17 休憩をいただきました
男性にこんなことを言われたのは生まれて初めてで、ルシィは(今、答えるべき正解はなに?)と考えるが頭が働かない。
だがフィリップは考える暇を与えない。ルシィの顔を覗き込んできた。
「俺に全く可能性がないなら、今後は一切こんなことを言いません。でも、ほんの少しでも可能性があるなら、俺をそういう目で見てもらえませんか」
「そういう目……」
「俺を男として見てもらえませんか、という意味です」
(今? 今すぐ返事をするの?)
フィリップがルシィの手を取った。大きくて剣ダコができている手に、ルシィの手がすっぽりと包まれた。
「俺に触れられるのは不快ですか?」
急いで首を振った。不快ではない。むしろ安心する。
すると「これは?」と言いつつフィリップがルシィの左頬に手のひらを当てた。
「気持ち悪いですか?」と聞かれてまた首を振った。「じゃあこれは?」と言ってフィリップがルシィの両頬に手を当てて顔を見ている。
(これって?)と固まっていると、飼育舎の外からバタバタという足音と「中尉! 中尉! 公爵様がお呼びです!」という若い軍人の声。スッとフィリップの手が離され、ルシィの頬にはフィリップの手の温もりだけが残った。
若い軍人がドアを開けて駆け込んできた。
「中尉! 来賓室で公爵様がお呼びです」
「わかった。今行く」
ぼんやりしているルシィの耳元で「また後で」と小声でささやき、フィリップは出て行った。
「カカカッ」というシエラの声にルシィが我に返ると、二匹の走竜がルシィをジッと見ている。
「見てた? あれって、からかわれているんじゃないわよね?」
「クカカ」
偶然だろうが、シエラとウーが同時に首を傾げた。「さあ、どうですかねえ」と言っているみたいで、思わず笑ってしまう。
「私、中尉に翻弄されているわね。翻弄されているのに、ちっとも嫌じゃないの」
来賓室に呼ばれたフィリップは、座ったまま自分に視線を向けているクレイグ・ヒックス公爵を見て(これはかなりお怒り……なのか?)と思った。
クレイグは甥である国王と顔立ちがよく似ている。背が高く、茶色のうねる髪、茶色の瞳。
国王との違いは、国王が堂々たる体格なのに比べて、クレイグは若干華奢でスラリとしている。かつては散々浮名を流していたが、今は違う。夜会などに夫婦で参加しても、クラリスを手元から離さないのは有名だ。
「フィリップ・ステグナンであります」
公爵の正面に立ち、姿勢を正した。
「ルシィ姫が世話になっているそうだね」
「ルシィ姫には走竜のことでご指導いただき、感謝しております」
「昨夜、義妹はどこにいたのかな?」
『義妹』と言う言葉をあえて使うところに、「この私の妹でもあるのだぞ。わかってるのか?」という公爵の圧が伝わってくる。
フィリップは(昨夜どうしていたか、口裏を合わせていなかったな)と思ったが、ここを言い訳で切り抜けるのは悪手だと判断した。
「昨夜は街道沿いの森で、自分と二人で野営をしていらっしゃいました」
「二人で野営? 最初からその予定だったのか?」
「いえ。日帰りの予定でした」
「昨日何があったのか私にもわかるように説明してくれ。ルシィ姫は大切な預かりものだ。妻はルシィ姫をとても大切にしている。私が知らないところで何かあっては困るんだよ」
フィリップは走竜に乗ってシプル川へ行くつもりだったところから説明を始めた。
ウラル川で村人が行方不明になった話をしたこと。
ルシィが「走竜二頭なら大ワニを倒せる。村人を助けたい」と言ったこと。
自分が同意して同行させたこと。村人を見つけたが、すでに大ワニと他のワニたちが村人の周囲に貼りついていたこと。
二頭の走竜が大ワニを倒したこと。走竜が怪我を負ったためにゆっくり歩いて帰ることになり、野営になったこと。
話し終わった時点で公爵は手を額に当てて目を閉じている。
「申し訳ございません」と謝ったが公爵は無言だ。すこしして公爵が顔を上げてフィリップを見た。
「君、実家はステグナン伯爵家だね。嫡男だったな」
「嫡男ですが、家を継ぐのは弟です。相続を放棄して軍人になりました」
「ルシィがどんな理由でこの国に来たか知っているかい?」
