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1 婚約者メルヴィン・ルーデン

 ルシィは急ぎに急いでメルヴィン・ルーデンの屋敷にやってきた。

 約束もしていないし先触れも出していない。会える時間も限られている。

 急いで出てきたから淡い茶色の髪は簡単なハーフアップだが、服は肌の色が映えるベージュを選んだし、ピアスは瞳の緑色と同じ翡翠ひすいを選んだ。

 メルヴィンに会いたくて公務の間に駆け付けたのだが、出迎えた婚約者は戸惑った顔をしている。


「ルシィ……急にどうしたの?」

「最近会えていなかったから、仕事をやりくりして駆け付けたの。先触れも出さずに来てしまったけど、予定があった?」

「いや……。忙しいのに来てくれてありがとう。今日は馬で来たんだね」

「だって、メルヴィンはリュートを怖がるじゃない」

「違うよ。リュートが僕を嫌っているんだ」


 ルシィは強がるメルヴィンを微笑ましく眺めた。

 メルヴィンは半年前に成人した十八歳で、ルシィの五歳年下だ。温厚な性格も、まだ線の細さが残っている体格も、金の髪に青い瞳もすべてが好ましいと思う。

 

 走竜のリュートはメルヴィンを嫌っているのではない。率直に言えば、リュートは自分を怖がっているメルヴィンを甘く見ているのだ。だがもちろん、そんなことをメルヴィンに言うつもりはない。

 

 走竜のリュートは二足歩行の肉食の動物だ。大きく裂けた口、鋭い歯、強大なあご、太く逞しい後ろ足、武器にもなる長い尻尾。

 世界中で唯一、このレーイン王国だけが走竜を繁殖させ、飼い慣らし、乗り物として使っている。起伏の激しい土地では、馬よりもよほど便利だ。


「一緒に海岸まで散歩しない?」

「うん、行こうか。ただ……今日はサシャが遊びに来るんだ。庭の花を見たいらしくて。サシャも一緒でいいかな」

「もうこちらに向かっているの?」


 声を出さずにコクリとうなずくメルヴィン。華やいでいたルシィの気持ちが急速にしぼんでいく。

 ルシィはサシャが苦手だ。サシャはメルヴィンと同じ十八歳。怖がりで非力で華奢な、貴族令嬢の見本みたいな娘。そしてメルヴィンの幼なじみだ。


 ルシィはこの国の第三王女で、十五歳から忙しく公務をこなしている。二人の姉が嫁ぎ、姉たちの仕事を引き継いだ。

 ルシィが公務を始めた頃のメルヴィンは十歳で、急にルシィと会えなくなったことを寂しがった。当時のメルヴィンはルシィに会うと「僕のことを嫌いになったの?」と不安そうに尋ねる少年だった。


 そんなメルヴィンもいつしか同年代の令嬢令息の集まりに参加するようになり、気がついたら頻繁に「サシャ」という名前が話に出てくるようになった。


 この国の女王である母アデラにサシャのことを言えば大ごとになるのはわかっていた。

 だからサシャのこともメルヴィンとの距離が少しずつ開いていることも、何も言えずにいる。

 五歳年上の自分がメルヴィンを責めて「幼なじみにも嫉妬する年上の女」と嫌悪されるのは絶対に避けたかった。


 そうこうしているうちにメルヴィンはルシィと手を繋ごうとしなくなり、挨拶のハグも極力身体が触れ合わないような奇妙なものになった。


(素っ気ないのはきっとそういう年頃のせい。今だけよ。そのうち私の方を向いてくれるはず)


 そう自分に言い聞かせると逆に惨めになった。

 婚約していることもメルヴィンが生まれた時からの時間も、メルヴィンの心を繋ぎ止められていない。ルシィの直感がそう騒ぎ立てるようになって何年たったろうか。


 不安のあまり、隣のヒックス王国に嫁いだ長姉クラリスに手紙を書いたことがある。サシャとメルヴィンの様子を書くときはかなり穏やかな表現をしたつもりだったが、急ぎで届けられた返事には姉の怒りが滲んでいた。


『いますぐメルヴィンとサシャの双方に釘を刺しなさい。王家の顔に泥を塗るような真似をしたら、二人だけでなく彼らの家族全員も罰を受ける。その覚悟があるのかと聞くの。それでもだめならお母様に正直に事情を話しなさい。手遅れにならないうちに動くのよ』


