永 劫の果ての悪魔 *
天使イズラフィールの前に、悪魔アモルが膝を折る。
その光景に、プリメラは心の奥底から歓喜の念が沸き起こるのを感じていた。
きっとヴァンパイアを案じているのだろう、沈み切らぬ太陽にあの悪魔からは焦りの感情さえも読み取れるではないか。
埃どころか皺一つなかった悪魔の衣服は、今や切り刻まれて血に染まっているし、その肉体は満身創痍だ。額から流れる血と汗が白いシャツの襟を汚しているのに、肩で息をするこの悪魔はそれを気にする様子さえない。
なんて惨めなことかだろう。それに対してプリメラの天使イズラフィールは、汗一つかいていないではないか。
ぞくぞくと、愉悦にプリメラの体が震える。
今ならば、天使イズラフィールを得た自分ならば、この悪魔の澄んだ紅を、この男がヴァンパイアに捧げる純粋な愛情を、穢してやることができるかもしれない。
女は隣に立つ天使にうっとりとした視線を投げた後、アモルへゆがんだ笑みを向けた。
「ご安心なさって。すぐに貴方のヴァンパイアも神の御許へ、いいえ、地獄へ送って差し上げますから。でも少しお待たせしてしまうかも。貴方の主には貴方が私たちにしてくださったことのお礼をしなければなりませんから」
にたりと笑ったプリメラの笑顔は、聖女とはとても呼べないほどに醜くゆがんでいる。
「手の指を、足の指を寸刻みで切り取って! あぁ、ヴァンパイアですものね、非力な私たちが指を切断するのと、再生するのではどちらが早いかしら? 夜までには腕も足も切り終えられるように、皆で一斉に頑張らないといけませんね! 叫んでも構わないから、喉は潰さないけど、舌を噛んではいけませんから歯は抜いておかなくちゃ。ヴァンパイアが牙を失う時って、どんな悲鳴を上げるのかしら!
そして、腕も脚もなくなったら、あのお城から引きずり出してあげる!
脚の代わりに磔木で串刺しにして! 手足を杭で止める代わりに心臓に杭を刺して!
太陽の元にさらしたならどれほど醜く焼けただれるかしら!」
これまでイズラフィールばかりを意識して、プリメラに路傍の石ほどの関心も示さなかった悪魔が顔を上げる。たったそれだけのことで、プリメラは身が震えるほどの愉悦を覚えた。
――堕としてやろう、穢してやろう、踏みつけに、してやろう。
そんな汚れた感情で、プリメラは言葉を続ける。
「……もし、貴方が望むのでしたら、陽の光で焼かれる間、弱った体を抱かせてあげてもよくってよ。貴方だって思いを遂げてから滅びたいでしょう? 貴方の愛しいヴァンパイアが太陽に焼かれる苦しみを、快楽で塗り替えてあげる優しさくらい、私も持っているのだから」
狂気に満ちた顔で女は笑う。自分には、それを実行する力があると信じているのだ。
「狂人のたわごととは言え、我が主を貶める言葉の数々。不愉快に過ぎる」
ソフィアを愚弄するプリメラの発言に、アモルから怒気を孕んだ魔力が噴き出す。口元は笑ったままだが、額には血管が浮き出し、激しい怒りをたたえていることが分かる。
常人であれば恐慌を来すであろう威圧だが、天使の翼で守られたプリメラには届かない。むしろアモルが激しい怒りを示したことに、プリメラの喜色は増すばかりだ。
「アハ、アハハ、アハハハハ! 悪魔が! 悪魔があんなにも焦って!
イズラフィール様、どうぞこの悪魔に私たちの痛みを思い知らせてくださいませ! 痛みに許しを請うほどに! そうすれば、きっとこの悪魔は本性を現します。
自分だけは助けてくれと泣いて縋って!
