鬼門の森
三日後。
蒼真は「鬼門の森」と呼ばれる、深い森の入口に立っていた。
荷物は一つの袋だけ。中には着替えと、わずかな食料、そして母の形見の守り袋。
「ここから先は、誰も来ない……」
鬼門の森は、都から北東に位置する禁足地だ。
強力な妖怪が住み着き、迷い込んだ者は二度と戻らぬという。陰陽師でさえ、むやみに近づかない場所。
だからこそ、蒼真には相応しい。
「どうせ生きていても、誰の役にも立たない。ならここで、静かに……」
その時だった。
「――助けて!」
森の奥から、か細い声が聞こえた。
少女の声だ。
「……くそっ!」
蒼真は迷わず、森に駆け込んだ。
無能だ、役立たずだと言われ続けた。それでも、目の前で人が死ぬのを見過ごすことはできない。
森の中は昼なお暗い。木々が鬱蒼と茂り、太陽の光を遮っている。地面には濃い妖気が漂い、まるで毒を吸っているような息苦しさがあった。
「どこだ……!」
蒼真は声のする方へ走る。
枝が顔を叩き、根が足を取る。だが構わず前進すると――
小さな祠の前で、一人の少女が巨大な妖怪に襲われていた。
「うわぁぁぁ!」
少女は十歳ほどだろうか。白い着物を着た、黒髪の少女だ。
そして彼女を襲っているのは――
「猪羅か……!」
三メートルはある巨大な猪の妖怪。その牙は鋭く、蹄は岩をも砕く。中級の妖怪として知られる、危険な存在だ。
「おい、そこから離れろ!」
蒼真は腰の短刀を抜き、猪羅に向かって走った。
自分に霊力はない。だが、剣術だけは誰にも負けないつもりだった。式神が使えない分、せめて自分の身は自分で守れるようにと、朝から晩まで鍛錬を続けてきた。
「はぁっ!」
蒼真の短刀が、猪羅の横腹を切り裂く。
「グルルル……!」
だが浅い。妖怪の皮膚は硬く、普通の刃ではほとんど傷つかない。霊力を込めた武器でなければ、妖怪には通用しないのだ。
「ちっ……!」
猪羅が振り向き、蒼真に突進してくる。
「うおっ!」
蒼真は横に飛び、何とか避ける。だが猪羅はすぐに向きを変え、再び突進してきた。
「しつこいな……!」
だが、少女を守るには、自分が囮になるしかない。
「おい、今のうちに逃げろ!」
蒼真は少女に叫んだ。
だが少女は動かない。恐怖で固まっているのか、それとも怪我をしているのか。
「くそっ……!」
猪羅の突進を避けながら、蒼真は必死に考える。
どうする? どうすればいい?
霊力はない。強力な武器もない。だが、このままでは少女が――
「間に合わない……!」
猪羅が少女に向かって突進した。
蒼真は迷わず、少女の前に飛び込んだ。
「やめろぉっ!」
猪羅の蹄が、蒼真の背中に迫る。
死ぬ。
そう思った瞬間――
「■■■■■(目覚めよ、我が力)」
蒼真の口から、聞いたことのない言葉が零れた。
それは自分の意思ではなかった。まるで、身体の奥底から這い出してきたような、古い、古い言葉。
右手の甲の痣が、激しく発光した。
黄金の光が爆発し、猪羅の巨体を吹き飛ばす。
「グギャァァァ!」
猪羅は十メートルも吹き飛び、木に激突して動かなくなった。
「な、何が……」
蒼真は呆然と、自分の右手を見つめた。
痣から、黄金色の霊力が溢れ出ている。まるで太陽のような、圧倒的な力。
「これが……俺の……?」
「やっと」
背後から、声がした。
「やっと、目覚めてくれたのね」
蒼真が振り返ると、少女が立ち上がっていた。
だがその姿は――変わっていた。
白銀の髪、琥珀色の瞳、そして背中から伸びる、九本の白い狐の尾。
「え……」
「初めまして、我が主」
少女――いや、狐の妖怪は、優雅に一礼した。
「私は稲荷明神様の眷属、白金と申します」
「眷属……? 稲荷明神の……?」
蒼真の頭が追いつかない。
「あなたこそが、私が長い間待ち続けた御方」
白金は蒼真に近づき、その右手を取った。
「『神殺し』の力を継ぐ者――」
痣が、再び光る。
「我が真の主となるべき御方」
白金の瞳が、まっすぐ蒼真を見つめた。
「さあ、契約を。私を、あなたの式神に」
「待て、待て! 何を言って……」
「分からないのも無理はありません」
白金は微笑んだ。
「でも、もう大丈夫。あなたは一人じゃない」
「私が、全てを教えて差し上げます」
蒼真の人生が、この瞬間から大きく動き出す。
追放された無能は、実は世界最強の力を秘めていた。
そして今、最初の契約が結ばれようとしている。
物語は、ここから始まる。




