12 氷の指
「四十五点? 厳しいわ。人生で初めて強気な発言をしたのに」
「他の貴族に聞こえないようにすべきだったわ。私くらい強ければ周囲の人に聞かれてもいいけれど、あなたは来たばかりで応援してくれる人がいないでしょ? でも彼女には取り巻きがいる」
(海岸で一緒だった男性たちのことだろうか)
「マルグリットは中尉に関わる女性がいると、日頃からあんな態度なの。評判が悪い子だから、今後はあなたのことを応援する人も出てくると思うわ」
「応援だなんて、そんな大げさなことは望んでいません」
「そうなの? 中尉はあの見た目だもの、中尉と関わる限り今後もマルグリットを筆頭に大勢の令嬢に妬まれるのは覚悟しなさい。ま、マルグリットには一度ガツンと言ってやろうと思っていたから、いい機会だったわ」
そう言ってクラリスは緑色のブドウを口に入れた。
不慣れなことをしたルシィは手が震えている上に膝にも力が入らない。クラリスが目ざとく気づいてルシィの肩を抱いた。
「走竜を馬鹿にされても黙って唇を噛むだけかと思っていたけれど、よく頑張った。今夜のあなたはレーイン王国の代表だもの、無礼なことを言われて我慢するのは美徳じゃない。よく言えました。やっぱり五十点にしてあげる」
「後味はよくありませんが、あれでよしとします。ちょっと夜風に当たってきますね」
断りを入れてから目立たない程度の早足で会場を出た。フィリップがさりげなく後ろをついてくる。
ベランダに出て深呼吸すると、フィリップが顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「人前で相手を言い負かすのは後味が悪いものなのね。ああいうことは私の性格には合わないみたい」
「そのようですね。お顔の色が悪い。ご気分は?」
「大丈夫。でもね、情けないことに緊張でこんなだわ」
ルシィがフィリップの手の甲にそっと指先で触れた。大昔は使われていたという夜会用の長い手袋は、今はもう使われていない。
指先が氷のように冷たい。驚いたフィリップが素早くルシィの手を両手で包むと、ルシィがピクリと動いた。
大きくてゴツゴツした男性の手で自分の手を優しく包まれると、安心するのと同時に緊張する。
父以外の男性にこんなふうに手を包まれたのは初めてのことだ。その父親だって、手を包んでくれたのはルシィがごく幼いときだったような。
「本当に不慣れなことをなさったんですね」
「もう彼女のことは忘れます。覚悟の上だけど、マルグリット嬢は私にかなり腹を立てているでしょう。今後は距離を置くわ」
「それこそ気にする必要はありません。彼女は甘やかされ過ぎですし、親の権力を振り回しすぎなのです。苦労している人は少なくない」
「彼女はあなたのこと、大好きなのね」
返事はなく、フィリップは苦い顔をしているだけ。
ルシィは(これは……彼女のことで相当苦労している顔だわ)と同情した。
中尉は伯爵家の長男だと聞いている。マルグリットは侯爵家のご令嬢。しかも宰相の娘では、冷たくあしらうことができないのは想像がつく。
ずっと手を包まれていることが落ち着かず、ルシィはそっとフィリップの手の中から自分の手を引き抜いた。
「大丈夫。私はあなたが思っているほど弱虫じゃないわ」
「弱虫と言うより、優しすぎるのでしょうね」
そこへデニスが近づいてきた。白を基調にして金の縫い取りがあるジャケットとズボンを着て、第一王子らしいきらびやかな服装だ。
「中尉、さっき大尉が捜していたよ」
「ありがとうございます。すぐに参ります。殿下、ルシィ様をお願いしてもよろしいでしょうか」
「任せて!」
デニスは去っていくフィリップを見送っていたが、「先ほどのやり取り、見ていました」とぽつりと漏らした。
「見苦しいものお見せしました」
「そんなことはありません。凛々しかったです。噂好きな侍女の話ですが、中尉は彼女のことで苦労しているそうです。中尉との結婚を望んだマルグリット嬢が大騒ぎして、父親を動かしたとか。中尉がやんわり断り続けていたら、しまいには宰相がステグナン伯爵に『うちの娘のどこが気に入らないのか』と詰め寄ったそうです」
デニスは「侍女たちの話は全部伝聞だから、どこまで真実かわからないけど。でも、将来国王になる以上、貴族たちの噂を知っていて損はないと思って聞いているんです」と、少年ながら侮れないことを言う。
「親の力を使って無理やり夫婦になったところで、愛されるはずもないのに」
「え?」
「殿下は幸せな結婚ができるといいですね」
「やめて! なんだか不幸になるのが決まっているみたいな言い方です!」
「あっ! 失礼しました」
(でも、あんなふうになりふり構わず貪欲に行動する人のほうが、欲しいものを手に入れられるのかも。でもそれは私には無理だわ)
「殿下、明日は走竜たちとまた違う場所に行ってみたいのです。私がいる間に、殿下には走竜のことを詳しく知っていただけたら嬉しいのです。ご迷惑じゃなければですが」
「迷惑だなんて! ぜひ連れていってください。場所はどこがいいのかなあ。中尉に決めてもらいましょうか」
「はい。そういえば、ヒックスではお若い方も夜会に参加できるのですね」
「顔を出すだけならね。だから僕はそろそろ退場する時間なんです。残念だなあ。ルシィ姫ともっとおしゃべりしたいのに」
屈託のない態度のデニスとは楽に話ができる。弟のモーリスとしゃべるような気軽さがあった。
「ルシィ姫、退場前に僕と踊っていただけますか?」
「ぜひ。よろしくお願いします」
デニスは身長がルシィとほぼ同じだ。ダンスが上手くてとても踊りやすい。
踊りながらデニスが話してくれたところによると、デニスの侍女は中年の既婚女性ばかりなのだとか。
「母上が僕の侍女を選んだのですが、全員母上と同年代か、それ以上の年齢で……。なんだかたくさんの母親に囲まれているような生活です。だからルシィ姫とおしゃべりするのは新鮮で楽しいです!」
「私もです。母国の弟を思い出してしまいました」
「弟? つまんないなあ。僕はあと五年で成人します。でもその頃にはルシィ様はこの国にいないのですよね。残念だ。成人してから二人でデートしたいのに」
「殿下ったら」
ルシィは(五年後には私も五つ歳が増えていますよ)と心の中で苦笑しながら話を聞いている。
やがてフィリップが戻ってきたが、顔が険しい。
「中尉、何かありましたか?」
「ええ、軍からちょっとよくない情報が入りまして。ですが、今夜は楽しく過ごしましょう」
「中尉、僕はもう退場する時間だ。残念だよ」
「五年後には好きなだけ夜会に参加できますよ」
「そのときにはルシィ姫と踊れないじゃないか。中尉が羨ましいよ」
苦笑するルシィとフィリップに見送られ、デニスが去っていく。
「殿下に気に入られましたね」
「ありがたいことだわ。中尉、明日は遠出してウーたちをたっぷり運動させませんか?」
「いいですね。目的地のご希望はありますか」
「この国の大きな川を眺めたいのですが」
「川ですか。ではシプル川に参りましょう。昼食も出先で食べられるよう、手配しておきます」
「ピクニックみたいね。楽しみだわ」