2 思い出の森で
翌日、ルシィは城の下に広がる森に出かけた。お気に入りの場所で滅入っている気持ちを変えたかった。
森の中の小さな広場は、メルヴィンと二人で何度も出かけた思い出の場所だ。
もう少しでその広場というところで、必死に何かを訴える若い女性の声がした。
「メルヴィン様、本当のお気持ちを教えてください!」
「何も聞くな。僕は生まれた時からルシィ様の婚約者だ」
「それはわかっております。でも、お二人はどう見ても姉と弟ではありませんか。メルヴィン様、お願いです。私と逃げましょう。二人で力を合わせて……」
「それはできない。そんなことをすれば、僕と君の家族が罰を受ける。父や母、妹たちだって……」
「ううっ」
「サシャ、泣くな。僕にはどうしようもないことなんだ」
木の陰からそっと覗くと、小柄で華奢なサシャが顔を覆って泣いている。そしてメルヴィンがその細い体を抱きしめていた。
ルシィはそっとその場を離れた。その顔は力なく微笑んでいる。
◇
森からまっすぐ城に帰り、ルシィは父と母に婚約を解消したいと告げた。
「待て、ルシィ。今なんと? 婚約を解消すると言ったように聞こえたが」
「はい。そう申し上げました」
「メルヴィンがやっと成人したのだぞ?」
ルシィの父で王配のジョフロウは慌てていて、その隣では母であり女王のアデラが険しい顔でルシィを見つめている。
「メルヴィンが成人したからです。ここで婚約を解消せずに結婚したら、私は一生後悔します」
「だがルシィ、お前はずっとそのつもりだったろう。メルヴィンが生まれた時から、あんなに仲良くしていたではないか」
「ええ。仲良くしてきました。まるで姉と弟のように。姉と弟は夫婦になれないのです、お父様」
いつもは温厚な父、ジョフロウが顔を赤くして立ち上がった。
「自分がどれだけ勝手なことを言っているか、わかっているのか!」
「わかっております。申し訳ございません」
「謝って済む話ではない!」
「あなた、落ち着いてください。ルシィ、何か理由があるのでしょう? ついこの前まで婚礼の儀式で着るドレスを嬉しそうに眺めていたじゃないの」
ルシィは下を向いたまま、無言だ。
「急にそんなわがままを言えば、お前が罰を受けることになるのよ?」
「罰を受けます。メルヴィンは悪くありませんので」
「そう……。決意は固いのね。わかったわ。婚約の解消を認めます。その代わり、お前には罰を与えます」
「なっ! 君まで何を言い出すんだ!」
「メルヴィンは重鎮の息子です。こちらから願った婚約をこちらから解消する以上、ルシィに罰を与えないままではルーデン侯爵家への申し訳が立ちません。婚約の解消を認める代わりに明日、お前は国を出なさい。何があっても二年間は戻らないように」
見つめ合う親子。静まり返る室内。最初に口を開いたのはルシィだ。
「わかりました。今夜の晩餐会はいかがいたしましょうか」
「客人のために第三王女の役目を果たしなさい」
「はい。ではこれからリュートに別れの挨拶してきます。わがままを聞き入れて下さり、ありがとうございます」
去っていくルシィを見つめるアデラ。アデラの肩を抱くジョフロウ。
本当のことを言えば、夫婦はルシィの話の理由に見当がついていた。そしていつかこうなるような気がしていた。
部屋を出たルシィは、泣くものかと唇を強く噛んだ。
あの言葉を聞くまではメルヴィンとの婚姻を楽しみにしていた。今はギクシャクしていても、自分の未来はメルヴィンと共にあると思っていた。いや、思うようにしていた。
(あんな言葉を聞いてしまった以上、もうメルヴィンと元の関係に戻れない)
走竜の飼育舎に入ると、多くの走竜が窓から顔を突き出してルシィを見た。大きな口、鋭い牙。その中でもひときわ体の大きな走竜リュートが「カカカッ」と喜びの声を上げた。
「リュート、海まで行きましょうか」
そう言いながら鐙と手綱を装着した。リュートは太く長い尾を揺らして喜んでいる。
リュートは美しい走竜だ。腹以外の皮膚が青く、背骨の上は一段と濃い青。白い斑点が全身に散っている。腹はうっすら青みを帯びた白。走竜の体は、獲物を狩ることに特化した機能美の塊だ。
