29 王太后グラディス
レーイン王国の女王アデラは、ルシィからの手紙を読み終えてため息をついた。もう何度も読んだ手紙だ。王配のジョフロウは心配そうな顔で見守っている。
「ルシィがヒックスの民となり、ヒックス王国軍の走竜乗りになることを選ぶとはねえ」
「考えようによってはヒックスでよかったではないか。クラリスもいる」
アデラは遠くを眺めるような目つきになった。
「結婚相手を探すのもいいし、二年間他国を見てくるのも将来のためになる、と思っていました。でも、あの性格でこんなに早く結婚相手を決めるとは思わなかった。その上他国の民になる道を選ぶとは。あの子の慈悲深さ、責任感、行動力が、モーリスの治世を支えてくれると思っていたけれど。もうあの子は戻って来ないのね」
ジョフロウがアデラを労わるように彼女の手を優しくぽんぽんと叩いた。
「ルシィが初めて自分の意見を言ってきたんだ。認めてやろう。次は結婚式だな。公爵が親代わりに結婚式を取り仕切ると書いてあるが、実際はクラリスが仕切るのだろうな」
「クラリスなら安心して任せられるわね。ねえあなた、結婚式にはやはり私が行きます。結婚祝いも私から渡したいですし」
「そうか。君はいつも忙しいから、息抜きを兼ねてそれもいいかもしれないよ。留守の間の公務は私に任せなさい」
◇
ヒックス王国では、ルシィとフィリップが今日も走竜に運動をさせていた。
ナタリーは休むことなく連日通ってきていて、今日は初めて一人でウーに乗る。だが、気負っている様子はない。
「私が走竜の手綱を握れる日が、本当に来たのですね。流行り病でもう助からないかもしれないと言われたとき、まだ十歳でした。当時つらかったのは、母が私の枕元で毎日泣くことでした。死にかけて苦しんでいるのは私なのに、私が母を慰める日々でした。正直、途中から勘弁してくれ、私に泣かせてくれと思いましたっけ。ふふ」
「あらまあ」
「でも私はこうして健康になりました。今は生きているだけでありがたいのに、走竜に乗れるなんて。夢のようです。今日はよろしくね、ウー」
「キュウウ」
ウーの返事を待って、ナタリーがひらりと鞍に乗った。初めて飼育舎を訪れた頃に比べると、かなり筋肉がついて動作が滑らかだ。ナタリーは毎日兄の指導を受けて運動をしているそうだ。「走竜乗りを目指すなら、怪我をしないためにも体を鍛えろ」と言われたとか。
今日はウーにはナタリー、シエラにはルシィとフィリップの組み合わせで動いている。
前を歩くウーを見ながら、ルシィが「どう思いますか?」とフィリップを振り返った。
「上手にウーを動かしていますね。体幹がしっかりしてきたのは運動の成果でしょう。ナタリーは最近、剣の訓練も始めたそうですよ。彼女の次兄は軍人で、私の部下でした。彼は剣の腕が立つ男ですから、ナタリーの成長が楽しみです」
「彼女は意志が強そうだし、走竜二頭に三人はちょうどいいかもしれないわね」
「そうですね」
(結婚すれば、いつかルシィ様が妊娠出産で走竜に乗れない日も来るだろう。自分やナタリーが怪我をする可能性もある)
その可能性を見越してフィリップは、(二頭に三人は確かにちょうどいい)と思う。
三人で走竜に運動をさせて餌やりをしてから飼育舎の床を水洗いしていると、第一王子のデニスがやってきた。そして黙って床のブラシがけを始めた。
「殿下、掃除は我々がやります」
「いいんだ、中尉。僕がやりたいんだから」
それならと四人で黙々と掃除をしていると、デニスが「今日、ジョアンナ大叔母様が城に来ているんだ。たぶん、修道院を修復する資金の話だね」と言う。
「修道院も地震の被害を受けましたものね。院長様はお元気でしたか?」
「とても若々しくてお元気そうでした。おばあさまと年が近いらしいけど、生活が違うからかなあ」
