遠 き日の契約 *
「く……。だが貴様は所詮、魔に身を堕とした者。邪悪なる魔法など、天の使いたるこの身には如何ほどのダメージも与えられん」
天使イズラフィールは、魔力を迸らせるアモルを前に、少しもひるむことはない。
この天使は悪魔を調伏するために、この世に使わされた者。
悪魔の使う魔法に対する抵抗を持ち、悪魔を切り裂く剣を与えられている。例え魔力が増したとして天使の優位は揺らがない。この世には絶対の摂理があるのだ。
「だとしても!」
悪魔が両手を振りかざすと、背後から贖罪の雄山羊たちが浮かび上がり、意思を持った弾丸のようにイズラフィールに襲い掛かる。
「無駄だ!」
生き残った信奉者ごと天使を押しつぶすかのような大量の雄山羊の前に、イズラフィールが左手をかざす。そこに生じた障壁に当たるや、影の雄山羊たちは光に照らされた影が消失するように消えていく。しかし山羊の物量は先ほどまでの比ではない。津波のような影の濁流に、天使の光の障壁もひび割れ今にも割れそうだ。
「くっ」
イズラフィールは光の剣を振るい、光の障壁ごと影の山羊を切り払う。闇は光に勝てないことを象徴するかの如く、光の一閃によって消滅していく影の雄山羊たち。
けれど光の障壁が消え去るのを待っていたかのように、間髪入れず悪魔の次の攻撃が天使に向かって襲いかかる。
「<風よ>」
「<我らが父の護りをここに>!」
周囲に巻き起こるいくつもの竜巻。
稲光を発しながら襲い掛かる暴風に巻き込まれた岩石が、紙切れのように切り裂かれる。こんなものに巻き込まれたなら天使の翼さえ引き裂かれてしまうのではないか。
同時にイズラフィールが展開した防御魔法がドームのように張り巡らされ、彼と信奉者たちを護る。けれど、まだ数百はいる人間を包むほどの大きさだ。縦横無尽にうねりくる竜巻を相手にいつまでもつだろうか。
光の剣を持つ天使の力は、今の悪魔に対して同等かそれ以上だが、信奉者を守りながらの戦闘は、範囲魔法を行使する悪魔相手ではさすがに不利だ。しかし信奉者たちを見捨てれば、ヴァンパイアの操る赤子蟲の餌になるだろう。それでは敵に力を付けさせるだけだ。
だからこそ、イズラフィールは決断した。
「子らよ、祈りなさい。私に悪魔を滅ぼする力を!」
天使イズラフィールの声に、生き残った信奉者たちは必死になって祈りを捧げる。同時に天使の翼は光を放ち、彼らは光に包まれていった。
「あぁ、天使様、お助けを」
「天使様、助け……」
「アッ、アッ……てん、し……」
聖女プリメラが光に思わず閉じた目蓋を再び開いた時、天使の護りの魔法の中には自分と天使イズラフィールの他には誰一人立ってはいなかった。
「い、イズラフィール様……。これは……」
慌てて近くにいた聖騎士の一人に手を伸ばすプリメラ。彼女には治癒魔法の力がある。まだ息があるのなら、助けることができるのだ。
けれど、治癒の力がある故に分かってしまう。ここに倒れている人々は誰一人、生きてはいなかった。
そして、人の感情を色として視ることのできるプリメラの目には、一面に倒れ伏す人々を、余計な濁りも色もない、おそろしく透き通った光景として映し出していた。
「彼らは悪魔を滅ぼす力となりました」
その事実を示すように、2枚であったイズラフィールの翼は今や6枚となっていて、その姿は神々しいばかりだ。
その姿を見て、ようやくプリメラは天使という存在が何者なのか、何を糧にしているのかに思い至った。
(た……食べた、んだ。この天使は、信奉者たちを喰ったんだ)
あの悪魔が影の山羊を使って人間を喰らったように、スースが赤子蟲を使って人間を喰らったように。この天使もまた、祈りを通じて人間を……。
信奉者たちは皆、助かりたいと祈っただけで、命を差し出そうなどと思ってはいなかっただろうに。
「……どうして、私はお残しに?」
「貴女は私が顕現するのに必要な依り代ですから」
プリメラに答えるイズラフィールの感情は、今までと全く変わらず透明な光のままだ。
