6 ネンネさん
ヒックス王国への旅は続いている。
馬上のフィリップが走竜に乗っているルシィに話しかけてきた。
「ルシィ様、あと二日ほどでヒックス王国に到着しますよ」
「中尉は早く柔らかいベッドで眠りたいでしょうね」
「それは私が言うことですよ。ルシィ様こそ柔らかいベッドが恋しいのでは?」
「私はテント泊の旅も見慣れない景色も、全部が初めてで楽しいの」
走竜を連れている一行は、人家の多い場所を避けてテント泊をしながら移動している。クラリスがいるために食事が充実していて、ルシィに不満はない。
夜中、目が覚めて眠れなくなったルシィはテントをそっと抜け出した。ウーはよく寝ていたが、片目だけを開けてルシィを見送った。
交代でテントの見張り番をしている軍人には「遠くには行きません」と断りを入れて、少し離れた木の下に座った。国を出た日からなるべく考えないようにしていたが、ふと(メルヴィンはどうしているのだろう)と考えてしまった。
(私はメルヴィンより五歳年上だからと、姉のようにメルヴィンの世話を焼き続けた。メルヴィンにしてみたら、口うるさくてわずらわしかったのだろう。メルヴィンは私に甘えてほしかったのかも。サシャみたいに)
無自覚に嫌われることをしていた。嫌われていることにうすうす気づいていながら怖くて気づこうとしなかった。そんな自分が心底情けない。
「大切なところで間違えてしまった……」
「すみません、ルシィ様」
「えっ?」
頭上から声が降ってきた。
滲んでいた涙を急いで拭ってから見上げると、太い枝の上でフィリップがくつろいでいた。シャツの襟をはだけさせ、長い髪はひとつに結ばれている。
「テントの中が暑苦しくて、ここで涼んでいました」
「ご、ごめんなさい。私、あなたがいるのに全然気づかなくて」
「このままずっと盗み見みたいなことはしたくなかったので声をかけました」
「中尉、姉にはなにも言わないでほしいのだけど」
「もちろん言いません。ルシィ様、こんな私でも聞き役くらいはできます。こう見えて口は堅いですよ」
ルシィが迷っていると、フィリップが夜空の星を眺めながら話をする。
「何かを我慢し続けて人生を終えても、『よく死ぬまで我慢した』なんて誰も言ってくれません。私は人目を気にせず自由に生きています。この髪もそう。それで罵られたとしても平気です」
「私、何か我慢しているように見えますか?」
「見えます」
フィリップがスタッと地面に飛び降りた。
「我が国では肩の力を抜いて、やるべきことよりやりたいことをして過ごしていただきたいです」
「私、肩の力が入っているように見えましたか?」
「見えました」
「我慢しているように見えて、肩の力が入っているように見える……」
(そんな鬱陶しい人、誰も仲良くなりたくないわよね)
「私はもう戻ります。おやすみなさい、中尉」
「おやすみなさい、ルシィ様」
結構なショックを受けたルシィがテントに戻って自分のベッドに横たわると、クラリスが声をかけてきた。
「ルシィ、ヒックスに着いたら、私がよさそうな令息を見つけてあげる」
「……今はまだ、そんな気持ちにはなれません」
「もう二十三歳のあなたに、のんびりしている時間はないわ」
そうなのだ。メルヴィンが成人するのを待っていたから、すっかり他の令嬢よりも結婚が遅くなっている。
「子供は可愛いものよ?」
そうだろうとは思うが返事ができない。
「生まれた時からの婚約者なんて貴族にはいくらでもいるし、女性が年上の場合もたくさんある。それでも結婚すればそこそこみんな上手くやっている。でもあなたとメルヴィンは、結婚しても上手くいかなかったわね。婚約を解消したことを後悔しないで」
「後悔は……していません」
「メルヴィンは王女と婚約している立場で他の令嬢と親しくしていいかどうか、わかる年齢だった。誠実さに欠けるだけじゃなくて、考えなしだったのよ」
ルシィはまだ、メルヴィンを非難されるとつらい。そしてメルヴィンへの気持ちを捨て切れない自分が情けない。
「そうかもしれませんね」
