王太子が婚約破棄を宣言したので、魔界のご令嬢がお怒りになりました
「そなたとの婚約を破棄する」
王太子レイブンは薬指の指輪を魔界の皇女アストレアの足元に投げ捨てた。
どよめきが消えた。
静寂が大広間の空気を押しつぶした。
アストレアは静かに、爪先を叩いた指輪へ視線を落とす。美しく冷徹な横顔に笑みを浮かべると、指輪を踏みつけた。
王太子の言葉を聞いて、アレンは訪れたこの瞬間を静かに受け止めた。
宴に参加していた両種族は、アストレアとレイブンとを先頭にして対峙した。
懇親会は、王太子宮殿で行われた。
王太子の振る舞いは、長らく続いていた両者の友好関係を打ち砕いたと言える。
突発的に見える関係の瓦解であったが、水面下では互いへの不満が募っていたことをアレンは知っている。
魔族は、策を弄して暗躍する人間族の狡猾さに対してだ。
人間族は魔族の粗野なふるまいに対してだ。
王太子はこの瞬間を待ち望んでいたのだろう。父が病に伏せ、実権を手中にしてからというもの、彼は魔族との関係清算に動いている様子だった。
アストレアもその事実を把握していたが、王太子の動きを傍観し続け、むしろ自らの望みであるかのようにほくそ笑んでいた。
それにしても。
魔界を統べる魔人である皇女に対して、何たる振る舞いだ。
魔族は飛びかかるほどの勢いで奥歯を噛みしめる。歯の擦り合う音が広間の空気を鈍く振動させる。
人間族は、そんな魔人たちを嘲るように、小さい笑い声を漏らす。
アレンは首を巡らせ、そんな人間たちを睨みつける。アストレアと視線がぶつかる。彼女は振り上げた足で、指輪を踏み潰した。
「構わんぞ、私は。懇親会などと、下らん茶番に飽き飽きしていたところだ。何ならこの場で始めるか?」
皇女の勝気な性格はアレンが良く知っている。彼女が、このような屈辱的な扱いを受けて黙っているはずがない。
「答えろ、人間、この場で死ぬ覚悟があるか!」
アストレアの怒気が、空気を凍てつかせた。
人間たちの嘲笑が、消えた。
アストレアから滲み出る圧力が、人間族の余裕を奪い去ってしまった。
当たり前だ。アレンですら身をすくめるほどの、波動だ。
魔族でも最強格の皇女にどのようにして、抗おうというのか。
アレンは王太子の浅はかな知略をあえて探ろうとした。
「ほれ」
アストレアが人差し指を立てた。彼女を中心として、空気が渦を描く。人間、魔人を問わず、力のないものなら、吹き飛ばされるほどの風力だった。
指を、折り曲げた。
空気が凝縮する。アストレアを核として、魔力が波となって放射された。
爆風でテーブルが弾け飛んだ。宴を彩っていた料理が壁に衝突する。宙を舞ったグラスが床に叩きつけられ、破片となり散乱する。ワインがカーペットを染め上げた。
感嘆の声と悲鳴が上がる中、アストレアは眉根を寄せた。
アストレアの正面に位置するレイブンが微動だにせず腕組みをしている。アストレアにとっては遊び程度、人間にとっては死の宣告だ。
アレンの頬を汗が伝った。彼女の魔力は生命を弄ぶほどのものだった。同時に驚嘆すべきは、それを無効化した人間側の技術。
これが、神の手か……
アレンは、天井を覆うほどに聳え、輝く手を見上げた。
人間側が作り上げた防御結界、それが神の手と呼ばれるものだ。アレンも噂で聞いたことがある程度だった。
アストレアは単なるデマだと笑いながら一蹴していた。
朧気な光がアストレアとレイブンの間でゆらめく。
婚約破棄に至った理由の一つが、この神の手なのだろう。
