3 晩餐会
晩餐会の会場には、不穏な空気が濃く漂っていた。
ルシィの婚約が解消されるらしいという噂が、参加した高位貴族たちにすでに広まっていたからだ。
いつもならルシィと共に参加するメルヴィンの姿がない。それが参加者たちの噂に勢いをつけていた。
重鎮たちも急な話に戸惑っていて、長いテーブルのあちこちでヒソヒソと話が囁かれている。
中には女王に聞こえない程度の声で批判的な意見を言う者もいた。
「女王陛下は少しルシィ姫を甘やかしすぎたのではないか」
「十八年間も婚約者でいたメルヴィンの立場はどうなるのだ」
自分に向けられる視線を察して、ルシィは硬い顔で下を向いている。
ヒックス王国に嫁いだルシィの長姉クラリスが、今回フィリップに同行して初めて里帰りしていた。
そのクラリスは、妹の様子と会場の噂話に気がついていた。
晩餐会が終わり、参加者たちが部屋を移動した。各人が好きな丸テーブルで酒と葉巻と談話を楽しむ時間である。クラリスが素早くルシィに近づいた。
「ルシィ、婚約の解消を申し入れたんですって? どうしたのよ。あなた、メルヴィンのことを気に入っていたわよね?」
「そう……ですね」
「もしかして、原因はサシャ?」
ルシィは思わずピクリと反応してしまい、そんな自分を忌々しく思う。
「ああ、やっぱり。だから注意したのに。私はサシャとメルヴィンの両方に釘を刺しておけって書いたでしょう!」
「そうでしたね。でも、クラリスお姉さま、心が動いてしまった人に私が説教しても、心を変えることはできないと思うわ」
二人は大理石の太い柱を背にして会話している。その柱の反対側でフィリップが柱にもたれて休憩していることに、二人は気づいていない。
「だからって、何もしないで逃げ出すの?」
「逃げるわけでは……。サシャを愛しているメルヴィンを見たら、私はもう……」
「何か見たのね? 私に嘘をつくのは許さないわよ。何を見たのか言いなさい!」
顔がくっつきそうなほどクラリスが詰め寄る。こうなるとルシィがクラリスに逆らえないのは、小さい頃からだ。
「森の中で、メルヴィンがサシャを抱きしめていたんです。サシャに『一緒に逃げましょう』と言われて、『僕にはどうしようもない。家族が罰を受ける』って。私……何十年たってもあの言葉を忘れられないと思う。そう思うなら結婚すべきじゃないでしょう?」
「なんですって! メルヴィンがそんなことを言っていたの? へえ、そう。それで、婚約の解消について、お母様はなんておっしゃったの?」
「お母様は私に二年間国を出るようにと。私は納得しています。メルヴィンとサシャのことは言っていません」
納得していると言いながらルシィの表情は暗い。クラリスは眉を吊り上げたまま長い時間絶句した。
「どう聞いても悪いのはメルヴィンなのに、なぜルシィが国を出されるわけ? あなたもあなたよ。メルヴィンに裏切られたのに黙って我慢した上に罰まで引き受けるなんて、愚かだわ」
「誰が悪いかをはっきりさせても、誰も幸せになりませんから。メルヴィンが家のために私と結婚するつもりでいる以上、婚約の解消を申し出た私が罰を受けるのは当然です」
「わかったわ。では私が今ここにいる全員にその話を広めるわよ。裏切られたルシィが悪く言われるのは我慢ならない」
「やめてください! それでは私が黙って身を引いた意味がなくなるじゃありませんか! お姉さま、本当にやめてください!」
ルシィがクラリスの腕をつかんで離さない。動けないクラリスが呆れたような視線をルシィに向けた。
「ルシィって昔からそうよね。お気に入りのアクセサリーやドレスをヘレンに横取りされても、ひと言も文句を言わなかった。見ていてじれったかったわ」
「あれはヘレンお姉さまと喧嘩してまで欲しい品ではなかったからです。正直言うと、私、サシャと争ってまでメルヴィンと結婚したいとは思えなくなってしまったの」
クラリスが微笑んでいるルシィをしばらく見つめた。
「腹立たしいけど、ルシィがそう思ったのなら仕方がないのかしら」
