の ぞんだ紅は *
――これは、まずい。
悪魔を前にして、天使イズラフィールは己の敗北を瞬時に悟った。
強制的に召し上げた有象無象の魂をいくら束ねようと、望んで捧げられた清らかな魂に勝てる道理はない。有利不利など意味がないほど、エネルギーに差がありすぎる。
悪魔が天使に勝てない以上に、それが摂理で真実だ。
だからこそ悪魔は望みの対価に魂を喰らい、神や天使は信仰を通じて魂の力を得るのだ。魂の同意が無ければ魂が蓄えた力を得ることは、かなわないからだ。
ソフィアという魂を捧げられて力を得た悪魔に対して、自分にはもはや壊れかけたプリメラ一人しかいない。
イズラフィールの任務はこの悪魔を調伏することだ。ここはいったん退却し、態勢を整えるべきだ。
「プリメラ、一旦引きます」
「させるわけがないだろう」
プリメラの下へ後退しようとするイズラフィールに、アモルの影から伸びたいくつもの腕が絡みつく。
「くっ、離せ!」
イズラフィールが暴れるたびに、影の手は引きちぎられるけれど、今やアモルの魔力は天使の優位性を覆すほどに大きく、次々に生える影の手にイズラフィールはついに大地に縫い付けられた。
圧倒的な物量の前には相性さえも覆える。
「ふむ、ようやく拘束したものの、私は悪魔ですからねぇ。天使を消滅させるのはなかなかに厄介だ。……あ、ソフィア様、殴らなくて結構ですから」
「え?」
ハルバードをぐっと構えるソフィアをアモルは制止する。
魂を奪ったことでちょっぴり心配したけれど、魂がどこに在ろうと真祖になろうと、ソフィアの脳筋ヴァンパイアぶりは健在だ。
高位の魔族の中には、不死性を保つために魂を別の場所に移す者も存在するし、ソフィアとアモルの間には眷属としてのつながりもあるから、アモルが死なない限りは特に影響ないらしい。
「もっと確実な方法がありますので」
そう言ってアモルが顔を向けたのは、離れた場所でへたり込み、何事かブツブツ呟いているプリメラだった。
アモルが実にいい顔をしているから、プリメラの方を始末しようというのだろう。この天使はプリメラを依り代に顕現したのだ。プリメラを殺すかその信仰が失われれば、天使はこの世に存在できない。
「……プリメラは私が。かつては共に旅をした者です。せめてこの手で……」
「ひっ、ひいっ。助けて、助けて、スース! イズラフィール様!」
赤子蟲に囲まれ悲鳴を上げるプリメラにスースは近づく。
プリメラの頼みの綱のイズラフィールは、アモルの影の手に押さえつけられて身動きが取れない。
「ご、ごご、ごめんなさい、スース。でも、分かってくれるわよね? 貴女はあの街にいる方が幸せだと思ったのよ! あの悪魔の城の地下室で、何度もひどい目に合ってるあなたを、あんなに世話してあげたじゃない!」
「分かってるわ、プリメラ。あなたが私に親切にしたのは、死なれたら、あなたが困るからだって……。でも私、あなたのこと嫌いじゃなかった。だから、せめて苦しまずに殺してあげる。さあ、忌々しい天使の結界から出てきて?」
涙どころか鼻水まで流して哀れに訴えかけるプリメラを、スースは冷たく突き放す。
マーテルの街でスースを騙して娼館に売ったのはプリメラだ。そのことに対して、特に思うことはない。その結果、今のヴァンパイアとしての自分があるのだから、感謝さえしている。
プリメラがスースに与えた親切が打算の産物であったとしてもだ。
だからこそ、安らかな死を与えてやるのだ。残酷な悪魔に歯向かったプリメラにはそれが最大の幸福なのだろうから。
「結界? あぁ、結界! 出るものですか、絶対、絶対に! あぁ、イズラフィール様、私をお守りください、お守りください!」
恐怖と狂気に彩られた表情で祈り、死にたくないと藻掻くプリメラの様子に、スースは眉を寄せる。結界の中に籠られては殺してやることさえできないではないか。
そんなスースにソフィアが優しく声をかけた。
「友達だったのでしょう? 無理をしなくていいわ、スース」
「申し訳ございません、ソフィア様。何のお役にも立てず……」
「何言ってるの。スースのお陰で私は真祖にまでなれたのよ」
近づいて来るソフィアをプリメラはぎろりと睨みつける。
(この女が……)
ともすれば同性である自分でも見惚れてしまいそうなほどに美しい女だ。
けれども、外見の美しさだけで、この女はあれほど尊いものを悪魔から得たというのか。
許せない。許せない。許せない。
そんな思いは、悪魔の城の地下室であの紅を見た日からずっとプリメラの中にある。
「どうして、どうしてよ。呪われたヴァンパイアのくせに、どうしてあんな透き通った紅を、純粋な愛を得られるのよ」
恐怖に震える声で、それでも積年の恨みをぶつけるようにプリメラは吐き捨てる。
「ん? 透き通った紅? 純粋な愛? どういうこと?」
思いもかけない発言に、こてんと首をかしげるソフィア。そのしぐさがあざとい物に思えたのだろうか、それともあれほどの愛情を、自らが求めてやまないものを、向けられてなお自覚のないソフィアにいらだったのだろうか。プリメラが叫ぶ。
「私は、人の感情が色で見えるの! あの悪魔は! あんなに、あんなに残虐な癖をして、あんたに純粋な愛を抱いているのよ!」
殺されたって構うものか。そんな叫びだったというのに。
「え? 純粋な愛? 誰の?」
なんと腹立たしいことだろう。ソフィアが心底不思議そうな顔で聞き返してきた。
「あの! 悪魔のよ! 分かってるんでしょ!?」
どうしよう……。
プリメラのまさかの発言に、ソフィアは思わず固まってしまう。真祖として超高速化された思考能力が無ければ1時間ほど停止していたかもしれない。
(アモルが……)
チラッと見ると、プリメラの発言のどこがお気に召したか知らないが、アモルはご機嫌そうに尻尾を振っている。ついでに確認した天使イズラフィールは状況を把握できずに少し脱力状態だ。
(純粋?)