アレンはアストレアの仕草に目を止めた。親指を整った唇に当て、揉み込むように蠢かす。思案するときの彼女の癖だ。
かつて、二人で森の動物を追いかけまわしたとき、仕留めきれなかった彼女は、同じような仕草をして生け捕りにする罠を考案した。
防御結界は、皇女を思案させる水準に到達していることになる。
「どうした魔女よ。もう終わりか」
レイブンの嘲るような問いかけに鼻を鳴らし、アストレアは右の薬指に嵌めていた指輪を弾いて魔力を照射した。
指輪を貫き、直線に射出された魔力が無機質な音を立て、空間を引き裂いた。
反射された光がアストレアの頬をかすめる寸前、防御障壁に触れて軌道がずれる。魔族側の後方で壁を突き破る音が轟いた。想定外の方向から爆風により、近くの魔族が数名よろめき、転倒する。
これは危険だ……
アレンは左手の親指を剣の鍔に当てた。
アストレアの視線がアレンの剣に注がれる。レイブンはアレンを見て、深い笑みを刻んだ。
「戦力は拮抗した。貴様ら魔族の傲慢さ、今こそ思い知らせてやるぞ」
空気が、張り詰めた。
人間側が腰を落とし、臨戦態勢に入る。
呼吸をすることすら注意を払うほどに、肌が痺れる。
婚約破棄に至った理由の二つ目はギルドシステムの成熟だ。人間族の戦力底上げに、冒険者ギルドの存在がある。
両種族の友好関係が続く間、人間は魔界への出入りが容易になり、クエストをこなすことで、戦闘技術が飛躍的に向上した。この場には上位の冒険者が揃えられている。
神の手がなければ、彼らは瞬時にアストレアの魔力で消し飛ぶ。
防御面での懸念をある程度払拭した今なら、彼らの剣がアストレアに届く可能性はゼロではなくなった。
「神の手が最強の盾なら、我らにとって最強の剣は勇者だ。貴様らの優位性などもうないぞ」
レイブンが発した言葉に、アストレアが歯を見せた。
魔族特有の鋭い犬歯が、三日月状に開いた唇から覗いた。同時に歯を砕くほどの勢いで顎が鳴る。
アレンには覚えがある表情だった。子供時代に魔界の森で魔獣に出くわし、アレンの腕が爪で抉られた。
その傷口を見たアストレアが森ごと魔獣を消し去った衝撃は、アレンにとっては、長い年月が経過した今でも細部まで思い出せる記憶だ。
腕の傷が疼く。
あの表情になったアストレアは力を制御しない。
神の手が本気のアストレアに対抗できるかは不明だが、犠牲者が出る事態は避けなばならない。
「アレン、今こそ勇者として歴史に名を残せ!」
レイブンが腕を払ってアストレアに突き付けた。
婚約破棄最後の理由は、勇者システムの成功だ。
冒険者を魔界へ送り込み、勇者として覚醒させる。勇者とは、魔王級の防御障壁を斬り裂くほどの聖気を纏うものだ。
勇者として覚醒したのは、数多の冒険者でアレンのみだ。
「やはりお前はそちら側につくんだな、アレン!」
アストレアの怒号が空気を飲み込んだ。魔力が漆黒の髪を突き上げ、天井を打ち抜いた。
「当たり前だ、アレンは人間族最強の勇者だぞ!」
「ならばもう手加減はなしだ。アレン、せめて楽に逝かせてやる!」
「やめろ、アストレア!」
魔力の渦がアレンの叫びを遮り、アストレアの姿をかき消した。味方である魔族すら巻き込み、宙へ浮き上がらせる。ガラスが割れる。窓枠が外れ吹き飛んだ。
引き裂かれたカーペットがシャンデリアを覆い、広間に闇を落とした。
渦に飲まれた彼女を視認することはできない。
膨大な魔力が一点に凝縮されつつあった。
限界まで圧縮して放つ魔力はどれほどの威力となるのか。
アレンには想像できない。いや、想像することすら恐怖だ。
いくら、神の手でも耐えきれるものなのか?
