21 新しい恋をしなさい
マルグリットは父の剣幕に驚いて渋々頭を下げた。
「申し訳ございませんでした……」
「私にはもう二度と関わらないと、皆さんの前で誓いなさい」
マルグリットはチラッと茶会の参加者たちを見た。
普段はマルグリットの機嫌を損なわないようにしている令嬢たちが全員、素早く視線を逸らせてうつむいた。
「くっ……。なによ! 普段は私のご機嫌取りをしているくせに!」
パァンと乾いた音がした。
ガウアー侯爵が娘の頬を叩いた音だ。生まれて初めて頬を叩かれたショックで、マルグリットの目に涙がゆっくり盛り上がる。
「お父様……」
部屋は静まり返った。
侯爵はマルグリットの言葉に耳を貸さず、ルシィに向かって深々と頭を下げた。
「愚かな娘は僻地の修道院に入れます。娘が王女殿下を煩わせることは、もう二度とありません。どうか、どうかお許しを!」
「修道院? そんな……」
「黙れっ! 王女殿下、どうぞご容赦ください。このとおりでございます」
(宰相は決断が早いのね……)
「謝罪を受け入れます」
「ありがとうございますっ!」
マルグリットは部屋から連れ出されて姿を消した。
フィリップがルシィの肩に手を添えて部屋から出ようとしたが、ルシィはメルヴィンを振り返った。
「メルヴィン、あなたもいらっしゃい」
「はい、ルシィ様」
三人は暗い表情の侯爵に見送られて馬車に乗り込み屋敷を出た。
ルシィの隣にフィリップ、向かい側にメルヴィン。メルヴィンは目を伏せて手を握り締めている。メルヴィンは見ない間に痩せていた。
公爵家に到着すると、早い帰りを心配したクラリスが出てきたものの、ルシィとフィリップに続いてメルヴィンが降りてくるのを見て眉を吊り上げた。
「メルヴィン! なぜお前がここにいるのっ!」
メルヴィンが慌てて頭を下げた。
「クラリス様、申し訳ございません。僕はまた間違えて……」
「なぜ今更ルシィに近づいているのか聞いているのよ!」
「お姉さま、待って。これには事情があるのです」
「公爵夫人、落ち着いてください」
フィリップの太い声で全員が口を閉じた。
四人は応接室へ移動し、クレイグ公爵も呼ばれた。ルシィが淡々とお茶会で起きた事実を報告すると、
話を聞いた公爵が呻いた。
「陛下の面子が丸潰れだ。他から陛下の耳に入る前に、私から報告しなくては」
「あの小娘! やってくれたわね。他国の王女をそこまで愚弄する貴族がいるなんて信じられない。しかも大勢の貴族の前でなんて!」
クラリスは歯ぎしりをしている。
メルヴィンは目を閉じてうなだれ、フィリップは口を引き結んで無表情にメルヴィンを見ている。
公爵が立ち上がった。
「クラリス、私は今から陛下に報告してくるよ」
「わかりました。いってらっしゃいませ」
公爵が出て行くと、クラリスがクルリと振り返ってメルヴィンを睨んだ。
「どこまで愚かなの。もう十八でしょ? 見知らぬ人間にこの国まで来いと言われて、おかしいと思わなかったの?」
「ルシィ様が会いたいとおっしゃっているなら、何を置いても行かねばならないと思いました。それが僕の為すべきことだと……」
「お前が為すべきことは、ルシィを幸せにすることだったの! それができなかったくせに、何を今さら!」
「やめてください。もう十分です。メルヴィンと二人で話をしてもよろしいですか?」
クラリスはジッとルシィを見てからうなずいた。
「中尉を同席させなさい。それが条件。逆恨みしてルシィに何かされたら困るのよ」
「お任せください」
間髪を入れずに答えたフィリップに、クラリスが満足そうにうなずいて部屋を出た。フィリップの前でメルヴィンと会話するのかと、思わずフィリップを見た。フィリップは無表情のままだ。
「ルシィ様の身に危険が及ばない限り、私は壁になっております。私のことはお気になさらずに」
これ以上萎れようがないほど萎れているメルヴィンをルシィがしみじみ眺めた。二十八歳のフィリップを見慣れた目に、十八歳のメルヴィンはとても幼く映る。
(メルヴィンと結婚しようとしていた頃の私は、彼の本当の姿を見ようとしていなかった。本当のメルヴィンは、こんなに子供っぽい男の子だったのに)
「久しぶりね。ずいぶん痩せたみたい。私はあなたを縛り付けました。私だけじゃない。お母様もお父様も、私の幸せだけを願って、あなたの自由を取り上げた。許してくれと言うには、十八年は長すぎたわね。私を好きなだけ憎んで恨んでください。本当にごめんなさい」