アモルがソフィアを好きだというのは、そうだろうなと思うのだけれど、どこをどう考えたって、この悪魔が純粋だとは思えない。
「アモルが、純粋……」
「特異視覚者というやつでしょう。交渉事に有力な能力ですね」
思わずつぶやいたソフィアに、アモルは尻尾を高速でフリフリしながら返事する。ご機嫌なのはいいけれど、アモルが純粋だなんてことだけは、絶対にないと言い切れる。
……なぜならアモルのベースは淫魔なのだ。逆にドロッドロじゃないだろうか。
(ん? 淫魔?)
だが現在進行形で、アモルのソフィアに対する気持ちが純粋だというのならば。
「一つ聞きたいのだけれど、食欲はどう見えるの? 不純な食欲というのは?」
「ハァ!? 食欲に純粋も不純もあるわけないでしょ!」
なるほど、やはりそういうことか。
納得のいったソフィアは、アモルのもとにツカツカと進むと、ネクタイを引っ張ってかがませる。ついでに額から頬を伝って流れる血潮をぺろりといやらしく舐めとってやった後、何事かをアモルの耳元に囁いた。
ぶわわ。
猫ならそんな擬音が似合うだろう勢いでアモルが尻尾を立てた。
アモルの尻尾は正直だ。
つまりはそういうことだろう。そして同時にプリメラが悲鳴を上げる。
「ぎゃあっ。やっ、いやっ、いやっ! キモチワルイ!」
「………………」
プリメラのあまりの反応に、じっとりとした視線をアモルに向けるソフィア。
かがませ視線を合わせたおかげで、眼鏡の奥の瞳の炎が良く見える。その色は、いつもきれいな紅なのに、今は赤黒かったり紫がさしたり、青紫に変貌したりちょっと緑が混じったりとぐねぐねぐるぐる変化している。
(……あー。この色のことかも。確かにちょっと気持ち悪いわ。
何を考えたのかは、……………………考えないでおきましょう)
分かってしまえば簡単だ。
プリメラの感情を色で見る能力は、交渉事を有利に進めるためのもの。相手の愛情を利用するなら純、不純の情報は有益だが、そういう判断が不要な感情もある。例えば、美味しい物を思い浮かべた時のような。
アモルは確かにソフィアに愛情を抱いている。だから愛情を示す色が見えたのだろうが、淫魔にとって情欲というのは食欲でもあるわけだ。だから、平静状態において好きな相手を思い浮かべた時、世の男性が情欲を伴うのに対し、アモルの場合はより強い食欲が表に現れるのだろう。
なんだかそれっぽいことを、はるか昔に言っていた気がする。
それはあくまで平静状態のことであって、こうしてソフィアが耳元で、ちょっと誘うようなセリフを囁いただけで、こんな有様になるのだけれど。
「……アモルのエッチ」
「くくっ」
「ぎゃああああっ。イヤー!」
「えっと、あの……」
「………………」
アモルが笑い、プリメラが叫ぶ。スースはどうしていいか分からない様子で、イズラフィールは逃げ出そうともがいては、増える影の手に押さえつけられていた。
ソフィアはアモルのイイ笑顔と錯乱するプリメラを見ながら、魂をあげたのは早まったかな、とほんのちょっぴりだけ後悔した。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
アモルの愛情、食欲交じり。
プリメラ、ソフィア「いーやー(´;ω;`)」
あと3話! お亡くなりになったシリアスさんに敬礼!