疑問の答えを追い求めるのは、生命を軽んじる行為だ。選択を間違えれば、この場の全員が消滅する未来もありえる。
勇者の使命は、魔族を討つこと。アストレアは魔族の象徴で、最優先の標的だ。
オレはアストレアに剣を向けたくない。
ならば……
アレンが前方を見ると、振り返ったレイブンと視線が合った。
「早くしろ」
王太子を斬る……か?
行動に移せば、かつての仲間とも剣を交えることになる。
共に戦い、笑いながらも、互いを高めあった仲間たち。あの時の情熱はまだ、この手の中に残っている。
それでも、アストレアと戦うくらいなら、それでも……
仲間との思い出を、血の色で塗り潰したとしても。
アレンは唇を噛む痛みで、我に返った。親指で唇を押し込んでいたらしい。無意識だったため、思わず噛んでしまったようだ。
アストレアの癖だと思っていたものが、いつの間にか自分の癖になっていたようだ。
試してみるか。
アレンは剣を抜いた。
アストレアの魔力を斬り裂かねば、彼女には届かない。
「そうだ、行け、アレン! 魔族を消し去ってしまえ」
「オレ一人で行く。お前らはそこで王太子の護衛を続けろ」
両種族の均衡を破ったのはアレンだった。
剣を携え、駆け出す勇者から皇女を守るべく、魔族が動いた。
こん棒が床板を打ち抜いた。
宙へ逃れたアレンは、魔物の肩に乗り、後頭部を蹴り飛ばした。反動を利用して、迫りくる鬼の顔面を踏みつける。
状況を悪化させる火種は作らない。命を奪えば、魔族も引き下がれなくなる。全面戦争になる。
目的はアストレアに近づくことだ。
アレンは剣を構えた。刃を聖気で覆う。皇女の障壁を斬り裂けるのは勇者の聖気だけだ。
空中で体を一回転させて、アレンはアストレアに剣を振り下ろした。
剣が鈍く震えた。衝撃に指が痺れる。意識して握力を強めなければ、剣を離してしまいそうなほどだ。
アレンは叫んだ。意味など持たない呻きだった。喉を掻きむしるように転がり出た声だった。
聖気を集中させ、全体重を剣に乗せることを意識した。
亀裂が生じる。
魔力の壁が、二つに裂けた。
剣は勢いよく床に突き刺さった。アストレアの髪が、剣圧で左右に流れた。
「アレン?」
目を見開いたアストレアは何が起きたのか理解していないようだった。
自分の魔力を断ち切られたことなど、彼女にとっては初めての経験だろう。
だが彼女には知識がある。
勇者ならば、魔界の皇女相手でも切り込めるという知識だ。
瞳の色が驚きから、憎しみへと変わる。
「よく来たな、勇者よ。これは、褒美だ。私の全魔力を受け止めるがいい」
三日月の笑み。アレンは自分に向けられることの絶望を始めて知った。
まともに受ければ即死だ。アレンはその言葉すら生温いことに気付く。
アストレアの全力ならば、肉体ごと消失するだろう。アレンの存在すら無に返し、空気に漂う焦げた肉の臭いだけが残る。
確定したかのような未来を想像して、鼓動が早まった。心臓が痛い。失敗すれば待つのは死だ。
時間はない。会話もできない。魔法の発動準備は整った。
アストレアの手に凝縮された魔力は、空間の輪郭すら奪っていた。空気が波打つ。
最後に試していないことがある。
アレンは自分に向けられたアストレアの手首を掴んだ。体を滑らせる。
唇が痛んだ。歯をぶつけたらしい。血の味が滲んだ。
アストレアがアレンを突き飛ばした。
「な……何をした!」
アストレアは上唇に指を当てて叫んだ。
「何って……分かるだろ」
「分かるか! あっ……くそ」
アストレアは苛立たし気に床を踏みつけた。時間をかけて練り上げた魔力が霧散してしまったようだ。
再度、魔力を練り上げようとするが、集中力が持続しないためか、近くのイスを蹴り飛ばした。
怒りの発露を目の当たりにし、魔族がアレンに襲い掛かろうと身構えた。
「動いたものから殺す」
アストレアの一言が、場の空気を制した。
彼女が従えたのは、配下の魔族だけではなかった。人間族すら凍り付かせた。
最も近い距離にいるアレンは、呼吸すら奪われそうだった。
「言い訳する時間くらいなら、くれてやる。してみろ。その後でゆっくり殺してやろう」
彼女の考えを読むことはできない。彼女は広間にいるもの全ての思考と動きを奪っていた。
会話を許されるだけでもありがたいことなのか?
