8 王子デニス
ルシィが城から帰ると、居間で公爵夫妻が寄り添っておしゃべりをしていた。見るからに仲睦まじい。
クラリスの夫が大変な愛妻家というのは本当らしい。
公爵が席を外したところでルシィが、「お姉さまは公爵様に愛されていますね」と言うと、クラリスは「ええ、私はクレイグに愛される努力を欠かしたことがないもの」と真顔で肯定する。
ルシィは黙り込んだ。メルヴィンに成長してほしいと願っていたが、愛される努力をしたかと言われたら自信がない。
窓辺に近寄り、窓を開けた。公爵家の広い庭は、色とりどりのバラの花で埋め尽くされていた。
「きれいでしょう? バラが好きなんてクレイグにはひと言も言っていないのに、察してくれて他の花を抜いて庭師にバラを植えさせたのよ。本当はバラ以外の可憐な花も大好きだけれど、それは言わないでいるわ」
「どうしてですか?」
「私のために庭の花を入れ替えようと思ったクレイグが愛しいからよ。だから大喜びして感謝したの。私を喜ばそうとした気持ちに対してね」
「演技をしたということですか?」
クラリスが微笑んだ。
「私たちは赤の他人だもの、演技のひとつもしないで十八歳からずっと仲良し夫婦を続けられるわけがないじゃない。彼が私を喜ばせようとしてくれたのだから、私もクレイグを喜ばせる。そういう意味では私、クレイグによそ見させないように必死なの。私の意に沿わないことがあっても、怒ったりしない。それが善意なら、やんわりと伝えるようにしているわ」
「お姉さまが必死ですか」
「そう。必死。この国に嫁いだばかりの頃にね、クレイグとお付き合いがあった女性たちが、私にだけわかるように彼との関係を匂わせたのよ」
「まあ……」
「間違いなく妬みね。あんな人たちに再びクレイグの目を向けさせないよう、努力してる。正論でクレイグを言い負かすようなことはしない。好き嫌いの感情って、正しいかどうかじゃないもの。私はクレイグを従えたいわけじゃなくて、愛されて仲良く寄り添って生きていきたいの」
そこまで言ってからクラリスが母親のような顔になった。
「ルシィ、前に進みなさい。新しい恋をしたらメルヴィンのことなんて過去の思い出になるわ」
「いえ、しばらくは……」
「そんなことを言わないで。そうそう、中尉から連絡が届いたわ。『明日、ルシィ様に走竜の扱いをご指導していただきます』って。指導するの? のんびり遊んで過ごせばいいのに」
「ウーが心配なので」
「相変わらずねえ。私はあなたが心配よ」
その日の夕食は会話が弾む楽しい時間だった。三人の子供たちを見るクラリスの顔が幸せそうだ。
夕食を終えて与えられた部屋に入り、カーテンを開けて外を見た。
庭一面のバラは公爵の愛の形であり、クラリスの努力の結果だと思った。
翌朝ルシィは馬車に乗り、早めに公爵家を出た。指導の前に走竜たちと戯れたかった。
走竜に乗るときの服装はいつも同じ。白いブラウスは長袖。下は足首までの白いズボン。ズボンの渡り幅はゆったりと広く、ルシィの動きを妨げない。裾は紐で絞ってある。足元は編み上げの短いブーツだ。
公爵家の馬はシエラたちの飼育舎に近づくにつれて、明らかに嫌がる素振りを見せた。走竜たちを怖がっている。
御者に声をかけて飼育舎のだいぶ手前で下りると、「ルシィ様!」と明るく若い声に呼び止められた。
城の方からこちらに向かって走ってくるのは少年だ。十三、四歳くらいか。明るい茶色の髪、茶色の瞳。顔立ちが昨日謁見した国王によく似ていた。
「おはようございます、ルシィ様!」
「おはようございます。ええと……」
「僕はデニス・アッシャール・ヒックス。第一王子です」
「殿下、初めまして。ルシィ・レーインでございます」