「この国にいればいろいろ噂されますし、聞きたくない話も耳に入ります。国外に出る話、私は助かったと思っています」
フィリップは柱の陰からそっと離れた。
(浮気した相手を責めもせずに身を引くのか。そりゃまた物分かりが良すぎないか? 王女はもっとわがままなのかと思ってたが。あんな王女もいるんだな)
フィリップが歩いていると、女王の従者が足早に近寄ってきた。
「ステグナン中尉、女王陛下がお呼びでございます」
「今行く」
レーイン王国からすると、とんでもなく高価な走竜を買ってくれるヒックス王国は上客だ。女王夫妻が最上級の酒を出してフィリップをもてなしている中、フィリップはさりげなく質問した。
「ルシィ姫が遊学なさるそうですが、遊学先はもう決まっているのでしょうか」
女王アデラが一瞬驚いた顔をしたものの、すぐににっこりと微笑んだ。
「結婚前に他国を知る機会を与えたいと思ったのです。遊学が決まったのは近々の話で、まだ行き先は決まっていません」
「でしたら、ヒックス王国ではいかがでしょう。我が国もレーイン王国に負けず劣らず過ごしやすい国ですし、本場の走竜乗りの姫様にご指導いただければ、大変勉強になります。国王の許可を得られるよう、私が遊学のお話を持ち帰ります」
少し考えてから、アデラが優雅に微笑んだ。
「中尉はルシィが走竜乗りだと知っているのね。大げさなことにはせず、姉のクラリスのところへ遊びに行って滞在する、ということにしましょう。あなた、それでどうかしら」
「それがいい。クラリスがルシィの近くにいてくれるなら安心だよ、アデラ」
「では、中尉とクラリスが帰国する際に、ルシィを同行させてくれないかしら。中尉に迷惑がかからないよう、私からオーギュスト国王に手紙を書きましょう」
王女の遊学が明日出国とは思わなかったから、フィリップは驚いた。だが、急がせたいのだろうと判断して何食わぬ顔で微笑んだ。
「承知しました。ではヒックスに着くまで、私がクラリス様とルシィ様の護衛の責任者を務めさせていただきます」
「それはありがたいこと。今回お譲りするウーは、貴国にいるシエラの妹。相性は問題ないけれど、ヒックス王国に着くまではルシィにウーの世話をさせましょう。あの子は軍人たちよりも走竜の扱いが上手です」
「軍人よりもですか。それは素晴らしいですね」
そこから先は当たり障りのない会話が続いた。
途中で従者がアデラに何事かを告げ、アデラとジョフロウは一時退席した。それに気づいたクラリスがすかさず後に続いて部屋を出る。アデラはクラリスがついてくることに気づいたが、チラリと見ただけで何も言わなかった。
控えの部屋にはメルヴィンの父であるアウグスト・ルーデン侯爵がいた。アウグストの顔が引きつっている。
アデラがドアを閉めないようにと使用人に伝えたのは、クラリスに「部屋の外で話を聞いていろ」という意味だとクラリスは理解した。クラリスは部屋に入らず、ドアの外で聞き耳を立てている。
「どうした? アウグスト」
「陛下、我が家に婚約解消の知らせが届きました。これは、いったいどういうことでしょうか」
「アウグストに思い当たる節はないのか?」
「ございません。メルヴィンは生まれた瞬間から、ルシィ様ひと筋に生きてまいりました。まもなく婚姻という段になって婚約解消と言われ、息子は打ちひしがれております」
「ひと筋で、打ちひしがれて、ねえ。お前はメルヴィンとサシャがどの程度の付き合いか、知らないと言うのね?」
「メルヴィンとサシャ、でございますか?」
アウグストが戸惑った顔になった。その顔を見つめるアデラの表情は硬い。
他の貴族たちからアデラのところへ、何年も前から「メルヴィンとサシャは親しすぎるのではないか」「二人が密会しているのを使用人が見た」「森の中で二人だけでいるのを見た者がいる」という報告が何度か届いていた。
(ルシィがメルヴィンとの結婚を楽しみにしていたから、近いうちにサシャを王都から離れた土地へ嫁がせればいいと思っていたが。どうやらルシィは二人の関係に気づいてしまったらしい)
「そうか、お前は息子とサシャの関係を知らなかったか」