「そんなっ! ルシィ様は至らない僕を引っ張り上げようとしてくださいました。それなのに僕は……」
「サシャとお幸せにね」
それを聞いたメルヴィンが、似合わない苦笑を浮かべて首を振る。
「サシャと結婚するのではないの?」
「サシャは謹慎中ですが、近いうちにキリム男爵に嫁ぐことになりました」
「……そう。あなたは?」
「僕は跡継ぎから外されましたが、納得しています」
「私のせ……」
遮るようにフィリップの声が重なった。
「ルシィ様のせいではありません。その方は十分な恩恵と引き換えにルシィ様の婚約者だったのです。なのにあなたを裏切った。ルシィ様が謝る必要はありません」
メルヴィンは下を向いていたが、「そのとおりです」と言ってポタリと涙を落した。
「私が鈍感でなければ、ここまでのことにはならなかったのよ。メルヴィン、マルグリットがあなたを巻き込んだこと、謝ります。ごめんなさい。これは最後の、お別れの握手」
「ルシィ様……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
涙を流しているメルヴィンの手を取り、ルシィはしっかりと握手をした。
久しぶりにメルヴィンに触れても、フィリップに触れたときのような浮き立つ気持ちは生まれない。
十八年間の婚約期間は、ルシィの手の中で静かに過去のものになった。
「帰りの馬車と宿が必要ね。メルヴィンはここで待っていて」
メルヴィンの返事を待たずに部屋を出た。
自分用の部屋のドレッサーから小箱を取り出した。中にはぎっしりと金貨と銀貨が入っている。
ルシィは必要と思われる額より多めに革袋に入れてドアを開けた。
通路にはフィリップが待っていて「話し合いはもういいのですか?」と小声で言う。
「ええ、もういいの。さあ、行きましょう」
スッとフィリップがルシィの手を握った。ルシィの心臓が一瞬トクンと跳ねた。
「ありがとう。私なら大丈夫です」
「俺が触れたかっただけです。参りましょう」
メルヴィンは旅費を受け取り、何度も礼を言って公爵家の馬車で去った。
「私、一人になりたいわ。ここは安全だからもう護衛は大丈夫よ」
「私のことは、置物とでも思ってください」
「では大きな置物さん、誰にも言えなかった話を聞いてくれますか」
「どうぞ」
長椅子に座って、ルシィが淡々と思い出を語る。
「五歳のある日、赤子のメルヴィンに会ったの。『この子がルシィのお婿さんになるんだよ』と言ったのは父だと思う。その言葉に、私はしがみつきました。五歳の私は親に気に入られたくて、メルヴィンが大好きだと何度も両親に伝えました。たった五歳なのにとても浅ましい子供だったの」
「子が親に気に入られたいと思うのは当然です」
「……中尉は何を怒っているのかしら」
「怒ってなど。いや、怒ってますね。あなたが彼に優しすぎたから」
「優しかった? とてもあっさりしていたと思うけど」
フィリップの返事はない。フィリップの心の中では、(あんな幼い愚か者がルシィ様を苦しめていたのか)とやり場のない感情が渦を巻いている。
応接室にクラリスが戻ってきた。
「お姉さま、馬車を出してくださってありがとうございました」
「あんな愚か者でもレーイン王国の民ですからね。途中で何かあったら、寝覚めが悪いもの」
そう言ってクラリスはルシィの頬を撫でた。
「マルグリットは母親が長患いの末に亡くなったのよ。彼女は元気な母親を知らないの。だからみんなが彼女を不憫がって甘やかしたと聞いているわ。父親は猫を被っている娘を見抜けなかった。宰相としては優秀だけど、親としては失格よ」
「彼女には私が中尉を横取りしたみたいに見えるのでしょうね。そして彼女には諫める人がいなかった。私は手厳しいお姉さまに感謝しなくては」
クラリスは「わかればよろしい」と優しい顔で笑った。
「第三王女で下に王子がいるということはね、あなたにはかなりの自由があるということよ。私はずっと、自由なあなたがうらやましかった」
「お姉さまが私をうらやむなんて、まさか」
「本当よ。女王になれないと決まった時からずっと、私はあなたをうらやんでいた。神様は不公平なことが大好きな方なのだと自分に言い聞かせて生きてきたわ。ルシィ、新しい恋をしなさい。今度はもっと大人の男性とね」





