第二十七章
涼しい図書室で無心で指を動かした。
課題のレポートのためにパチパチキーボードを弾いて、頭の中をその一点に集中して、文章を組み立てていた。
さっきまでのことがなかったことになるわけではないけど、自分の中では朝野くんに醜態をさらしたも同然のように思っていて、何だったら早く忘れたかった。
レポートを終えて保存すると、途端に先輩の顔が浮かぶ。
目鼻立ちの整った、絵に描いたような美男子を前にすると、誰であってもちょっと物怖じはするだろう。
手足が長くて、棚から本を掴み取るだけの仕草でも目を奪われてしまう。
存在自体が芸術作品のような人だ。
自分が思っているより深いため息を落としてしまったのか、隣で読書していた朝野くんが本をパタンと閉じて、俺に視線を送った。
「なぁ・・・なんか言われた?」
何も聞かずにいてくれた朝野くんは、しびれを切らしたように尋ねた。
「・・・・・・・何も?」
大丈夫、気にしないで、と・・・作り笑顔を返すことすら出来なかった。
これじゃあまるで、先輩自体が俺のトラウマみたいじゃないか・・・。
朝野くんは小さく息をついて、変わらない爽やかな笑みを浮かべた。
「な、夜、空いてたら飯いこ?」
「・・・・ごめん・・・。」
「・・・今日バイト?」
「バイトはないけど、人がいるところで食事する気になれないかな・・・。」
ただでさえもう帰りたい程心身ともに怠かった。
「・・・そっか・・・。でもさ・・・そんな顔してる薫を、一人にしたくない。」
朝野くんはそう言って、また俺の頭を撫でて優しく微笑んだ。
「何も話したくないなら話さなくていいよ。詰問するつもりないし・・・。たださ、一人でいても良くならない気持ちなら、誰かと居た方がいいじゃねぇかな。」
彼はどこまで優しいんだろう・・・。
朝野くんは本当に、年齢以上に大人な人だと思った。
好きな気持ちも優しさも押し付けることなく、寄り添う天才なんだろう。
「夕陽は・・・どうしてそんなに優しいの?誰に対しても優しいの?」
思ったままの疑問を口にすると、朝野くんは少し目を見開いて、また頬を緩めた。
「ちげぇわ・・・薫にだから優しくしてんだろ・・・。そりゃ明らかに顔色悪くてしんどそうにしてたら、友達であろうと誰であろうと声はかけるよ。手助けしようっていう親切心でな。けど・・・薫にしてる優しさは違うよ。お前が誰より特別好きだからだよ。」
何も返答できないまま俺が見つめ返していると、朝野くんは照れくさそうに机に腕を組んで伏せて笑った。
「なんだよぉ・・・もしかして言わせたかっただけか?」
さっきより少し落ち着いて俺も笑みが漏れた。
「あ・・・やっと笑った。・・・ちくしょう・・・可愛いな・・・」
「またそんな・・・デレデレしないでよ。」
「するわ・・・。んで?夜は俺と居てくれないの?」
懲りずにねだる彼は、どうにも引いてくれそうにない。
「いいけど・・・。夕飯は家で食べたいから、作ってあげるしうちに来てよ。」
「え!!!!・・・・俺は嬉しいけど・・・・いいの?」
「もちろん、絶対手を出さないって誓えるならだけど。」
すると朝野くんは呆れたように大きくため息をついて顔を伏せた。
「・・・・・・・ったく~・・・・。無理だろ~どう考えても~・・・・・・。お前は好きな人を家に連れ込んで、何もせずに帰せんのかよ~~・・・・。」
「・・・・じゃあこの話はなしで。」
「わかったよ!誓う!絶対一ミリも手ぇ出さねぇから!・・・だから・・一緒にいたいし・・・手料理食べたい・・・・。」
今度は手をこまねいて駄々をこねる朝野くんが、何だか可愛く見えてしまって思わず笑ってしまった。
「ふふ・・・」
「おい・・・からかってんだろ俺のこと。」
「ごめんごめん・・・。そんなつもりないけど、からかってるみたいになっちゃったね。」
近くの本を取ろうと立ち上がると、朝野くんはまたふっと笑みを落として言った。
「・・・薫が笑顔になんなら別にいいよ。」
今日ばかりは、朝野くんの優しさが胸に刺さって痛かった。
彼の気持ちに報いるつもりもないのに、俺はまた先輩のことを考えてしまっているのに・・・・。
それからまた二人で同じ講義を受けて、夕方に帰宅した。
「ね、夕陽・・・」
「ん~?」
