16 俺
ルシィの声に、大尉がどうにか興奮を鎮めた。
「申し遅れました。王国軍のウォルター・アッカーソン大尉であります。姫様、お召し物が血まみれですが、お怪我はないのですね?」
「これは走竜の血です。私はかすり傷ひとつありません。大尉、もし責任問題になったら、『中尉には責任がない』と証言します。文書も書きましょう。大人の私が自分の判断でしたことです。どうか中尉を責めないでください」
「しかし……」
「中尉が軍の決定より早く動いたのは、私がわがままを言ったせいです」
「それだけではございません。中尉が姫様を危険な川にお連れしたことも問題なのです」
「では、私とウーはワニ退治に参加せず、離れた場所で中尉の帰りを待っていた、ということにしてくれませんか。国同士のもめ事になるのが心配なら、私が母国の女王陛下に手紙を書きます。事情を説明して、ヒックス王国にも軍にも責任がない、全ては私のわがままのせいだと書いてもらいましょう」
ルシィは必死に大尉を説得した。
正直なところ、大尉が心配しているのは軍と自分が責任を問われることだった。
だからわざわざ隣国の女王にこの件を伝えられて話を大きくされたくない。
大尉が迷っていると、ルシィが頭を下げた。
「偶然村人を見つけた中尉が助けただけで、私は参加していない。危ないことは何もなかった。それで全てが丸く収まります。そして今後はこのようなことがないよう、自重します。ですから大尉、このとおりです」
再び頭を下げたルシィの提案に対して、ウォルター大尉に不満はない。
「承知しました。ではそういうことにいたしましょう。今回だけですよ」
大尉はワニの死骸と村人の確認役を数名送り出すと、馬の向きを城の方へと変えた。
一行はシエラに合わせてゆっくり進み、無事に城に到着して解散した。
ウーとシエラは飼育舎に入るとうずくまって目を閉じた。ルシィは村長に渡された壺を手にして、シエラの傷口にもう一度青甘菜のペーストを塗り直した。
「無断で外泊したことを姉に謝罪してきます。今日中にもう一度この子たちの様子を見に来ますね」
「私が走竜を見守りますので、ルシィ様はゆっくりなさってください。今日はありがとうございました。ルシィ様とウーがいなかったら、村人たちは水も飲めずに三日も枝にしがみついているところでした」
「そうね……」
「それに、シエラ一頭ではあの大ワニを倒すのは厳しかったかと。軍が出動してあの大ワニをどうにかできたかと言えば、まず無理な話です。退治できたとしても、軍人に死傷者が出たでしょう」
「私もそう思いました。今回は二頭を連れていってよかったと思っています」
「功労者はルシィ様なのに公にできず、申し訳ありません」
「功労者は走竜たちです。それに、私の手柄などどうでもいいの。では、私はそろそろ帰ります」
笑顔で去っていくルシィを見送り、フィリップは走竜の近くに戻った。
「ありがとう。お前たちはよくやってくれた」
「カカカ」「クカカ」
ウーとシエラは目を閉じたまま鳴いた。
公爵家に帰ったルシィを出迎えたのは怒れるクラリスだ。
クラリスは血まみれの服装で戻ったルシィを見て絶句し、それから悲鳴のような声を出した。
「その血はどうしたのっ!? 怪我をしたのっ!?」
「私は無傷です。これはシエラの血で、シエラも命に別状はありません」
クラリスは「はあああ。そう。ルシィ、こちらに来なさい」と言って自分の部屋へと向かう。ルシィは黙って後ろをついて歩き、椅子に座った。
「私がどれほど心配したかわかる? あなたが帰ってこないから城に問い合わせたら、走竜で川に向かったと言われたわ。だけど、そのまま帰ってこないなんて! 夜中に捜索隊を依頼しようか悩んだわよ。聞けば軍もあなたたちが帰ってこないから出動しようかという騒ぎになっていたし!」
「申し訳ありません」
「自分の立場がわかっているの? あなたになにかあれば国同士の問題になるのよ?」
「わかっています」
「じゃあ、なぜそんな迂闊な行動をしたの!」
黙っているルシィにクラリスが「なんとか言いなさい!」と鋭い声を出した。
「八人の民がワニに襲われているかもしれないと聞きました。急げば救えるかもしれない八人の命は、責任問題より大切だと思いました」