 それを読んでもルシィは動かなかった。王家の力を振り回してメルヴィンとサシャの付き合いをやめさせても、根本が解決しないと思った。

 

(メルヴィンの顔だけを無理に私に向かせたところで、メルヴィンの心は私を見ないだろう。形だけの夫が欲しいわけじゃない)


 メルヴィンに対して姉のような気持ちもあったが、次第に少年から大人の男性へと変わっていくメルヴィンを眩しく見つめてきた。「ルシィの身長を追い抜いた」と喜んだ時のメルヴィンの嬉しそうな顔は、思い出の中の宝物だ。


 思い出に浸りながら花壇をぼんやり眺めていると、サシャがやってきた。

 袖のないドレスは彼女の腕の細さと肌の白さを際立たせている。手足は細いのに、胸の膨らみは豊かだ。最近、ルシィの前では無口で無表情なメルヴィンが、別人かと思うような柔らかい笑みを浮かべてサシャを出迎えた。


(最近の不愛想はあの年頃の気難しさなのだと思っていたけど、今でもあんな優しい顔ができたのね)


 あの笑顔を、自分はもう長いこと向けられていない。

 ルシィはほぼ毎日リュートに乗っているし軍の訓練にも頻繁に参加しているから、どれだけ気をつけていてもうっすらと日焼けをしている。走竜乗りとして鍛えられた体に贅肉はなく、引き締まっていた。

 細く強い自分の体が好きだったが、久しぶりにサシャを見ると、「無骨」という言葉が心に浮かんだ。

 

「こんにちは、サシャ」

「ルシィ様、ご機嫌麗しゅう。どうしましょう、ルシィ様がいらっしゃるのでしたら訪問を遠慮しましたのに。お二人の時間を邪魔したこと、お許しくださいませ。私はすぐに帰ります」

「いいのよ。今日は私が先触れもなしに訪問したの。サシャは約束していたのでしょう?」

 

 サシャは困ったような笑みを作りながらメルヴィンをチラリと見て無言。メルヴィンも床を見て無言。

 

「三人でおしゃべりすればいいじゃない?」

「まあ、よろしいのですか? ありがとうございます、ルシィ様」


(今、一瞬だけ、メルヴィンは迷惑そうな顔をしなかった?)


 ルシィの視線に気づいたメルヴィンが「三人だから三角陣をやろうか」と提案した。

 三角陣は古くからある卓上の遊戯で、メルヴィンに三角陣を教えたのはルシィだ。メルヴィンは負けず嫌いで、子供の頃はルシィに勝つまで何度でも勝負したがった。


 ぼんやりと十年以上前のことを思い出しながら三角陣をしていると、サシャがすぐに負けそうになって何度も弱音を吐いた。そのたびにメルヴィンがそれとなく次に駒を進める場所をほのめかす。卓上の遊戯は次第に、ルシィ対メルヴィン・サシャ組のようになってきた。


 ルシィは実力を出せばこの遊戯でサシャとメルヴィンを叩き潰すことができる。そしてそれをやったらどんな空気になるのかが見えている。

 手ひどく負けて落ち込むサシャと慰めるメルヴィン。そんなものは見たくない。


(ここで大勝ちしたら、私はこの二人にどう映るのだろう)


 忙しい公務を前倒しで片付け、時間をやりくりして訪問した結果がこれだ。

 後ろに回せる公務は後回しにし、何度も「無理を言って悪いわね」と文官に謝って城を出てきた。

 

(おしゃれをして訪問した私は道化のよう)

 

 椅子から立ち上がり、自分を見上げる二人に笑顔を見せた。

 「帰るわ」と言って足早に玄関に向かうと、メルヴィンが追いかけてきた。


「ルシィ! ルシィ! 待って!」


 無言で振り向くと怯えを含んだ若者の顔がそこにあった。


「悪かった。サシャを帰すべきだった。ルシィの思いやりに甘えてしまった。どうか怒らないでほしい。心から謝罪する」

「怒ってないわ。急ぎの公務を思い出しただけ。見送りは結構よ。また今度ね、メルヴィン」


 また今度という言葉を聞いて、メルヴィンがホッとしている。

 ルシィは馬に乗り、城の下まで一気に走った。同行してきた護衛兵士たちが慌てるほどの速さで。


(私が欲しいのは謝罪じゃないのよ、メルヴィン)


 だがその言葉を口にしてしまえば、自分とメルヴィンの関係が「王女と家臣」に変わってしまうことを、ルシィは知っていた。





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