ソファの隣に鞄を置く彼に何気なく尋ねた。
「帰る前に友達に声かけられてたみたいだけど、よかったの?」
「あ?ああ・・・・ゲーセンと飯誘われたけど、今日は薫と出かけるからって言った。」
「そうなんだ・・・」
彼の付近で俺と関わることが多くて、妙に思われてないだろうかと心配になる。
「コーヒーでいい?」
「ん、ありがと。」
隣に座ると、朝野くんはピッタリくっつくように体を寄せた。
「夕飯何作ってくれんの?」
そのまま自然に腕を回して俺の頭を大事に撫でる。
「・・・・リクエストあるなら買い物してくるよ?」
「え~?そんな新妻みたいなことしてくれんの~?いいよ、冷蔵庫にあるもんで全然。薫が作る物なら何でも美味いっていう自信あるし。」
二人っきりだとデレデレに容赦ない彼は、終始ニヤニヤしている。
「じゃあ・・・カップ麺とかでも?」
「・・・ああ、いいよ、俺好きだよ、ラーメン。薫が普段どんなカップ麺ストックして食べてんのか知りたいし。」
「・・・随分プラス思考だねぇ。」
デレデレ微笑む彼を横目にコーヒーに一口飲んで、ボーっとそれを眺めた。
「薫の小説読んだから、何となく予想していい?」
「・・・え?」
朝野くんは同じくコーヒーを一口飲んで、テーブルに静かに置いた。
「諦めきれないのに、無理やり振られて諦めたんだろ?・・・・残ってんだよ、単純に未練が。俺もさ・・・前に付き合ってた彼女が、久しぶりに連絡先のアイコン見たら、今の彼氏とのツーショットだったりしたらさ、ちょっとなんか複雑な心境になるもんなぁ・・・。」
「・・・そっか・・・そうだね・・・確かに・・・。」
「・・・小説読んでてさ・・・すっげぇ引き込まれて感情移入してたんだよ・・・。あそこまでただの友達じゃなくて、心の深いとこにお互い触れて、体の関係まで持って・・・そんで薫ばっかりが相手を死ぬ程好きだったなんて・・・いたたまれなかったわ・・・。」
俺が黙って聞いていると、朝野くんは冗談めかしに続けて言った。
「図書室でその先輩とやらを見た時さ、一瞬でわかったよ、薫の動揺した様子と、小説で説明してたからその風貌で。薫の中でさ・・・まだ終わってねぇんじゃねぇかな・・・。吐き出して振られたけど、まだ言いたい事あったんじゃねぇの?」
「・・・言いたい事・・・」
「まぁでもさ・・・わかるよ。俺だって別れた相手にどんなこと話したかとか、ちゃんと腹割って話し合えたのかとか、思い返してみたらわかんねぇし、やっぱ未練が100%ないかって言われたらそうでもないし。もしこうだったらとか、こう言ってたらとか、たらればを考えちゃうのが人生なんだよなぁ。でも俺は薫の気持ちを全部くみ取れるわけじゃないし、全部理解出来るかどうかもわかんねぇ。たださ、尾を引くような気持ちがあんなら、相手にでも、俺にでもぶちまけちゃえばいいんじゃねぇの、とは思ってる。」
「ぶちまける・・・か・・・。」
「知り合って半年も経ってねぇけど、俺が思う薫は・・・優しいし頑固だから、もう言わないって決めたんなら自分の気持ちは話したくないのかもだけど・・・。俺は・・・あくまで俺はな?・・・薫がそんなしょげた顔するような苦い思いを、ちょっとでも笑い飛ばせるもんに変えといてほしいなぁって思うわ。」
心の中で抱え続けた気持ちが、許容量を超えて溢れ出すことはある。
けどそれは誰しもあることで、俺は不遇に育ってきたと思っていたけど、案外不運や惨めさは、人間らしい普通のことだったんじゃないかと、最近思うようになった。
そう思えるようになったのは、朝野くんや佐伯さんが、友達として自分のことを話してくれたり、俺の話を聞いてくれるからわかったことだ。
「夕陽・・・」
「ん~?」
俺が名前を呼ぶと、彼はまた嬉しそうににんまり微笑んで俺の頭に手を置いた。
