第二十九章
その日の講義を全部受け終わって、同じく講義室に友達と固まって座っていた朝野くんを見やった。
少し迷ったけど、文句の一つも言いたかったのでスマホを取り出した。
「話があるから、少し時間がほしい。ついてきて。」そう送って席を立ち、チラリと彼を見た。
するとすぐにスマホを確認していた朝野くんは、俺が座っていた場所を把握していたのか、パッと顔を上げて目が合った。
俺が講義室を後にする生徒たちに紛れて廊下に出ると、少しして背中から友達と別れを告げて歩いてくる彼の声が聞こえた。
少し歩き進めてから、朝野くんはポンと俺の肩を叩いた。
「お疲れ。どした?」
「・・・まぁちょっとおいでよ。」
「なになに~?呼び出しとか嬉しいな・・・。普通に声かけてくれりゃいいのに、わざわざメッセ送って・・・イケナイ関係みたいでドキドキすんじゃん。」
「・・・まぁ・・・たぶんイケナイ関係なんじゃない?俺ら。」
「んなことねぇだろ・・・。普通に俺が好きで薫とよく遊んでるだけじゃん。」
そう言われるとただの友達のように聞こえるのに、妙な聞こえ方がしないでもない。
それが誤解を招いた一因でもある。
人気のない校舎の隅にやってきて、改めて朝野くんに向き直った。
俺を見据えた彼は、いつもの垂れ目を少しキョロキョロとさせて、同じく人がいないか確認しているようだった。
「あのさ・・・」
「ん~?」
ぐいっと鎖骨上あたりのシャツを引いて見せる。
「これ・・・覚えある?」
朝野くんはそれをじっと見つめてから、得意のニヤリと口元を持ち上げる笑みを見せて、俺を壁に追い詰めるようににじり寄った。
「あるよ~?逆に俺じゃなかったら誰なんだよって問い詰めたいわ。」
以前のこともあるし、俺は頭の中で言葉を選ぼうと思案してから口を開いた。
「・・・中途半端な態度を取ってる俺が悪いから、言えたことではないかもしれないけど、恋人でもないのにこういう証拠が残るようなことはしないでほしい・・・。」
「・・・わざわざ薫がそんなこと言うってことは、誰かに牽制出来たってことだな。」
「・・・てことは、計画的犯行ってことでいい?」
「そうだよ?現行犯逮捕する?」
おちゃらけながら彼は、壁に手をついて顔を寄せた。
「・・・夕陽、法学部なら知ってるとは思うけど、現行犯逮捕って・・・警察じゃなくても出来るんだよ?」
「・・・・・え~?マジか・・・・。困るわぁ・・・。」
ニヤニヤしながら俺の頬を撫でるので、静かにその手をどけた。
「・・・それつけられたのは誰のせい?」
耳元でそんなことを囁かれて、思わず睨み返した。
「お互いのせいだよ。けど言ったでしょ?距離感を考えて付き合いを持ちたいって。」
尚も朝野くんは俺の肩を掴むので、目で訴えられる欲求を振り払った。
「離して!」
俺が強めにそう言うと、その瞬間思わぬ声が耳に飛び込んできた。
「薫くん!!」
ハッとして廊下の先を見ると、佐伯さんが慌ててパタパタこちらに走って来ていた。
朝野くんが掴んだ手をそのままに振り返ると、駆けて来た佐伯さんをポカンと見つめた。
「な・・・何してるの!?薫くん嫌がってるでしょ!離して!!」
息をつきながら大声で言う彼女に面食らったのか、朝野くんは静かに手を離した。
「あ、あの・・・佐伯さん、別にこれは・・・」
「大丈夫?薫くん。」
彼女はぐいっと自分の側に俺の体を引き寄せて、キッと朝野くんを睨む。
すると朝野くんは頬を緩ませていつもの笑顔を見せた。
「はは・・・ごめんごめん、悪ふざけが過ぎたな。え~っと佐伯先輩?薫から色々聞いてますよ。」
特に対峙してほしくない二人が出会ってしまった・・・。
「え・・・?」
「あ、あの・・・友達の朝野くんです。」
俺がそう言うと、今度は佐伯さんがポカンと俺を見つめた。
「まぁ今は友達ですかね。んで・・・薫にキスマークつけた犯人ですよ。」
朝野くんのその言い様にため息をつくと、佐伯さんはすぐに合点がいったのか俺たちを交互に見た。
「・・・そっか・・・。じゃあ・・・薫くん狙ってるライバルは朝野くんなんだ?」
「ま、そっすね。」
佐伯さんは背の高い朝野くんをじっと見上げると、俺の顔を見てニッコリ微笑んだ。
「よかった、私薫くんが誰かに乱暴なことされてるのかと思って心配しちゃった。お友達だったんだね。」
「はい・・・すみません、色々と誤解させて・・・。」
「・・・ううん、キスマークは別に誤解じゃないもんね?」
そう言われて答えられずに目を逸らせると、彼女はまた朝野くんを見上げた。
「朝野くん的には、宣戦布告な感じ?」