「ワニのいる川に行ったの? 走竜二頭だけで? ワニ退治に二頭じゃ足りないでしょう!」
「申し訳ありません」
クラリスが立ち上がり、ルシィに近づいてルシィを抱きしめた。
「顔も知らない村人のために、自分を危険に晒すなんて。夜中に捜索を依頼して軍を動かせば、あなたの評判にとんでもない傷がつく。だから捜索を依頼すべきか様子を見るべきか、徹夜で迷い続けたわよ。公爵様には『走竜の運動に出かけて遅くなると連絡があった』なんてお粗末な嘘をついたわ」
「本当に申し訳ありません」
「公爵様はおそらく嘘だと気づいているでしょうけれど、『わかったよ』とおっしゃったの。だから大ごとにはなっていないわ」
「嘘をつかせてしまってごめんなさい」
(見たこともないほどの大ワニだったことを伝えるのはやめておこう。余計なことを言えば火に油を注いでしまう)
「昨夜は誰とどこにいたの?」
「シエラがゆっくりしか歩けなくて、中尉と街道脇で野営しました」
「野営……。嘘じゃなさそうね。わかったわ。湯あみをしなさい。酷い有様よ」
「はい。失礼します」
自分用の客間に戻り、鏡を見た。服は血だらけ、髪が乱れ、顔はあちこち泥で汚れている。目の下は寝不足でハッキリと黒ずんでいた。「確かに酷い有様ね」と苦笑して、用意された湯に浸かった。
湯船で最初に思い出したのは、夜の川辺でフィリップが尻もちをついた時のこと。
(あの時、私の顔と中尉の顔が近かった)
まるで自分からキスをしに行ったような恰好だったのを思い出し、「あぁぁ、私は何てことを」と呻いた。
(メルヴィンとはキスをしたことがない。今思えば十八歳のメルヴィンが全く私に触れようとしなかったのは、不自然だったのではないか。いや……姉みたいな女とキスしたくないのは当然か……。ううん、メルヴィンには嫌悪感さえあったかも。国のためという大義名分もなければ愛もない結婚になるところだった)
婚約していた十八年間が無意味だったとは思いたくない。
だが今日はすんなりと(あれでよかったのだ。婚約解消は間違っていない)と思える。
メルヴィンの顔を思い出せば惨めで情けないのは相変わらずだが、「私は愛されていなかった」という記憶の刃が胸を切り裂かない。
(中尉のおかげだわ。でも中尉の言葉は私の勘違いかもしれないし、勘違いじゃないとしても、どの程度の気持ちかわからない。一人で盛り上がってはダメ。相手が断れずに仕方なく交際するような事態はもう、二度と、絶対に、繰り返してはだめ)
湯あみを終えて髪を拭き、まだ湿っている髪は三つ編みにしてまとめ、城に向かった。
クラリスは「またお城に行くの?」と呆れながら見送ってくれた。
飼育舎に入ると二匹の走竜は眠っていたが首を持ち上げてルシィを見た。シエラの目に元気がない。
「痛いのね。今、青甘菜を塗り直してあげる。ちょっと痛むかもしれないけど、我慢してね」
「カカッ」
すり潰した青甘菜は明日にはもう使えない。ペーストが腐っていれば害になる。乾いて固まっている青甘菜のペーストをそっと剥がし、新しいものを塗った。
「ルシィ様」
「あ、中尉。あれから大尉に叱られたの?」
「少しだけ。大尉はルシィ様の提案を受け入れた報告を上げてくれました。救出は偶然のことになっています。ルシィ様は参加せず、離れた場所で待っていたという内容です」
「そう。よかった。今度、大尉にお礼を言わなくては」
ルシィの隣にフィリップがしゃがんだ。フィリップの体温が伝わってきそうな近さだ。
ルシィの耳に、「お姫様に相手にされなくても、当たって砕けるところまではやってみるさ」というフィリップの声が甦った。
急に緊張してしまって、フィリップの顔を見られない。
だが今、フィリップの視線が自分に向けられているのは痛いほど感じている。
シエラの傷口に青甘菜を塗りながら、なるべくさりげない声を出した。
「なにかしら?」
「俺にしませんか。俺はルシィ様以外の女性を好きになりませんし、ルシィ様を笑顔にする自信があります」
「え……?」
唐突に放たれたのは駆け引きのかけらもない言葉だ。
あまりに率直な言葉に驚いて言葉が出ない。フィリップが俺と言うのも初めて聞いた。
飄々としている普段とは違う真剣な表情。
(本気……みたい)とルシィは頭が真っ白になった。