋に冷たいコンシーラーを叩き込んでいたサキ。

 隠された痕。見えない鎖。


(⋯⋯天才かよっ!!!)


 私は机に突っ伏し、身悶えした。


(『見せる』んじゃない。『隠す』んだよ!

 隠すことで、そこにある『秘密』の濃度を高める!

 今日一日、レオ様は一〇〇万人の前で笑顔を振りまくけれど、その首筋にはサキさんだけが知る熱が封印されている⋯⋯!

 その背徳感! その優越感!

 それを想像するだけで、白米五合はいける!!)


 サキの独占欲は、ただの嫉妬ではない。

 レオを「公」のものとして輝かせつつ「私」の部分だけは絶対に誰にも渡さないという、プロフェッショナルかつ倒錯的な愛の形だ。

 そしてレオもまた、その歪な愛の檻に閉じ込められることを至上の喜びとしている。


 ウィン・ウィンだ。完全なる共犯関係。

 こんな美しい生態系が、この東京のど真ん中に存在しているなんて。


「⋯⋯さて」


 私はふらつく足取りで立ち上がり、カーテンを開けた。

 眩しい朝陽が、薄汚れた六畳一間を照らし出す。

 いつもなら「滅びろ」と呪いたくなる朝の光が、今日だけは神々しい祝福の光に見えた。


 時刻は七時。

 そろそろ支度をして、会社という名の養鶏場へ出荷されなければならない。

 今日も上司の小言を聞き、意味のない会議に出席し、愛想笑いで顔の筋肉を酷使する虚無の一日が待っている。


 けれど。


「⋯⋯悪くない」


 私は洗面所に向かい、鏡の前に立った。

 そこに映るのは鼻にティッシュを詰めた、目の下に隈を作った冴えないOLの顔だ。

 レオのように可愛くもないし、サキのように美しくもない。

 誰かの特別になる予定も今のところ皆無だ。


 それでも、私の口角は自然と上がっていた。


 なぜなら、私は「知っている」からだ。

 この退屈で灰色の世界には、目には見えないけれど確かに鮮やかな「百合」が息づいていることを。

 すれ違う人々、電車の中の他人、あるいはTVの中のスターたち。

 その誰もが誰かだけの「秘密」を隠し持っているかもしれないのだ。


 そう思うだけで世界は途端に彩りを取り戻す。


「今日も世界は美しい。⋯⋯さて、稼ぐか」


 私は鼻のティッシュを抜き取り、顔を洗った。

 冷たい水が火照った頬を引き締める。


 スマホの通知が鳴る。

 SNSのタイムラインに、獅子王レオの公式アカウントからの投稿が流れてきた。


『おはレオ! 今日は雑誌の取材だぜ!

 最強のビジュアル決めてくるから、お前ら楽しみに待ってろよな!』


 添付された自撮り写真。

 バッチリメイクを決めたレオ様――顔はがわだが、不敵な笑みでピースサインをしている。

 その首元はファンデーションで完璧にカバーされ、一点の曇りもない白磁の肌が輝いていた。


 リプライ欄には「レオ様かっこいい!」「肌きれいすぎ!」「今日も推しが尊い」というファンの絶賛が溢れている。


 私はスマホの画面を親指で撫で、ニヤリと笑った。


(知らないでしょう、愚民ども)


 その完璧な肌の下に。

 誰の名前が刻まれているのかを。

 その「最強」の帝王が、今朝どんな顔で飼い主に甘えていたのかを。


 ――知っているのは当事者の二人と。

 そして通りすがりの観測者へんたいである私だけ。


 私はスマホをポケットにねじ込み、アパートのドアを開けた。

 春の風が吹き抜ける。

 足取りは軽い。

 私の 《ユリ・スコープ》は今日も世界のどこかで瞬く、尊い光を探し続けている。


 観測終了。

 そして、私の日常が始まる。

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