アレンは考えを伝えようとした。他のものには、聞かせられない。
耳打ちしようと、距離を寄せ、顔を近づけた。
アレンの顔が迫ると、アストレアは拒絶する素振りもなく目を細めた。閉じそうになる瞳が左右に揺れ動く。
両種族が二人を注視していた。
アストレアがアレンの顎を突き上げた。
「この状況で何をしようとしてるんだ、お前は。周りを見ろ」
「耳打ち、だけど」
「は? 耳打ちだと?」
舌を鳴らして、アストレアはアレンの肩を押して遠ざける。
「お前はいちいち私を苛立たせるな。人前で言えないことか? コソコソしないで堂々と言え。じれったいヤツだな」
アストレアは遥か高みに君臨する絶対的強者の立場から、言葉を投げかける。二言はない。彼女がこのように答えた以上、耳打ちは許されないことを意味する。
アレンは周囲を見回した。
大広間にいる全員の視線がアレンとアストレアに注がれている。アストレアが許可したのは、その行為のみだ。
彼女は命じた。動くな、と。
仕方がない、とアレンは覚悟を決めた。この場の全員を敵に回すという選択肢だ。
魔族と人間族の全面戦争を回避する手立ては他に思いつかない。
失敗すれば、自分が真っ先に死ぬことになる。
そう認識しながらも、皇女の許しを得られないならば、皆の前で宣言するしかない。
「オレと逃げよう」
「逃げる……この私が? 人間ごときに背をむけて?」
アストレアが眉を顰めた。アレンは言葉の選択を間違えたことを知った。
彼女の背で黒い空気が揺らぐ。炎のように空間が震えた。
パン! と空気が弾けた。
壁に衝撃音が響く。トロールの頭が壁に突き刺さっていた。
「次はないぞ。動くな、とは、指一本動かすなということだ。私はまだ、アレンを殺せとは命じてないぞ」
鳥肌が立つ。
これだけの緊迫感の中、アストレアはトロールの微細な動きすら把握したということか。
アレンは死の気配がのしかかるのを感じた。
アストレアの視線が、正面からアレンの瞳の奥に差し込まれた。
「で?」
「待て」
真意を伝えきれていない。言葉を発しようとしながらも、アレンは皇女の圧力に押され、踵を後方に逃がそうとした。
「理解できてるか? お前はこの場の全員を敵に回してるぞ。私がこやつらに自由を与えると、お前、死ぬぞ?」
現在、この命は彼女の手の中にある。
この思考にたどり着いたとき、アレンの中で『彼女の意志によって生きている』という事実が浮かび上がった。
先ほどの答えがアストレアにとって、的外れで意にそぐわぬものならば、とうに命は尽きている。
胸が突き破るほどに心臓が跳ね上がっているということは、少なくともまだ生きている。アストレアはまだアレンが生きることを許可している。
つまり、まだ可能性がある。
言い直せ、とアストレアが促しているように思えた。
喉が、鳴る。ようやく唾を飲み込めた。
掠れていた声が出る。
「こんな国、捨ててオレと行こう」
アレンの言葉を聞いた途端、アストレアの高笑いが響き渡った。
静寂に、彼女の笑いのみが響き渡った。
「お前、私の敵じゃなかったのか?」
「違う。オレはお前と戦うつもりはなかった」
「あいつは、勇者のお前は人間側だと言ったではないか」
アストレアは顎をしゃくって、王太子レイブンを示す。
「我らを裏切る気か、アレン!」
「黙ってろ、下郎」
アストレアの一喝が轟く。レイブンは口元を歪め、続けようとした言葉を飲み込む。
神の手だとか、最強の盾だとかの話ではない。
アストレアの支配力だけが、この空間にあった。
「どうなんだ、アレン?」
思えばアストレアの怒りの発端は、レイブンの言葉からだった。
アレンは首を振って否定する。