そんな会話をしていると、侍女がドアのところから顔だけ出して「あのう、失礼します」と声をかけて来た。飼育舎の中に入るのが恐ろしいらしい。フィリップが「なんでしょう?」と笑顔を向けた。
「王太后様が殿下とステグナン中尉とルシイ姫をお呼びです」
「わかったよ、すぐ行く」
デニスが返事をして、三人は王太后の部屋へと赴いた。
広く豪奢な部屋に通されると、王太后グラディスとジョアンナ院長がソファに座っていた。グラディスはゆったりした服を着て白髪を美しく結い上げている。二人並ぶと顔立ちがよく似ているものの、たしかにジョアンナはかなり若く見える。
「三人とも、座りなさい。話があるわ」
三人が座ると、ジョアンナ院長が「お久しぶりね。地震のときはありがとう。マルグリットを助けてくれたこと、心から感謝しています」と頭を下げた。フィリップが「それが我々の仕事ですので」と微笑んだ。そこから王太后が話を始めた。
「走竜は馬では入れない場所にも入り、民の救助に活躍したそうね。行方不明の修道女に気づいたのも走竜だったと、ジョアンナから聞きました。ルシィ王女は大活躍したそうね。目のくらむような高さから走竜ごと飛び降りたとか?」
「はい」
王太后は「ほほほ」と笑った。
「王女が走竜に乗って災害現場に出向くとはねえ。時代が変わったと思いましたよ。レーインはアデラ女王が戦争で軍を率いる国ですものね。王女が勇ましいのは当然かもしれないわね。レーインの軍隊には女性がいるのでしょう?」
「はい。女性の走竜乗りがおります」
「そしてあなたは、ヒックス王国で初の女性軍人」
「はい」
グラディスはそこでデニスを見た。
「デニス、お前は今も走竜に乗りたいと思っているの?」
「はい、おばあさま」
「危険が全くないとは言えないのでしょう? 中尉、どうなの?」
「油断すれば落下して骨折することはあり得ます」
「そうでしょうねえ。ルシィ姫、あなたは骨折したことがあるの?」
「私はありません。ですが、いつ落下して骨折をするかもしれませんし、打ち所が悪ければ大怪我もするでしょう。それは馬と同じです」
王太后は「ふむ」と考え込み、「王女や中尉の監督付きで乗るという条件でなら、デニスが走竜に乗ることを許しましょう」と微笑んだ。
「本当ですか! ありがとうございます、おばあ様!」
「本当ですよ、デニス。ただ、お前に何かあったら困ります。くれぐれも怪我に注意して、中尉と王女の指示をまじめに聞くように。体も鍛えなければね」
「もちろんです!」
デニスが大喜びして、三人はこれで話が終わったと思ったが続きがあった。
「行方不明になった挙句に大けがを負ったのは、ガウアー侯爵の一人娘だったとか。その子のよくない噂は、私の耳にも入っていたわ。亡くなった先代のガウアー侯爵夫人は、私の大切な友人でした。私が悪い評判を知っていながら何もしなかったら、天の国で文句を言われるわね。ジョアンナの修道院に入れておくより、私がとことん鍛えようと思うのだけど。それでいい? ジョアンナ」
「私はかまいませんが、なかなか手のかかる子ですよ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。体は衰えましたが、口は動きます。私がその子の性根を叩き直しましょう」
「承知しました。よろしくお願いいたします、お姉さま。ガウアー侯爵には私から伝えましょう」
レーインに届いていた王太后の噂はあまりいいものではなかったが、ルシィは(案外親しみやすい人だ)と思いながら聞いていた。
こうして走竜は二頭を四人で乗ることになり、マルグリットは退院後に王太后付きの侍女になることが決まった。
クラリスの主導でルシィとフィリップの結婚の準備は着々と進められている。
忙しい日々は飛ぶように流れ、もうすぐルシィとフィリップの結婚式である。