「はい。レーイン王国を訪問した際に、たまたまルシィ姫と公爵夫人の会話を聞いてしまいました。女王陛下にこの国への遊学を勧めたのは自分です」
「なぜこの国を勧めた?」
(なぜ? あの時は懐が深い姫だと思ったし、気の毒だなと思っただけだったが……)
「中尉はルシィ姫を気に入っているのかい?」
「……それは」
まだルシィの返事を貰っていない。勝手に返事をしてルシィに迷惑をかけたくない。
フィリップが言い淀んでいるとそこからは公爵の声が柔らかくなった。
「だいたいわかった。君は陛下に走竜乗りを命じられて、出世の本流から外れただろう。前から気の毒に思っていたんだ。確かに君は走竜乗りに向いていたようだが、あのまま本流にいれば順調に出世していただろうからね」
「走竜乗りは気に入っております」
「レーイン王国の女王陛下から私に丁寧な手紙が送られている。『ステグナン中尉がルシィを見守ると言ってくれた』とあったが、そうなのかい?」
「はい。そのようにお約束いたしました」
フィリップは(この話はどこに着地するんだ?)とじんわり緊張してきた。
「君のことを調べたんだが、君は女性の噂が全くないね。縁談があっても全部断っている。そんな君にふさわしい仕事を引き受けてほしいんだ」
(ふさわしい仕事? 軍人の俺に?)
「正式な任務としてルシィ姫の見守り役を引き受けてくれ。走竜の世話をしているとき以外も、姫に同行して彼女を守ってくれ。変な虫がつかないように気をつけてほしいんだ。女性の噂が全くない君にふさわしい役目だろう? 彼女は婚約者以外の男と親しくしたことがないから、しっかり頼む。この依頼は私から陛下と軍に伝えておく」
「……かしこまりました」
来賓室から出たフィリップは(なんとまあ、嬉しくも厄介な仕事を命じられたのか)とため息をついて天井を見上げた。そして「まさに俺がその虫なんだが」と上を向いたままつぶやいた。
(あれは俺を警戒して釘を刺したのか? 雰囲気はずいぶん柔らかかったが。……王族は感情が読めないな)
フィリップが飼育舎に戻ると、飼育舎にはまだルシィがいた。ウーの隣に椅子を運んで座り、何か話しかけている。フィリップが入ると、振り返って笑顔になった。
(中身は気丈なのに笑顔はとても可憐で愛らしい)
「おかえりなさい、中尉。公爵様がなんのご用だったか聞いてもいいかしら」
「本日只今より、私はルシィ様の見守り役を仰せつかりました」
「見守り役って……なに?」
「走竜のご指導時以外もルシィ様を見守るようにとのご指示でした。変な虫がつかないようにしてほしいということです」
「変な虫って、二十三歳の私に? 公爵様は過保護ね」
フィリップはルシィの隣に立ち、声を小さくして「俺は嬉しいですが」とつぶやいた。
(うわぁ)
ルシィは中尉を見上げる勇気が出ず、ウーを見たまま動かない。フィリップは椅子を持ってきてルシィの隣に座った。
「そういうことですので、ルシィ様が公爵家を出る時は私が付き添います。どこへでもお供しますのでよろしくお願いします。お出かけの際は事前にご連絡をお願いします」
「俺、と言わないのね」
「今は職務中ですので。先ほどは……少しだけ休憩をいただきました。『俺』の方がお好みでしたら申し訳ありませんが、職務中は『私』を使います。公私はきっちり分ける主義ですので」
すました顔で開き直ったことを言ってのける。
「ふふっ。そうですか。ではたまに休憩してください」
「お許しいただき、ありがとうございます」
そこでたまらずルシィが笑い出した。フィリップも「ふっ」と笑う。
「公爵様のご命令なら仕方ないわね。手間をかけます。これからよろしくお願いしますね、中尉」
「かしこまりました。私は詰め所に戻ります。ルシィ様の見守り役を命じられたと、上官に報告しなくては」
立ち上がったフィリップを見上げてルシィが「いってらっしゃ……」と言っている途中でフィリップが腰をかがめた。
(ん?)と思っていると唇が頬に触れた。
唇が触れたのは一瞬。すぐに離れたが、ルシィは「いってらっしゃい」の笑顔のまま固まっている。
フィリップは「さっきの続きです。キスの分は休憩をいただきました」と真顔で言うと、髪をなびかせながら飼育舎を出て行った。