観測者だらけの女の子「令和の純文」
4:10
夕方の教室は、少し青かった。
窓ガラスが鏡みたいになって、自分の顔がうっすら映る。
英語の問題集を開いたまこは、
haveの使い方で立ち止まった。
「この have、持つじゃないのに……どういう意味?」
声には出さない。けれど、心のどこかがざわついた。
意味は分かる。文脈も、たぶん、分かっている。
でも、“持たないものをhaveする”って、どういうことなんだろう。
蛍光灯はまだ点かない。
その薄い時間を、青い影がゆっくりと飲み込んでいく。
4:30
まこは鏡の前で、帰り道の顔をつくる。
ファンデーションは薄く、唇には色を乗せすぎない。
濃くすれば「狙っている」と思われるし、
すっぴんでは、弱いまま外に出ることになる。
化粧は飾りじゃない。
見えない刃を受け止めるための鎧だった。
壁の白が青に変わる。
まこはそっと鞄を肩にかけた。
4:40
放課後のバス。
この時間帯は、視線の粒がいちばん騒がしい。
まこは窓際に座り、流れる景色に意識を逃がした。
見られているのか、見ようとしているのか。
わからないまま、呼吸を整える。
4:45
隣の席に凪が座った。
膝の上には『Newton』。
知識をひけらかすための雑誌ではなかった。
彼女はそれを、世界との距離を保つ盾のように抱えていた。
4:50
バスが揺れるたび、窓の景色が少し歪む。
放課後の光はやわらかいのに、車内の空気は青白い。
彼女は、ひとりで座っていた。
胸元の銀色のピンが、ひとつ上の学年を示している。
その手には、分厚い『Newton』。
紙の匂いが、かすかに漂った。
──似合わない、なんて言葉より先に。
「なぜだろう」という疑問が、静かに鳴った。
4:52
凪の髪が、窓の青を返す。
理由なんてない。
ただ、その光景が離れなかった。
5:15
バスの窓に映る自分の横顔は、思っていたより大人びて見えた。
今日の髪は京子が編んでくれた。
名前も知らない巻き方だ。
美人ではない。
けれど、街灯より少しやわらかい光が頬をなでていく。
それだけで、生きている気がした。
5:16
その向こうの席で、雑誌のページがゆっくりめくられた。
目を合わせたわけじゃない。
ただ、紙の音だけが、まこの耳に届いた。
5:17
凪はニュートンを膝に置いていた。
理解しているのかどうかはわからない。
でも、その指先には迷いがなかった。
男子校の前を通ると、彼女は本を少し顔の前に持ち上げた。
視線を避けるというより、
その世界に戻ろうとするみたいに。
凪は“守っていた”わけじゃない。
ただ、そこに“いた”だけだった。
5:19
停留所で、哲哉が乗ってきた。
「おう、凪、久しぶり」
軽い声。昔からそうだった。
拓海は横にいて、
「君は友達が多いな」と思っただけ。
言葉にはしなかった。
凪は少し笑った。
笑ったというより、表情がやわらいだだけ。
ニュートンのページに指を置いたまま。
まこは、その一瞬を見た。
けれど、目を合わせなかった。
代わりに、窓の夕焼けを見た。
5:23
彼女は、誰の手にも収まらないように見えた。
だからこそ、拓海は目を離せなかった。
混ざりたいと願ったあの瞬間を、
今も、うまく言葉にできない。
5:35
バスが揺れていた。
哲哉が降りると、席だけが空いた。
社会に馴染む人は、先に消えていく。
そのとき、拓海はまだ知らなかった。
凪と拓海だけが残った。
あいだには窓ガラスと、沈む光の匂い。
まこは、ただ見ていた。
まだ誰も、誰の名前も呼ばない距離で。
沈黙は長く続いた。
沈黙は、長くなると弱さになる。
5:37
バスが揺れていた。
哲哉が降りると、席だけが空いた。
社会に馴染む人は、先に消えていく。
そのとき、拓海はまだ知らなかった。
拓海は口を開く。
「……それ、今月号?」
凪が少しだけニュートンを動かした。
拓海は、続きを探した。
「なんか……どんな記事があるの?」
凪はページをめくる。
「重力の波の性質。たぶん、だけど」
その言い方が、音楽みたいだった。
拓海は黙った。
それでも、もう十分だった。
拓海は姿勢を正した。
「なんで、ニュートンなの?」
紙の擦れる音。
凪は答えを探していた。
「……毎月、買ってるの。」
嘘か本当かはわからない。
でも、その一言に救われた人がいた。
まこは、その瞬間を手帳に書きかけてやめた。
「便利な雑誌だった」と書きそうになって、
指を止めた。
忘れられないものだけが、意味を持つと知っていたから。
5:45
停留所が近づく。
拓海は立ち上がった。振り返らない。
手すりをつかむ指先が、少しだけ震えた。
まこは、その背中を黙って見た。
扉が閉まる。
凪はまだニュートンを開いたまま。
読んでいるのか、読んでいないのか、もう誰にも分からない。
バスが動き出す。
窓の外で、拓海の姿が流れていく。
まこは気づいた。
──ああ、私だけが、これを覚えている。
5:47
扉が閉まったあと、空気がひとつ沈む。
凪は、ほんの少し息を吸った。
開いていたニュートンを、顔の半分まで持ち上げる。
読むためでも、隠すためでもない。
揺れた心を、そこに置いておくため。
まこはその仕草を見逃さなかった。
“わかろうとする人が現れたとき、
どうしていいか分からない子の手つきだ。”
ページはめくられない。
文字は頭に入らない。
けれど本は、閉じられなかった。
それが凪の、世界に対していちばん無防備な姿だった。
バスは坂を下り続ける。
夕方の光は、どちらの味方にもならなかった。
まこは静かに思う。
──触れたくても、触れられない優しさが、
この世界をまだ動かしているのかもしれない。
終
「令和の純文」としてシリーズ化したい




