堕ちた神獣
神鹿の咆哮が、森を震わせた。
木々が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立っていく。その威圧感は、今まで戦ってきたどの妖怪とも比べものにならなかった。
「神獣級……」
蒼真は息を呑んだ。
神鹿の全身から立ち上る妖気は、まるで黒い炎のようだ。かつては神として崇められていたであろう高貴な姿は、今や禍々しい闇に飲み込まれている。
「蒼真様、気をつけてください」
白金の声に、いつもの余裕はなかった。
「神獣が堕ちるということは、それだけ強力な神喰いの欠片が憑いているということです」
「つまり……手強いってことか」
「はい。私たち二人でも、勝てる保証はありません」
「それでも、やるしかないだろ」
蒼真は短刀を構えた。
「あの神鹿を放置すれば、町が危ない」
その時、背後で朝霧が震えながら立ち上がった。
「あ、あの……私も……」
「お前は裕太を連れて逃げろ」
蒼真は振り返らずに言った。
「でも……!」
「これは、俺たちの戦いだ」
蒼真の声は優しかったが、有無を言わせぬ力があった。
「お前には、守るべき人がいるだろう」
朝霧は唇を噛んだ。悔しさと無力感で、涙が溢れそうになる。
「……分かりました」
朝霧は裕太を抱きかかえ、森の外へと走り出した。
「グオオオォォォ……!」
神鹿が、蒼真と白金を睨んだ。
その瞳は血のように赤く、正気を失っている。
「人間……陰陽師……許サヌ……」
神鹿が言葉を発した。その声は、複数の声が重なったような不気味な響きだった。
「我ヲ……封ジヨウトスル者ドモ……!」
「違う! 俺たちはお前を封じるんじゃない!」
蒼真が叫んだ。
「お前を、神喰いから解放するんだ!」
「解放……?」
神鹿の動きが止まった。
一瞬だけ、その瞳に正気が戻ったように見えた。
「我ヲ……助ケル……ト……?」
「そうだ」
蒼真は短刀を下ろした。
「お前は本来、この森を守る神獣だったんだろう?」
「……」
「神喰いに囚われて、苦しんでいるんだろう?」
蒼真は一歩、神鹿に近づいた。
「蒼真様! 危険です!」
白金が制止しようとしたが、蒼真は歩みを止めない。
「俺も、分かるんだ」
蒼真は自分の胸を叩いた。
「自分じゃどうしようもない力に囚われる苦しみが」
神鹿の瞳が、わずかに揺れた。
「俺もずっと、無力だった。力がないことで、大切な人を失った」
蒼真の脳裏に、三年前の光景が蘇る。
仲間たちの叫び声。自分を庇って死んでいった姿。
「だから、もう誰も失いたくない」
蒼真は神鹿の目を見つめた。
「お前も、お前に囚われた者たちも、全部救いたい」
「……人間……ニシテハ……愚カナ……」
神鹿の声が、わずかに優しくなった。
「ダガ……ソノ愚カサガ……」
神鹿の身体が震え始めた。
内側から、何かが抵抗しているようだった。
「我ハ……モウ……!」
突然、神鹿の全身から黒い霧が噴き出した。
「ギィィィィ! 邪魔スルナ!」
それは神鹿の声ではなかった。神喰いの声だ。
「宿主ヲ支配シタノハ我ダ! 貴様ラニ渡スモノカ!」
神鹿の身体が暴れ始める。
「くそっ! 神喰いが完全に支配しようとしてる!」
「蒼真様、今しかありません!」
白金が叫んだ。
「神鹿の意識が残っている今なら、まだ助けられます!」
「どうすればいい!?」
「あなたの力を、神鹿に流し込むんです!」
「俺の力を?」
「はい! 神殺しの力なら、神喰いの欠片を消滅させられます!」
白金が蒼真の手を取った。
「でも、一つ問題があります」
「何だ?」
「神鹿の身体に直接触れなければなりません」
白金は神鹿を見つめた。
「しかも、かなりの時間、触れ続ける必要があります」
「その間、神鹿の攻撃を受けるってことか……」
「はい。私が守りますが、完全には防げません」
白金の表情は真剣だった。
「覚悟はできていますか?」
蒼真は少し笑った。
「お前、俺に選択肢があると思ってるのか?」
「……そうですね」
白金も微笑んだ。
「では、参りましょう」
二人は神鹿に向かって走り出した。
「ギィィィ! 来ルナ!」
神鹿が角を振り回す。
白金が氷の壁を作り出し、攻撃を防ぐ。
「今です!」
蒼真は神鹿の横に回り込み、その首に手を置いた。
瞬間、神鹿の身体から強烈な妖気が流れ込んできた。
「ぐあっ!」
まるで全身を焼かれるような痛み。
「蒼真様! 耐えてください!」
白金の声が遠くに聞こえる。
蒼真は歯を食いしばり、霊力を神鹿に流し込み始めた。
黄金の光が、蒼真の手から神鹿の身体へと流れていく。
「ギャアアアァァ! ヤメロ! ヤメロォ!」
神喰いの悲鳴が響く。
神鹿が暴れ、蒼真の身体を蹴り飛ばそうとする。