「昨日、遠目に姫を見かけて、ぜひお話がしたくて。姫は走竜乗りなんでしょう?」
「ええ。走竜に興味がおありですか?」
「はい! 父上に許可をいただいてあります。見学させてください」
「もちろんです」
ルシィとデニスと護衛の騎士は連れ立って飼育舎に入った。二頭の走竜は揃って入口を見て待っていた。
「カカカッ」
ウーが嬉しそうに鳴いて頭を上下している。「ウー!」と声をかけて走り寄り、ウーの大きな頭を抱きしめるルシィ。それを見ているデニスは(僕も同じことをすべきか?)と思いながらも近寄れない。
シエラがデニスの怯えを匂いで感じ取り、「気に入らない」と言うように頭を左右に振った。
「殿下、怯えてはいけません。怯えている人間に、走竜は懐きませんよ?」
「はい……」
「懐かなくてもシエラは噛みませんので堂々と。怖がらないことが走竜と仲良くなる第一歩です」
そこからデニスはルシィに励まされながら、ウーやシエラの体に触れ続けた。冷や汗をかいているデニスが触れると、二頭はピタリと動きを止めてジロリとデニスを見る。そのたびにルシィが「いい子ね。仲良くしてね」と声をかけ続けた。
しばらくしてフィリップが登場した。
「ルシィ様。出遅れました。申し訳ございません。それで、殿下はどうしてここに?」
「殿下は走竜に興味がおありなんですって」
「父上の許可は頂いたよ。中尉とルシィ様が一緒ならいいって」
「そうですか。ではこの子たちを外に出しましょう」
本場の走竜乗りと一緒がいいというデニスの希望で、シエラにはフィリップ、ウーにはルシィとデニスが乗った。護衛たちは馬で付き添う。
わずかな手綱の動きで走竜たちが歩き出した。行き先は海岸だ。
海岸に到着してルシィたちが下りると走竜は転げまわり、砂浴びを始めた。デニスは護衛たちと離れた場所から見物している。
ルシィが隣に立っているフィリップに話しかけた。
「ウーの乗り手は決まりましたか?」
「それがまだ決まらないのです。私が指名した軍人は全員、シエラが受け付けなくて。陛下には早く決めろと催促されているのですが」
「そうでしたか」
(高額な走竜を購入したのに、もったいないこと。走竜に馴染みのない国だから仕方ないけれど、乗り手が怖がっているのね。そういう意味では中尉は稀な存在ということか)
「ルシィ様、王都巡りはいかがですか。ヒックス王国の王都もレーイン王国に負けず劣らず華やかです。せっかくの貴重な二年間ですよ? 走竜乗りは休日があってないようなものですが、その代わりに時間の融通が利きます。私がご案内します」
「王都巡り……」
一瞬迷ったが一人で鬱々としているのも愚かだと思う。
「ありがとう。お願いします」
「では午後、お迎えに上がります」
「楽しみにしています」
その後は二頭の走竜を走らせた。ウーとシエラは互いにじゃれあい追いかけ合って楽しんでいる。最初は緊張していたデニスも、次第にリラックスして乗れるようになった。
楽しい時間はすぐに過ぎて走竜たちは昼寝の時間になり、昼前には飼育舎に戻った。
「殿下、疲れましたか?」
「まだまだ乗れる」
「そうですか、ではよかったらまた明日もいらしてください。今日はこれで解散します」
ルシィは公爵家に戻り、湯を使ってから着替えた。肩を出したドレスは薄い青色だ。白いサンダルはヒールが高く、すんなりしたルシィの姿を引き立てている。ほどなくしてフィリップが迎えに来た。フィリップは軍服ではなく私服だ。
長い灰色の髪を背中で一本に縛り、ピンタックのある白いシャツとズボンを着ている。鍛えられた体は筋肉がしっかりついていて、大人の男の魅力があふれていた。
「さあ、参りましょうか」
そう言ってフィリップは手を差し出した。