「ありがとう。俺のこと考えて意見聞かせてくれて。一人にしたくないって寄り添ってくれて・・・。俺はそんな誰かがいなかったんだ。いや・・・いたかもしれないけど、きっと見ようとしなかったんだ。ずっと自分が可哀想な存在だと思ってた。そう思って自分を慰めてたんだ・・・。気持ちが報われないことなんて誰でもあるのにさ、自分が特別不遇だと思ってたんだよ。確かに・・・夕陽の言う通り、先輩への気持ちは消化不良で残ってることが多いと思う。まだまだ乗り越えられる程大人な考え方は出来てないんだと思う。でもモヤモヤを抱え続けてても、昔より今の方が大丈夫なんじゃないかって思えるんだ。それは紛れもなく、夕陽や佐伯さんが友達として話を聞いてくれたからだよ。一人じゃなんも出来ないのに、ずっと一人でいようとしてたんだ・・・。そんなこと考えたらわかるのにね・・・。当たり前のように俺のことを考えてくれる優しさが・・・夕陽のそんなところが、大好きだよ・・・。」
喉元が苦しくて・・・こらえきれない涙が次々零れた。
大した事なんて何も起きてない。
自分を想ってくれる人がいる。好いてくれる人がいて、寄り添ってくれる。今の俺はすごく幸運なんだ。
夕陽はボロボロ泣いてる俺をそっと抱きしめた。
俺の涙はきっと、あの時言いたかったことや言えなかったこと、寂しいけど寂しいと言えなかったことや、自分の気持ちを無視して強がってきた反動。
夕陽は大きな手で大事に俺の涙を拭って、仕方なさそうな笑顔を向けて、少しためらいながらキスをした。
置き去りにした気持ちも、報われないことも、孤独で寂しかった思い出も、何もかももう捨てていい気がした。
今は二人の気持ちをどう受け止めて、どう応えたらいいのか考えたいから。
そっと唇を離した夕陽は、吐息を漏らして少し困ったような目で俺を見た。
「・・・・・キスしちゃったわ・・・・。んでも・・・これ以上は我慢する・・・・。薫が迷ってんのわかってるし、そんなこと望んでないもんな。」
「・・・ありがとう。」
「でもさっきの大好きは・・・・結構効いたな~~・・・・。もっかい言ってよ・・・。」
頬やおでこに軽くキスしながら、夕陽は可愛くねだった。
「ふふ・・・あはは・・・!」
「何だよ・・・その可愛い笑顔はよ~!」
俺が噴き出すと夕陽は髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど撫でた。
そして今度は彼の方が泣きそうな程堪えた顔で、また俺をきつく抱きしめた。
「わかってねぇんだろうなぁ。俺だってお前のこと好きで好きでどうしようもなくて、泣きたいくらい側に居たいんだよ。ほんっとわかってねぇよな・・・ムカつくなぁ・・・可愛いんだよアホ・・・。」
「・・・夕陽も十分可愛いよ?」
「うるせぇ・・・。」
ぶっきらぼうな夕陽の口調が愛おしかった。
それと同時に、花火を見て楽しそうにしていた佐伯さんのことを思い出した。
瞳をキラキラさせて、俺に大好きだと言ってくれた彼女のことを。
「夕陽・・・あのさ・・・」
「ん~?」
抱き着いたままの夕陽の頭を今度は俺が撫でた。
「今回はその・・・・気持ちがぐちゃぐちゃしてて家に招いちゃったけど・・・・夕陽が言った通り、俺佐伯さんのことも夕陽のことも大切で、どっちと付き合いたいかなんてわかんないくらい悩んでるんだ。むしろずっと友達でいたいくらい二人のこと大好きなんだ。でもだからこそっていうか当たり前なんだけど・・・こんな風に良い感じになってキスするのは良くないからさ・・・もうちょっと距離感考えたいっていうか、平等な距離感で付き合いを持ちたいなって思ってる。」
「・・・そりゃそうだよな・・・。」
朝野くんは顔を上げて、またいつもの爽やかな笑みを浮かべた。
「賢明な判断だな。このままイチャイチャ付き合いを二人ともに続けてたら普通に二股だし、どっちかに刺ささて終わる結末も無きにしも非ずだよ。」
「そうだね、今にも俺を押し倒したくてたまらない目で見てる狼もいることだしね。人間が一番怖いよね。」
俺がそう少しふざけ返して言うと、朝野くんは苦々しい顔をする。
「・・・・そ~だな~~・・・。ま~じでお前いい性格してるよな。」
「ふふ・・・」
朝野くんは反対側に体をだらけてソファにもたれた。
「っとにも~~・・・・」
きっと俺は、朝野くんや佐伯さんに好きだと言われたから、初めて自分を認められたような気分になったんだ。
自分を見てくれる人がいるから、自分を好きになれる気がしたんだ。
そんな彼らと真摯に向き合わなきゃ罰が当たるってもんだ。
項垂れる朝野くんをよそに、俺は夕飯を作るために立ち上がった。