ルシィがひらりとリュートにまたがり、足で合図を送る。
リュートは太い脚と重い体に似合わず、タッタッタッと軽快に飼育舎の中を走った。外に出るとリュートは一気に加速した。やがてルシィを乗せたリュートは、切り立った崖の縁に立った。
レーイン王国の別名は走竜国。その王城はテーブルのような高い台地の上にある。
台地の周囲はほぼ垂直な崖だ。街は崖下にあり、街の外側には森が広がっている。
崖には階段が刻まれているが、リュートは階段を使わない。崖のところどころに顔を出している岩棚に足をかけながら飛び降りていく。はたから見れば落下しているようにしか見えない荒業だ。
あっという間に崖を下って街道を進んでいると、道を歩く人や馬が素早く道を譲る。
リュートはかなりの速度だ。すぐにキラキラと陽光を反射する海が見えてきた。リュートは海岸を走り、大きな岩に飛び乗り、飛び降りる。
途中までは自分たちが見られていることに気づかなかったが、走っていたリュートがピタリと止まって風の匂いを嗅ぎ始めた。
ルシィが見回すと、大きな岩の上に髪が長く背の高い男がこちらを見ていた。リュートが身構えているのを感じて、ルシィは優しく首を叩いた。走竜の皮膚は、ザラリとしていて硬い。
「大丈夫よ、リュート。見慣れない人だけど、危険ではなさそう」
岩の上にいた男がヒョイと砂地に飛び降りた。背中の中ほどまである長い髪は濃い灰色で、動きに合わせてサラサラと肩から流れ落ちている。男はリュートを恐れる様子もなく近寄ってきた。
(こんなに長い髪の男性、初めて見た)
「やあ、お嬢さん、見事な腕前だね」
「子供のころから走竜に乗っているので、扱いには慣れているの」
「俺はフィリップ・ステグナン。君は?」
そう言ってこちらを見上げる瞳は青緑色だ。(きれいな瞳。視力が良さそう)と、つい走竜乗りの視点で観察してしまう。
リュートがじれったそうに足踏みをした。
「私の名前はルシィ。ごめんなさい、ステグナン様。この子とは今日でお別れなの。だから、たくさん走らせたくて。失礼しますね」
ルシィが軽く頭を下げ、次の瞬間には走り出した。フィリップは走竜とルシィの後ろ姿を見送った。
「あの人が第三王女のルシィ姫か。たしかもうすぐ結婚だったな」
「クカカカッ」
人間ではない声にフィリップが素早く振り返ると、走竜の一団がいた。その数は十数頭。乗り手には女性もいる。全員が軍服を着ている。砂浜ゆえに、彼らが近づいてくる足音は風と波の音でかき消されて聞こえなかった。
フィリップは(これが戦場なら、俺はもう死んでいたな)と思う。
「この浜辺は走竜の運動場を兼ねております。散歩はあの松の木の向こう側でお願いします」
「そうでしたか。気づかずに立ち入って申し訳なかった」
フィリップは街道を歩き、城を目指した。
かなり歩いて城の下に着き、長い階段を上り、その途中で頂上を見上げた。
はるか上まで九十九折りの階段が続いている。
「城は切り立った崖の上だし走竜はうじゃうじゃいる。まさに鉄壁の守りだな」
フィリップ・ステグナンは東の隣国、ヒックス王国軍の中尉だ。
ヒックスの軍人は通常、馬に乗る。だが数年前に一頭の走竜をレーイン王国から買い入れた。
去年ヒックスの国王が亡くなり、王子が即位した。その新国王が希望して、もう一頭走竜を買い足すことになった。
フィリップがレーイン王国まで走竜を買い付けに来たのは、彼がヒックス王国でただ一人の走竜乗りだからである。
今ヒックス王国にいる走竜は、「数いる走竜の中でも気立てがよくて躾も完了している」と言われていた。だが乗りこなせたのはフィリップだけだ。
だから走竜を買い足すと国王に言われたときは、「もう一頭は誰が乗るのでしょう」と国王に質問した。国王には「フィリップが次の乗り手を選べ。そしてお前が乗り方を教えてやれ」と言われてしまった。
「気立てのいい走竜が本当にいるのか怪しいと思っていたが、ルシィ姫の乗りこなしている様子を見たら嘘ではなかったな」
フィリップはやっと階段を上り終わり、賓客用の部屋に入った。
「さて、今夜は晩餐会だ」