プリメラは、天使イズラフィールが自分たちに向けた感情が何なのかを、この時になってようやく理解した。
「あ、あ、あ……。まさか、そんな。ちがう、だなんて。そんな……うそよ……」
プリメラは死屍累々の荒野に膝から崩れ落ちる。
天使もまた、人間を喰らう存在だと知ったからではない。
彼女を支えていた“天使の愛”という信仰が、ガラガラと音を立てて崩れていった。
そんなプリメラにイズラフィールは僅かに眉をよせる。プリメラがうつむかずにイズラフィールを見ていたなら、そこに疎ましさやわずらわしさを見て取れただろう。
(この依り代も、長くは持ちそうもないですね)
そう判断したイズラフィールは、依り代が害されないようにプリメラに防御の結界だけを施して、光の剣を大きく薙ぎ払った。
依り代としてのプリメラの信仰は大きくひび割れ、おそらく長くはもたないだろうが、何百もの信奉者の魂を喰らった天使が圧倒的優位にあることは変わらない。依り代が壊れる前に決着を付ければいいだけだ。
一閃。
強大な天使の力で振るわれた衝撃波に、雷鳴をまき散らす竜巻は、まるでそよ風のように切り飛ばされる。けれど、圧倒的な天使を前に、悪魔は逃げるそぶりを見せない。
アモルが背に護る城の中には、目覚めたばかりのソフィアがまだいるのだ。アモルがここで逃げたなら、天使イズラフィールの剣は間違いなくソフィアを捕らえるだろう。
「勝てぬと分かってなお、一歩も引かぬその精神だけは評価しましょう!」
それは天使が悪魔に下す、勝利の宣言だったのか。
叫びと同時に6枚の光翼をはためかせ、天使が悪魔へと飛び込んでいく。
天使の突進を止めるために伸ばされた支配する第三の手は、強化された光の剣に触れるだけで、光に照らされた影のように掻き消えてしまう。
すべてはこの世界の理のままに。天使の前には悪魔は敗れ去るしかないのか。
しかし、その時。
カァァアーーーン。
重い金属が打ち合うような、高い打撃音が響き渡った。
悪魔を滅ぼす必殺の一撃を止めたのは、分厚い鉄の塊のような巨大なハルバードだった。
白い薔薇のドレスに朱の差した金の髪、巨大なハルバードを軽々と振るうその腕は小枝のごとく華奢で、その顔は天使でさえも見惚れるほどに美しい。けれどその目は血を滴らせたような赤光を放ち、赤く濡れた唇には鋭い牙が覗いている。
そして何より、その身から溢れ出す強大な魔力。月さえも従うような存在感は、まさしく。
まるで調停者のごとく天使と悪魔の間に割り言ったのは、最上位のヴァンパイア、真祖として覚醒したソフィアだった。
「ソフィア様!?」
驚愕の叫びを上げたのはアモルだけではない。
「なっ……。邪魔するか、ヴァンパイア!!」
戦いを邪魔された天使イズラフィールも怒りをあらわに声を上げる。けれどその声ごと天使の剣を跳ね飛ばし、乱入者、ソフィアは堂々と言い放った。
「邪魔するに決まってるでしょうがぁ!!!」
ガンッ。
巨人のごとき怪力で振り回されるハルバードでさえ、光の剣は折れないけれど、その衝撃は途方もなく、その一撃は天使はを容易に後退させる。
「だいたいは! アモルが! 悪いんでしょうけど!」
ガン、ガキ、ガィン。
「悪魔なんだから! 悪行を行うのは! 当然でしょうが!」
ギン、ガガン、ゲイィン。
「アモルを! 滅ぼされるわけには! いかないのよ!」
ギギィ、ガキィ、ガキン。
武器を打ち合わせているのに、まるで殴り合いのような応酬に、ついに天使イズラフィールはソフィアとアモルから距離をとる。
「ソフィア様、危険です。いくら真祖として覚醒したとして、相手は天使です!」
いくら真祖として覚醒しても、ヴァンパイアと天使ではそもそも存在の格が違う。
「殴れば当たるんだから、力尽きるまで殴るだけよ」
きりりとした表情で、それはもう堂々と、ソフィアは一体何を言っているのだろうか。
まさかの、“物理で殴る”宣言に、アモルは流血の止まった頭が痛む思いだ。
