令和7年7月7日
七月七日。
それも令和七年の七月七日。時計の針が七時七分を指した瞬間、俺はこの日に何かが起こる気がしていた。
バカみたいだと思うだろ?
でもさ、777って、パチンコじゃ大当たりだし、なんかこう……全部が揃って、奇跡が起きそうな感じがしないか?
そんなことを思いながら、俺は駅のホームに立っていた。空は薄く滲んだ藍色で、遠くの雲が橙に縁取られている。
小雨が降るでもなく、風が吹くでもなく、ただ静かに、世界が夜に向かって染まっていく、そんな時間だった。
この日を覚えてるのは、七夕だからじゃない。
俺にとっての七月七日は、「あの日」の記念日だ。
「……もう一年か」
ぽつりと呟いた言葉は、ホームのアナウンスにかき消された。
電車が滑り込んでくる。人の流れの中で、ひときわ小柄なシルエットが目に入った。
……嘘だろ。
瞬間、心臓が跳ねた。
見間違いじゃない。
髪の色、歩き方、うつむき加減の癖。すべてが、俺の知っている彼女だった。
静香。
一年ぶりに見るその名前を、心の中で呼んだだけで、呼吸が詰まった。
彼女とはちょうど一年前、この駅で別れた。
「私たち、ここまでかな」
そう言って微笑んだ静香は、少し寂しそうで、でもどこか達観していて、何も言えなかった俺を責めることなく立ち去った。
理由は、些細なすれ違いだった。
会う時間が合わなくなったり、未来の見方が少しだけ違ったり、でも――
本当は、俺が怖かったんだ。
変わっていくことが。
静香の気持ちが、俺の手をすり抜けていくようで。
だから、「終わらせよう」と言われたとき、否定もできずに、ただ頷いた。
それが令和六年の七月七日。
七夕の日だった。
あの日から、ずっと後悔していた。
偶然なんて信じない。でも――
「……会いたかった」
思わず漏らした声に、誰かが振り向いた。
彼女だった。
静香が、俺を見ていた。
目が合った瞬間、時間が止まったような気がした。
いや、止まったのかもしれない。本当に。
彼女は少し驚いた顔をして、それから、笑った。
あのときと同じ笑い方で。
けれど、どこか違った。
少しだけ、期待を含んだような。
「……久しぶり」
「一年ぶり、かな」
「うん。ちょうど一年だね」
会話はそれだけだった。
でも、気持ちは全部伝わっていた。
お互いに、ずっと胸にしまっていた言葉たちが、視線だけで行き交った。
「今日、この電車に乗るつもりじゃなかったんだけど」
「俺も、本当は来る予定なかったんだ」
「そっか……じゃあ、やっぱり、今日は――」
「――奇跡、かもな」
彼女はふっと目を細めて、七夕の空を見上げた。
「一年に一度だけ、会える日。そんな日が本当にあるなんて思わなかったよ」
「俺は……信じてた。
だって、777だぞ?全部揃ってる。
今日は、何か起こる日なんだって、朝から思ってた」
彼女は目を丸くして、それから、また笑った。
今度は、少し涙を浮かべて。
「ねえ、あと何秒で七時七分?」
スマホを見た。
「――あと十秒」
「じゃあ、七時七分になったら、お願いごとしようよ。織姫と彦星みたいに」
「いいけど……何を願うんだよ」
「ふふ、それは……言ったら叶わないから、秘密」
「ずる」
「じゃあ、せーので言う?」
「……いいよ」
あと三秒。二秒。一秒。
俺たちは声を揃えて言った。
「もう一度、君と一緒にいたい」
驚いて顔を見合わせて、同時に笑った。
驚いて顔を見合わせて、そして同時に笑った。
まるで去年の別れが、今日この瞬間を迎えるためのプロローグだったみたいに。
小さく吹いた風が、彼女の髪を揺らす。
俺はその横顔を、言葉にできない想いで見つめた。
「……願いごと、叶っちゃったね」
「ううん。まだこれから叶えていくんだよ、ふたりで」
そう言った静香の声は、少し震えていた。
だけど目はまっすぐに俺を見ていた。あのときと同じ、でももっと強くてあたたかくて。
「静香。俺……あのとき、ちゃんと伝えられなかったけど……本当はずっと、好きだった。今も、変わらず」
「私も。終わったつもりだった。でも、ずっと気持ちは変わらなくて、今日あなたを見た瞬間、分かったの。終わってなかった。……好きだよ」
一瞬の沈黙のあと、俺は笑って彼女の手を取った。
指先が触れた瞬間、胸の奥で止まっていた何かが、やっと動き出した気がした。
「……じゃあ、もう一回、付き合おうか」
「うん。今度は、ちゃんと向き合いたい」
短く頷いた静香の目に、涙が浮かんでいた。
七月七日七時七分。
奇跡みたいな偶然の中で、俺たちはもう一度出会い、
そしてはっきりと、恋人として再び歩き出した。
一度離れたからこそ、分かったものがある。
それを大切に、今度こそ――離さない。
誰かが言ってた。
七夕は、一年に一度だけ会える、儚い恋の象徴だって。
でも、俺たちは違う。
今日という日が、その“はじまり”になる。
一年に一度じゃない。
これからは、365日、一緒にいよう。
七夕の星空の下、君と手をつないで、そう誓った。