「ちょっと! 公務以外で楽しくないのに笑うのはやめなさい。あなたは今まで真面目に頑張ってきた分、ヒックス王国では肩の力を抜きなさい。私はルシィに幸せになってほしいの。私はとっても幸せだから、お手本にしなさい」
「お姉さまのそういう容赦ないところ、わりと好きです」
「知っているわ」
フィリップとクラリスに同じようなことを言われて、ルシィは自分が人からどう見られているのか理解した。
真面目で肩に力の入った堅物。
(つまらない人間しか想像できない。ああ、いやだいやだ。自分を変えたい)
◇
長旅を経て到着したヒックス王国の王城は堀に囲まれていた。
一行は跳ね橋を渡って城門の中に入っていく。ルシィとウー、フィリップだけは跳ね橋を渡ってから走竜の飼育舎に向かった。ウーは姉のシエラの匂いを嗅ぎつけたらしい。
ウーが「カカカッ、カカカッ」と甘え鳴きした。すると、前方から「オオオオーン」というシエラの喜びの声がする。
タッタッタと走るウーの上で、落ちないようにルシィが腰を上げて立ち乗りになった。
飼育舎で顔を合わせた二頭は互いに頭をこすり合わせて再会を喜んでいる。フィリップがルシィの隣に立った。
「二頭とも嬉しそうですね」
「ええ。同じ群れの中でも、シエラとウーは仲の良い姉妹でしたから。本当に嬉しそう」
「二頭が落ち着いたらシエラの運動に行ってきます。おそらくシエラは運動が足りていません」
「私も行っていいですか? シエラに乗るのは久しぶりなので」
「もちろんです。二人乗りで本場の走竜乗りの腕前を体験できるなんて、いやー嬉しいなあ」
フィリップが嬉しそうに笑った。
(ん? 私は……私がシエラに乗って中尉はウー、のつもりで言ったのだけど。まあ、いいわね)
シエラに二人乗りして外に出た。少し走ってから「あっ!」と声を上げた。
「私、陛下にご挨拶をしないといけなかったわね?」
「それは明日です。クラリス様が『疲れているし汚れているから帰国の挨拶は明日にする』とおっしゃっていました」
「それ、お姉さまが決めていいこと?」
「公爵様が陛下に伝えるのでしょうから、問題ないのでは?」
「お姉さまのそういうところ、すごいわね」
「恋愛経験が豊富な公爵様を骨抜きにした凄腕ですからね」
「ええっ?」
思わず振り返ると、面白そうな顔をしたフィリップの顔が近い。ルシィは慌てて前に向き直った。
「公爵様は、恋愛経験が豊富だったの?」
「ええ。有名でした。でも昔の話です。今はもう、クラリス様以外の女性に見向きもしません。『人ってあんなに変わるんだなあ』とみんなが感心していますよ」
(どうやって? いえでも、さすがに姉妹の間でそんなことは聞けないわ)
「どうやって骨抜きにしたのか、クラリス様に聞いてみたらいかがです?」
「いやです。なんだか生々しい話が出てきそうじゃないですか」
「ははっ。そうおっしゃるような気がしていました。ルシィ様は見るからにネンネさんですもんね」
「ネンネさんだなんて! 失礼だわ!」
本気で文句を言ったが、フィリップは笑っているだけだ。
相変わらず二人乗りは体が密着して居心地が悪い。だがそんな気持ちを悟られたらもっとネンネさんと言われそうで、ルシィは平然としているふうを装い続けた。
結構長い時間シエラに運動させ、飼育舎に戻る頃にはへとへとになった。
「ルシィ様、ありがとうございました。大変勉強になりました。シエラがあんなに乗り手の意を汲めると知って、よりやる気が出ました。おや? ルシィ様はお疲れですか?」
「疲れていません。全く。これっぽっちも」
「それはよかった。明日もご指導願えますか?」
「ええ、よろこんで。では帰ります」
フィリップが馬車の手配をしてくれて、ルシィは公爵家に着いた。
「やっと帰ってきた! どこに行っていたの? 心配したわ。ルシィ? あなた、なんでそんなに疲れているの?」
「平然とするふりに疲れたのです。湯あみをさせてください」
「平然とするふりって?」
「いろいろです」
クラリスに詳しく説明する気力もなく、ルシィは控えていた侍女に「浴室はどこかしら?」と尋ねた。