第五章
6月に入っても、相変わらず大学と自宅、そしてバイト先へと出向く日々が続いていた。
ある土曜日、法律関連の本と一緒に気になって借りていた連載小説を読み終わって、どうしても続きが気になった俺は大学の図書室に向かった。
さすがに土曜日となると図書室にほとんど人影はなく、静まり返った本の香りが漂う中、本棚から小説を抜き取る。
その時ふと、伸ばした手に重なった夢の中の先輩の手を思い出した。
するっと掴み損ねた小説は目の前を滑り落ちて、バサ!っと音を立てて床にページを開いた。
腰を折ってそれを拾い、それでも尚先輩を思い出した。
先輩と一緒に居た部室での時間は、1分1秒無駄にしたくなくて、俺にとってはその日一日の良し悪しが
決まることでもあった。
先輩は幽霊部員だったので、本当に幽霊のようにふわりと時々現れる程度だった。
6時間目の授業が終わって、俺はいつも真っ先に部室に向かっていた。
その後チラホラと他の先輩部員が来て、他愛ない会話をしながら雑談をしたりしているうちに、ふらっと先輩が来ることもあったし、30分、小一時間程経ってから少しだけ顔を出してくれる時もあった。
だいたいの先輩方は1時間ほど部室に滞在すると帰ってしまうけど、先輩は何故か夕日が落ちて17時を回り、運動部も片づけを始めるであろう時間帯になっても、黙って本を読んでいる時があった。
どうしてだろうと思っていたけど俺は特に詮索せず、ただ隣に居られることが嬉しくて仕方なかったので、時々先輩の端正な横顔を盗み見ては、幸せな気分で小説を読み進めていた。
「何であんな遅くまで部室にいたんだろ・・・先輩・・・。」
誰もいない図書室でポツリと呟きながら、その場を後にした。
先輩のことを日常的に考えない、ということは・・・俺にとって無理なことなんだろうか。
今となっては頻繁に会うわけでもないのに、会わなくなった日からも、再会した後からでも、そう頻度は変わることなく思い出している自分がいる。
先輩の隣で読んでいた小説も、何種類か覚えているので、たまに家でそれを読みたくなる時もある。
悲しいことに、この場面を読んでいる時に、そういえば先輩に声をかけられたっけ、ということも覚えていたりする。
落としてしまった小説を今度は大事に持ちながら、貸し出しの処理をして、大学の校門を抜けて帰路についていると、ふと何となく嗅ぎ覚えのある香水の香りがした。
「薫?」
すれ違ったその人は先輩だった。
背の高い先輩が振り返って俺を見つめて、同時に先輩の隣にいた女性も目に入った。
「先輩!お疲れ様です。あ・・・小夜香さんこんにちは。」
軽く頭を下げると、小夜香さんも会釈を返してくれる。
「おい・・・本読みながらは危ないだろ・・・。」
「すみません・・・。ちょっと気になる本があって、どうしても続きを借りたくて図書室に・・・。」
可愛らしい小夜香さんと並ぶ先輩は、その手をしっかり繋いでいた。
「デートですか?」
「ん、いや・・・ちょっと兄貴夫婦のうちに行くんだ。」
先輩がそう答えると、隣にいた小夜香さんは焼きもちを妬いているのか、先輩の腕を掴んで言った。
「・・・デートじゃないの?」
「えっ・・・ああ、えっと・・・家に行く前にどっか寄ってく?」
「うん♡」
小夜香さんの可愛らしい笑顔に、先輩は必死ににやけるのを堪えている様子だった。
二人揃って何とも可愛らしい・・・。
「ふふ・・・良かったですね先輩・・・。では失礼します。」
そう挨拶をしてその場を去った。
正直、二人を見て何とも思わないわけではないけど、一緒に居る二人はとても絵になっていて、それが当然のようで、特に憎らしいとも思わないし嫉妬心も湧いてこなかった。
何より先輩がこの上ないくらい幸せそうなのが伝わってくるので、それはそれで心底嬉しくはあった。
あそこまでお似合いの二人だと、諦めもつくというもの。
そのはずなんだけど・・・それでも俺は何度も何度も先輩を思い返す。
俺はたぶん、自分だけが知っている先輩の思い出を記憶に詰め込んで、それを勝手に劇場化して、何度も自分の頭の中で上映している。
美化された先輩が俺のヒロインで、ぎこちない自分が必死に恋に落ちてほしくて手を伸ばす話。
先輩の紹介で借りた部屋へ戻ってきて、鞄のポケットから鍵を取り出して、ガチャリと玄関を開けた。
大きく息をついてソファに体を放り出した。
さっき少し言葉を交わした先輩の顔を思い出す。
小夜香さんと幸せそうに手を繋いで、優しく微笑む顔。
「・・・いいなぁ・・・。」
嫉妬心は湧かないけど、羨ましい・・・。
そう思うと、何故か途端に眠気が襲って来た。それ以上の思考を拒むように。
その後どれ程経ったのかわからないけど、アラームではない機械音で目が覚めた。
むくりと重たい体を起こして、ソファの下に投げ出された鞄を手に取った。
スマホを取り出してみると、佐伯さんからのメッセージが届いていた。
なんだろう、と思いながら開いてみると、そこには簡潔に『来週末土曜日、空いてたらデートしない?』と書かれていた。
「・・・ホントにお誘いがきた・・・。」
スマホを眺めながら重い頭をもたげて、働かない思考を動かす。
正直、若干まだ不信感を抱いていた。
わざわざ俺を誘う理由もわからない・・・。
佐伯さんの第一印象は、ちょっとギャルっぽい子だな、と思った。
明るめの茶髪にピアス、人当たりが良く話しやすいし友達も多そうだ。
恐らくだけど、恋人はいないから俺をデートに誘ったのだろうとは思うけど・・・
そういう関係を求める人なら気軽に誘う人もいるかもしれないし・・・いまいち意図が読めない。
かと言って既読無視をするのも失礼だ。
一つため息をついて、その日はバイトもないので了承する旨を返信した。
スマホをテーブルの上に置いて、立ち上がり昼食を食べ損ねていたので何か食べようかとキッチンへ入る。
その瞬間、置きっぱなしにしたスマホからまた通知音がした。
普段頻繁に連絡を取る相手もおらず、もちろん両親から連絡が来ることもないので、連続で鳴るその音に思わず反応して取りに行った。
スマホを手に取るその間に、もしかしたら先輩からかも、という淡い期待がないかと言えば嘘になる。
しかしそれは速攻で返してきた佐伯さんだった。
その返信はまるでカップルのやり取りのような、自然な言葉だった。
『ありがと~♪めっちゃ嬉しい!私行きたいとこあって、詳細はまた連絡するね♡』
「・・・♡が語尾についてる・・・。」
女性からそんなメッセージをもらったことなんて一度もない。
それなのに不思議と舞い上がる自分もいない。
目の前にあるそのやり取りを客観視しているのは、どこか自分の身に起きていることだと理解していないからかもしれない。
「デートか・・・。ん・・・?」
その時ふと思った。
「デートってしたことない・・・な・・・。」
少なくとも女性とは経験がない。
でもまぁ・・・考えすぎなくていいかな・・・。
佐伯さんへの不信感は消えないまま、そんな風に思っていた。