だが、蒼真は手を離さなかった。
「まだだ……まだ足りない……!」
蒼真の右手の痣が、激しく光り始めた。
「■■■■■(我、神殺しの名において命ず)!」
古代の言葉が、蒼真の口から溢れる。
「■■■(神を蝕む闇よ、消え去れ)!」
爆発的な光が、神鹿を包み込んだ。
「ギャアアアアアァァァァ!」
神喰いの欠片が、神鹿の身体から引き剥がされていく。
それは黒い霧となって空中に浮かび、やがて光に飲まれて消滅した。
神鹿の身体から妖気が消える。
黒く汚れていた皮膚が、本来の美しい白銀の毛並みに戻っていく。
「……」
神鹿がゆっくりと倒れ込んだ。
蒼真も力尽き、地面に膝をついた。
「蒼真様!」
白金が駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「ああ……何とか……」
蒼真は荒い息をしながら、神鹿を見た。
神鹿は静かに横たわり、穏やかな表情で目を閉じていた。
「神鹿は……?」
「生きています」
白金が神鹿の額に手を当てた。
「神喰いの影響で弱っていますが、命に別状はありません」
「よかった……」
蒼真は安堵のため息をついた。
その時、神鹿が目を開けた。
「……人間よ」
その声は、先ほどとは全く違う、穏やかで優しいものだった。
「礼を言う」
神鹿がゆっくりと起き上がる。
「我は、神鹿・銀月。この森を守護する者」
銀月は蒼真に頭を下げた。
「汝のおかげで、我は闇から解放された」
「いや、当然のことをしただけだ」
「いいや」
銀月は蒼真を見つめた。
「多くの者は、我を討とうとしただろう。だが汝は、我を救おうとした」
銀月の瞳には、深い感謝の色があった。
「その心、確かに受け取った」
銀月は立ち上がり、蒼真の前に立った。
「神殺しの継承者よ。汝の道は、険しく長いものとなるだろう」
「それは……分かってる」
「ならば、我が力を貸そう」
銀月は額を蒼真の手に擦り寄せた。
「我と契約を結べ」
「契約……?」
「そうだ。汝の式神となり、その道を照らそう」
蒼真は白金を見た。
白金は微笑んで頷いた。
「……分かった」
蒼真は銀月の角に手を置いた。
「銀月。俺と契約してくれ」
銀月の身体が光に包まれた。
その光は収束し、蒼真の右手の痣に吸い込まれていく。
痣の中に、狐の紋章の隣に、鹿の紋章が刻まれた。
「契約、完了だ」
銀月は姿を消し、霊体となって蒼真の中に入った。
『これから、よろしく頼む。我が主よ』
銀月の声が、心の中に響いた。
「ああ。よろしく」
蒼真は自分の右手を見つめた。
二つの契約。二体の式神。
確実に、強くなっている。
「やりましたね、蒼真様」
白金が嬉しそうに笑った。
「これで、あなたの仲間が一人増えました」
「ああ」
蒼真も笑顔になった。
だが、その笑顔はすぐに消えた。
「白金、お前……」
白金の身体には、神鹿の攻撃を防いだ時の傷が残っていた。
「大丈夫ですよ。すぐに治ります」
「無理するな」
蒼真は白金の傷に手を当てた。
「少し、休め」
「はい……」
白金は蒼真に寄りかかった。
「蒼真様の温かさ……安心します……」
「おい、寝るなよ」
「少しだけ……少しだけですから……」
白金は目を閉じた。
蒼真は白金を抱きかかえ、森を出ることにした。
その途中で、朝霧が戻ってきた。
「あの……大丈夫でしたか!?」
「ああ、何とか」
蒼真は疲れた笑顔を見せた。
「神鹿も、助けられた」
「本当ですか!」
朝霧の顔が輝いた。
「すごい……本当にすごいです……」
「裕太は?」
「町の医者に診てもらっています。大丈夫だって」
「そうか。よかった」
蒼真は安堵した。
「あの……」
朝霧が遠慮がちに言った。
「私、もっと強くなりたいです」
「え?」
「今日、私は何もできませんでした」
朝霧は拳を握った。
「裕太が攫われたときも、神鹿と戦ったときも、ただ見ているだけで……」
朝霧の目に、強い決意が宿っていた。
「だから、強くなりたい。誰かを守れるくらい、強く」
蒼真は朝霧を見つめた。
そこには、かつての自分と同じ想いがあった。
「なあ、朝霧」
「はい?」
「俺たちと一緒に来ないか」
「え……?」
朝霧は驚いた。
「俺たちは、これからも各地で神喰いと戦う」
蒼真は朝霧の目を見た。
「お前が望むなら、一緒に戦おう。そして、強くなろう」
朝霧は目を見開いた。
そして、大粒の涙を流しながら、何度も頷いた。
「はい! はい! お願いします!」
こうして、蒼真の旅に、新たな仲間が加わった。
流浪の陰陽師・蒼真。
稲荷の眷属・白金。
神獣・銀月。
そして、巫女見習い・朝霧。
小さな、だが確かな絆が、ここに生まれた。