「王太子が言っていただけだ。オレの本心とは違う」
アレンが答えると、ふんと鼻を鳴らし、アストレアは親指を唇に当てた。
押し込まれ、唇が歪んだ。
「なら、恭順の意を示せ」
アストレアはアレンの右腕を指で示す。
「剣を捨てろ」
アレンはアストレアの足元に剣を投げた。
逡巡する間もなく即座に従ったアレンに対して、アストレアは視線を投げかける。
「こうなると、もう後戻りはできないぞ」
「するつもりもない」
「今から、私が殺せと号令を下すかもしれんぞ」
「そうなったら諦めるしかないな」
「バカなヤツだ」
アストレアは床に転がった剣を拾い上げた。
「これで私も後戻りはできないな」
アレンの胸に剣を押し付け、握らせる。
「お前の話に乗ってやる。お前はバカだからこそ、面白い」
アストレアは呆れるように小さく笑い、右手を出す。
「私を連れて行くことを許可してやる」
アレンは皇女の手を取った。先ほどまで、怒りに任せて暴れ狂っていたとは思えないほどに、細く柔らかい指だった。
「それで、私を連れて行くとして、どこへ行くつもりだ?」
「分からない」
「行先もないのに、この私についてこいと?」
「そうだ」
「……今回だけは不問にしてやる」
そう言ってアストレアは繋いだ手を振った。
案内せよ、と仰せなのだろう。
アレンは王太子やかつての仲間に視線を投げかけた。数人が、剣や杖を握る拳に力を込めた。
「私は機嫌がいい。指を動かす程度なら見逃してやろう。だが!」
空間に甲高い音が反響した。アストレアが魔力を解放しただけだ。血の滲むような緊張感が戻った。
「それ以上は許さん。黙って私たちを見送れ。後は好きにしろ」
アレンは警戒心を怠らず、出口に向かって慎重に歩く。隣のアストレアは悠然と軽やかに進んだ。
皇女は去り際にまで気品を求めた。
彼女の歩みを止めようとするものはいなかった。
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勇者システム……
勇者を育てるための育成方法、と言えば聞こえはいいが、体系化されたものではなく、冒険者を戦いの坩堝に叩きこんで、無理やり戦闘技術を学ばせているだけだ。
それだけならよかった。
中には口減らしのために、子供を魔界へ送り込む。そんな親がいるのも事実だった。
オレはそんな子供の一人にすぎなかった。
人間界には、魔界へ捨てられ音信不通になった子供たちの墓標がいくつもある。
オレの墓標もそのうち建つはずだった。
「お前、面白いヤツだな」
勝つためには手段を選ばなかった。オレが葬った魔物はアストレアの従者だった。
「人間の癖に私の家来に勝つとはな。こいつの代わりに、これからはお前が私の家来だ」
拒絶など許されなかった。それほどにアストレアの魔力は圧倒的だった。
アストレアは人間を平等に見下していた。王族だろうと、親に捨てられたオレだろうと、彼女の前では等しく「人間」だ。
だけど、年月が流れるにつれ、彼女のそんな侮蔑が心地よく感じていることに気付いた。
この想いを何と表現すればいいのか、オレには分からなかった。
「婚約が決まった」
彼女の言葉を聞いて、胸に燻るものがあった。
「見ろ、これを」
アストレアは天井に向けて小さく輝くものを投げた。指輪だった。
彼女はそれを右の薬指につけた。
「親父め、勝手に決めおって。左に付けるのも癪だ。出かけるときは右の指につけとくか」
アストレアはそう言ってベッドに座り、膝の上に肘を置く。手のひらに顎を置き、オレを覗き込んだ。
「アレン、考えろ。どうすれば婚約を取り消せる?」
そんなことオレに分かるわけがない。
アストレアに匹敵する魔王に逆らうだと?