こうなることが予想されたから、「ソフィア様が目覚めたら連れて逃げるように」と、侍女たちに申し付けていたのに。ソフィアが飛び出してきたらしき窓を見ると、二人の侍女がペコペコと頭を下げていた。
どうやら制止しきれなかったらしい。これは、再教育が必要だ。
「ソフィア様、貴女の願いを叶えるまでは滅ぼされはしません。ですからどうか。スース、ソフィア様を連れて逃げたまえ」
やっとの思いで、ソフィアを真祖にまでしたのだ。これで朝が訪れるたびに魂が離れてしまうのではと恐れずに済むというのに、天使に滅ぼされるなど容認できるわけがない。
「何言ってるのよ! この天使、イズラフィールっていうんでしょ? だったら相性最悪で勝てる見込みなんてないじゃない! だったら最後まで一緒にいるわよ。契約、忘れたわけじゃないでしょ!」
イズラフィールはソフィアの世界でイスラーフィールと呼ばれた天使と類似の存在ではないか。だとしたらそれは、アモルの原型である“荒れ地の悪魔”を荒野の穴に放逐した天使と同一の存在だ。相性は最悪で、勝てる見込みは皆無でないか。
いくら真祖と言えど、ヴァンパイアが天使に勝てる見込みはない。けれど、滅ぼされると分かっていてもソフィアのためにイズラフィールに立ち向かうアモルを放って逃げるなど、ソフィアにはできなかった。
「馬鹿なことを! 何のために、私がこれまでどれだけ……」
苦渋に顔をゆがませるアモル。
彼の言うことはもっともだ。ここでソフィアが滅ぼされたなら、アモルの努力は無に帰すだろう。けれど彼の歪んだ表情からは、努力が無に帰すことよりも、ソフィアを失うことへの恐れがありありと見て取れた。
アモルがこういう悪魔だと、ソフィアはとっくに知っていた。
だからこそ、ソフィアはここへやってきたのだ。たった一つだけ、この悪魔にしてあげられることがあるから。
「アモル! 私の悪魔。本気で私の願いを叶える気があるのなら、私の魂を食べなさい」
「な……」
「大丈夫。私は真祖になったのよ。魂がこの体の中に無くとも、死ぬことはない。さぁ、アモル、私と交わした契約を、今こそ完全なものにして!」
いくら物理で押そうとも、悪魔とヴァンパイアではこの天使に勝ち目などない。日がまた昇れば形勢は逆転し、今度こそ真の滅びが来るだろう。
悪魔は魔界の穴に封じられ、ヴァンパイアは世界の理――輪廻の輪に返される。永遠の別れがやって来るのだ。
だからこそ、かつて異なる世界に構築された意識だけのおぼろげな世界で、交わされた契約の履行をソフィアは求めた。もう決して、二度と離れることが無いように。
それは、悪魔が請い願い、最後の最後まで躊躇していた物語の結末だ。
恋焦がれたソフィアという魂を縛り付け、永遠に自分のものとすることを、この悪魔はためらっていたのだ。
けれども、貴女が望んでくれるのならば――。
イズラフィールが大きく距離を離した隙に、アモルがソフィアに手を伸ばす。
その手を取ったソフィアをアモルは愛し気に抱き寄せると、その唇に優しい口づけを落とした。
ソフィアの仮初の肉体からは魂が失われ、アモルの中へと取り込まれる。
「今、契約は果たされた。貴女の魂は正しく私のものとなった」
自分のすべてを相手に与え、永遠を誓うその行為は、悪魔を滅ぼそうとする天使でさえも攻撃の手を止めてしまうほどに神聖な愛の誓いのように思えた。
ここに、二人の契約は成就した。
かつて偉業を成したソフィアの魂は、正しくアモルのものとなったのだ。
美しく、尊い魂を手に入れた悪魔の力は如何ほどか。
かつて山羊番の魔神と呼ばれ、魔界を震撼させた悪魔がそこに立っていた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
イズラフィール「お弁当パクパク」
ソフィア「レベルを上げて物理で殴る!」
アモル 「ムリムリ」
ソフィア「じゃあ、契約履行して」
イズラフィール「……もう、つきあっちゃえよ」
あと4話ァ! ハッピーエンドはもうすぐだ!
イイね! と思った方は、↓の評価もよろしくお願いします!