「え~?そんなつもりないっすよぉ・・・。ただいい感じになってそういうことしちゃっただけなんすよねぇ。」
「夕陽、話をややこしくしないで。」
「はは、男と女に取り合われて大変だな薫は。・・・じゃ、俺バイトあるしもう行くな。」
そう言って手を挙げて去っていった彼の背中を二人で見送った。
「あの・・・呼び出して話をする手間が省けてしまったと言ったら聞こえはいいんですけど・・・ご心配おかけしました・・・。」
佐伯さんは苦笑いを返して俺の手を繋いだ。
「酷い薫くん・・・敬語使わないで私にも仲良く話して?」
彼女はそうねだると、そっと俺に抱き着いた。
「佐伯さ・・・」
「ね・・・薫くん私の下の名前覚えてる?」
胸元に顔をうずめられたままそう尋ねられて、思わず焦って記憶を掘り返した。
「え・・・え~っと・・・・」
「さっきの朝野くんのこと、普段は名前で呼んでるの?」
「・・・ん~・・・まぁそうですかね・・・」
佐伯さんは抱き着いたまま顔を上げて、ニッコリ微笑む。
「じゃあ私のこともリサって呼んで?変じゃないよね?さっきの彼と特別な関係じゃないなら、私も呼んでほしいなぁ♡」
「あ・・・え・・・と・・・はい・・・。」
何とも答えづらくて曖昧に返事をすると、佐伯さんはそっと離れてまた手を握った。
「呼んでくれなきゃ・・・ここでちゅーしちゃうよ?」
「えっ・・・。」
彼女の熱が掌から伝わって、その瞳からも熱い視線が注がれていた。
「・・・・リサ・・・」
女性の名前を口にするのが、あまりにも新鮮でかつ照れくさい。
弱々しく彼女の名前を口にした俺に、佐伯さんも照れくさそうに微笑んだ。
「えへ・・・もう一回♡」
可愛い上目遣いのおねだりに、翻弄されてる自分に気が付いたけど、幸せそうにしてくれて、恥ずかしいと嬉しい気持ちがこみあげてくる。
「リサ。」
俺が彼女の名前をまた口にしたと同時に、佐伯さんは少し背伸びをして俺にキスした。
遠くで誰かの話声や笑い声が聞こえる中、少し暑い空気が漂う校舎の隅で、甘えるようなキスを受け止めた。
思考が溶けそうになって、慌てて彼女の肩を掴んだ。
「あ・・あの・・・。・・・はぁ・・・すみません・・・」
何をどう言ったらいいものか・・・距離感測るってどうしたらいいんだろう・・・
自分自身に少し呆れながらいると、佐伯さんは機嫌を取り戻した笑顔を向けた。
「えへ・・・私の意地悪に引っかかってくれる薫くん好き。」
俺が何も言い返せず見つめていると、また彼女は俺に抱き着いた。
「ねぇ薫くん・・・何にも用事がなくても、お部屋に呼んでほしいな。」
「それは・・・さすがに人として最低じゃないですか?」
「そっかぁ・・・薫くんは頑張って人として正しくあろうとしてるんだ。・・・じゃあきっとさっきの彼と、キス以上はしてないんだね。」
「それはもちろん・・・あ!すみません、俺もうバイトの時間が・・・」
スマホを確認すると、家を出る30分前だった。
大学からそのまま行っても構わないけど、さすがに荷物は置いていきたかった。
「そっか、ごめんね引き留めて。私サークルの活動書持ってかなきゃだから・・・。気を付けて帰ってね。」
「はい、その・・・色々すみませんでした。それじゃ・・・。」
俺は一つ頭を下げ、走ってその場を後にした。
大学を出て小走りで家に向かいながら、少し汗がにじむ額を拭った。
信号で足を止めて、呼吸を整えて、車が目の前を通っている間、頭の中は二人のことでいっぱいだった。
その時やっと気づいた。翻弄されてるのは俺の方だ・・・
青になった横断歩道を今度はゆっくり歩きながら、佐伯さんと朝野くん二人と一緒に居る時の自分を思い返した。
俺はどちらかを選ぶことで、どちらかを傷つけてしまうことが嫌で悩んでるんだ。
どちらに対しても心動かされるのは、どちらからも本気の気持ちが伝わっているから。
認めたくなかったけど・・・俺は二人のどちらに対しても、友達としても恋愛対象としても好きなんだ。
やがて家に着き荷物を置いて、バイト用の鞄に持ち替えてまた家を出た。
どっちも好きだからどっちともと付き合いたいなんて言えない・・・。
堂々と二股宣言は不埒過ぎる。
当人同士が容認していたり、そもそもそういう制度があるお国柄ならまだしも、二人はハッキリ俺を取り合っていると言ってる。
当たり前だけど俺はどちらかを選ばなきゃならないんだ。
もしくはどちらも選ばないか、だ・・・。
焦ることでもないし、もう少し友達でいてもいい・・・よなぁ・・・
しつこく暑い空気がまとわりつく。
季節が変わる頃は、俺の気持ちもまた変わっていくだろうか。