逆らう、か。そこでようやくオレは気づいた。
だからこそ、オレは勇者として覚醒したんだ。オレの剣は魔王に届き得る。
魔王はオレの命を奪おうとするだろう。
オレは人間界へ戻ることにした。
「好きにしろ。しょせん、お前は人間だ。私のことなど畏怖の対象でしかないだろう」
ただ、彼女が別の男と一緒になるところを見たくなかっただけかもしれない。
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「で、どこまで、連れてくつもりだ」
王太子の屋敷を後にして、森の中をしばらく歩くと開けた場所に辿り着いた。
アストレアが足を止める。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。風を受けて、木の葉が擦れあう。アストレアは靡いた髪を押さえつけた。
アレンは手を離し、剣で袖に切れ目を入れた。服を破ると、アストレアの手を取った。
「気づいてたのか」
「あれだけの魔力を使えば、皮膚も破れる」
アストレアの手は血で滲んでいた。アレンの命を奪うために使った魔法の反動だ。
アレンは手早く布を巻きつける。
「覚えてるか? あの時もお前は、薄汚い服を私に巻き付けてくれたな」
「魔界の姫様から見たら、オレの服なんてさぞかし汚いだろうな」
「そうだ。私は貧乏など耐えられんぞ」
アストレアの指がアレンの腕を撫でる。彼女が触れたのは、かつて二人が魔獣に襲われたときに負った爪痕だ。
「逃げればいいのに、無理して私を守ろうとするから、余計な傷を負うんだ」
「身を挺して主を守るなんて、家来の鑑だろ?」
「主にいらん世話をかける家来は下の下だ」
腕を裂かれたアレンを目の当たりにして、アストレアは魔獣ごと森を消し去った。
「アストレアは、ハンカチを腕に縛り付けてくれたな。家来にしては破格の待遇だ」
「私は慈悲深いからな」
アストレアが笑う。木々から差し込む月光が、彼女の唇を滑らかに照らす。
アレンは、まばたきを忘れた。それでも目の渇きに耐え切れずに、瞼を閉じて再度開いた。アストレアが歯を見せた。
「気になるか? 私の唇が……」
答えに詰まる。返答次第では身を危険にさらすことになる。
「お前、ごまかしてたが、さっき私にキスしただろ」
アストレアはアレンの視線を弄ぶように、しなやかな指先を唇に当てた。
「歯をぶつけおって、初めてのキスが台無しだ」
睨みながらアレンの脛に爪先をぶつける。
「お前でなければ、あの瞬間首と胴が離れてたぞ」
誇張ではない。彼女なら手を触れずに、そうすることが可能だ。
「オレだから……許された?」
「自分で考えろ、その前にまずはこれからのことだ」
アストレアが背を向ける。唇が視界から消えた。
これからのこと。
計画とも言えないものだ。彼女を連れ出すことを思いついたときから考えていたことがある。
「魔族最強の皇女と最強の剣である勇者が手を組めば、何だってできるんじゃないか」
「やっぱり面白いな、お前!」
アストレアは腹を抱えて笑い出した。
「そうだ、私とお前ならできないことはない。うまくいけば、さっきの続きを考えてやるかもしれんぞ」
月明りの元で、二人の歩みが再び始まった。
「歯をぶつけることは許さんがな」
アストレアが手を差し出す。アレンはそっと受け取った。
お読み下さりありがとうございました。
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