9 長い髪の理由
フィリップが選んだのは広い中庭がある店だった。
中庭は計算された作りで、高低差を付けた花壇に色とりどりの花が咲き乱れている。
「こういう店は初めてです。……と言っても、私は城の外で食事をしたことがたいしてないのですが」
「王女殿下はそうそう外出できませんよね」
「王族は恵まれた暮らしをしているのですから、多少の不便は仕方ありません」
ルシィが笑顔で答えると、フィリップが眩しそうにルシィの顔を見たまま黙っている。
運ばれてきたワインを口に運んだ。ワインを楽しんでいると、フィリップがまだルシィを見ている。
「なにかしら?」
「走竜の操り方を教えていただいた時に、ルシィ様は体幹がしっかりしていると感心しました。走竜が急に曲がっても急停止しても、振り回されませんね」
「慣れでしょうね」
ルシィはくつろいでいた。ふと、(このような席なら踏み込んだことを聞いてみてもいいかしら)とルシィが思ったのはワインの影響かもしれない。
「中尉は年上の女性とお付き合いしたことがありますか?」
「あります。親が勧めた相手で四歳年上でした。ですが、双方合意の上で婚約前に交際を終わりにしました」
ルシィはそれ以上のことには踏み込めず、「そうですか」とだけ相槌を打った。だがフィリップは話を続ける。
「その人を気に入らなかったわけではありません。私の方が誰かと人生を共に生きる覚悟ができなかったのです。迷いがあるうちは結婚しないほうが互いのためだと判断しました。親はがっかりしていましたね。ですが、親のために気の進まない結婚をする気にはどうしてもなれなかったので。その時に跡継ぎを弟に譲りました」
「そうでしたか」
「私が自由に生きていられるのは、弟のおかげです。私のわがままを聞いてくれた弟には感謝しています」
「弟さんの方に不満は?」
「むしろ跡継ぎを譲ったことで感謝されました」
そう言って笑うフィリップの表情には屈託がない。ヒックスの法は長子相続ではなく、比較的自由だ。レーイン王国は長子相続だが、男子がいる場合は男子相続が通例である。
「中尉に個人的な話をさせてしまいましたね」
「問題ありません。私はやりたいことをして生きています。そして今やりたいことは、ルシィ様を元気にすることです……と言ったら迷惑ですか?」
「私が旅の途中で泣いていたから、心配しているのね」
「あの夜のこともありますが、なんとなく元気がないように見えます」
「気をつけますね」
そう答えると、フィリップが「んー」と言いながら首を傾げた。
「いい子をやめるとおっしゃいましたよね? 元気がないのに周囲に心配をかけまいと元気なふりをするのは、まさにいい子の見本ですよ?」
「あっ……。そうよね。楽しくないのに笑うのはやめるわ」
そう言うとフィリップはクスッと笑う。
「ルシィ様は自然にしていてください。元気がないように見えたら私が勝手に励まします。そうだ、なにか質問があればどうぞ。初めて顔を合わせた時から、ずっと私の髪をご覧になっていますよね? 気になりますか?」
「気づいていたのね。男性でそこまで髪の長い人を見たことがないものだから、つい。伸ばしているのは、何か理由が?」
フィリップが濃い灰色の自分の髪を手に取り、眺める。
「我が王国軍には、髪の長さに関する規則がないんです。まあ、たいていの軍人は短くします。髪が長いと現場の兵士なら土で汚れますし、我々士官も有事の際は髪の手入れなんてしている暇がありませんから。これはまだ髪が肩まで届かない頃の話と思って聞いてください」
「はい」
「私が忙しくて髪を切れないでいたとき、上官がすれ違いざまに『髪を切れよ。ダラダラダラダラ伸ばしやがって』と言ったんです」
(軍人ならそう言われても仕方ない気がする)
「当時私は士官学校を首席で卒業したばかりで、鼻高々の若造でした。世間知らずで、ガタイがっちりと仕上がりつつある十八歳は、ムッとしたのです。『あなたと勝負して私が勝てば、髪を伸ばしたままでもいいですか? 剣でも殴り合いでも、好きな方法を選んでください。私が勝ちます』と言い放ちました。今思い返しても生意気で頭の悪い売り言葉でした」
(いつも飄々としている中尉がそんなことを?)
「相手は三十代の半ばで、腕力自慢の人でした。『腕相撲で負けたことがない』と言って勝負を挑んできましたが、私が勝ちました。相手がしつこくもう一度もう一度と繰り返すので、五回勝負して私が全勝しました。それ以来伸ばしています。当時、髪はそのうち切ろうと思っていたのですが、切ったらその上官に『ほらみろ、やっぱり長い髪は邪魔だろうが』と言われそうで。切ったら負けだと思って伸ばしたままで今に至ります」
(そんな理由?)と思ったら笑いが込み上げた。
走竜もまたオス同士、メス同士でよく争っている。どちらが上か下かを決めるためだ。死ぬような怪我をすることはない。上下が決まればすぐに離れる。人間の腕相撲のようなものだ。
大柄な軍人が髪の長さで争っている様子を思い浮かべ、(ほんと、まるで走竜みたい)と思ったら笑いが込み上げてきた。
唇を噛んで笑いを抑え込もうとしたが、込み上げてくる笑いを止められない。
「いやだわ、笑いが止まらなくなって、お、おなかが痛い」
「髪を切ったら負けなので」
「やめて。苦しい」
「正直言うと、さすがにこの長さは不便なんですが、切りません。切ったら負けなので」
真顔で言い切るフィリップがおかしくて、涙がこぼれてしまうほど笑い続けた。
おなかを押さえたり涙を拭いたりしてルシィは忙しい。フィリップはワインを飲みながら、満足そうにルシィを眺めている。
「はぁぁ、苦しかった。食事中にこんなに無作法なことをしたのは初めてだわ」
「元婚約者の前でも大笑いしたことがないんですか?」
「こんなに笑ったことはなかったと思う。いえ、一度もなかった」
「では私はルシィ様の元婚約者にひとつ勝ちましたね」
「勝ち負けの問題?」
「はい。と言ってもお相手は若いんでしたっけ?」
メルヴィンのことを聞かれても、なぜか今夜はさほど胸が痛まない。
「ええ。やっと十八歳になったばかりです」
「十八……法の上では成人ですが、率直に言えば子供ですよ。少なくとも十八歳の私は子供でした」
「上官と腕相撲したりして?」
「そうです」
その後もフィリップは軍隊で経験した話でルシィを笑わせ続けた。
食事を終え、二人並んで店を出た。母国では王女の隣に並んでいいのは家族と婚約者だけだったが、ルシィはそのマナーを忘れることにした。笑い続けて身も心も緩くだるい。
公爵家の屋敷まで送ってもらい、玄関の前に立った。
「とても楽しかったわ。誘ってくれてありがとう、中尉」
「ではまた明日の朝に。おやすみなさい、ルシィ様。よい夢を」
フィリップはサラリと髪をなびかせて背を向けると馬車に乗り込んだ。
立ち止まって馬車を見送りながら、ルシィは迎えに出てきた執事にも聞かれないよう小さな声で語りかけた。
「あなたを見習うわ。フィリップ・ステグナン中尉。今夜は楽しかった。ありがとう」
その夜、ルシィはぐっすり眠った。
楽しそうに笑っている自分の夢を見た。