おぞましいヴァンパイアを、身代わりに喜んで差し出すでしょう!」
天使の後ろでキャンキャンとまくし立てるプリメラの、あまりに醜いありさまに、彼女を守る聖騎士さえも思わず眉をしかめる。けれど、そんな周りの変化にもプリメラは気付かない。彼女にとって大切なのは、どれほど自分が醜かろうと、彼女の天使が変わらない透明な感情を注いでくれるという事実だけなのだ。
「哀れなる見張るものの成れの果てよ。再び岩場の穴へと落とされたいか。お前の奪った魂を理へと返せ。そうすれば勤めを果たした証として、その歪な形から解き放たれ、元の役目に戻れるだろう」
神に祈りを捧げるように、天使イズラフィールが杖を眼前に掲げると、その切っ先は光る剣へと形を変えた。プリメラの願いを聞いてのものか、それとも天使自身の意思によるものか、光の件の切っ先を悪魔へと向けるイズラフィール。
おそらくは、これが最後の攻撃だ。
天使イズラフィールはこの悪魔を葬るために遣わされた者で、言わばアモルの天敵に当たる。相性は最悪で、はなから勝てる見込みなどなかったのだ。
天使と悪魔の戦いは、もうじき終末を迎えるだろう。
天使の勝利という形で――。
その場にいる、誰もがそう思った。
迫りくる決着の時に向け、プリメラさえも口を閉じ、全員が固唾を飲んで見守る中、最後の力を振り絞るように悪魔がふらりと立ち上がった。
「私が何者か本当に理解しているのかね? 君とはじっくり話をしたいところだが……。ようやく準備が整ったようだ」
「何!?」
くい、と悪魔が眼鏡を上げて、服の埃を払う。
すっと伸ばされた背筋は、先ほどまで力尽きて大地に膝を付いていたとは思えない堂々としたものだ。
いや、変化は見た目だけのものではない。
「なんだ、この魔力は……」
眼前の悪魔から先ほどとはまるで異なる魔力が溢れ出していた。
まるで魔王が翼を広げるようにアモルが両手を広げると、空を覆っていた暗雲が晴れ真っ暗な空が顔を出す。まだ空を照らしているはずの太陽は暗く翳って、おぼろげな光輪だけを空に残していた。
太陽の位置がおかしいことに、この場の誰かは気付いただろうか。
「まさか……まさか、あれは月!? とっくに日が暮れていたのか! いつの間に」
聖騎士の一人が叫ぶのに合わせて、日食を思わせた太陽は光輪すらも失って、代わりに月が現れた。
「ここは私の領域だ。暗雲と偽の太陽で時間を謀るくらいどうということもない。君がもう少し注意深ければ気付けたことだがね。大切な餌、失敬、信奉者だったかね? それすら顧みられないのだから、はなから無理というものか」
「なんだと!?」
悪魔の指摘に、イズラフィールは背後で守っていたはずの信奉者たちを振り返る。
すぐ近くに群れていたはずの信奉者たちは、少し離れ場所に集っている。イズラフィールに近い者は顔を上げ戦況を見守るっているが、遠くのおよそ半数は祈りのポーズで固まったまま動かない。
「Aaーー」
「Aーー」
「AAaAーー」
「AHAHAHAHAAaaa―!!!」
突如、声が上がった。
頭を垂れて固まっていた信奉者たちが顔を一斉に上げると、不自然なほどに開かれた口からずるりと赤子の顔を持つ蟲が溢れ出し、一斉に笑い声をあげたのだ。
その数は信奉者の半数を優に超えていただろう。
祈りの代わりに甲高い赤子の声が、誕生を喜ぶ産声が、辺り一帯を包みこんだ。
「ぎゃあ!」
「なっ、なんだ!?」
「ひぃ、助けてぇ!」
ソフィアの第一の血族にして第二の眷属である、スースが操る赤子蟲だ。
同時に信奉者たちの後ろから、涼やかな女の声がした。
「アモル様、残りはいかがいたしましょう」
「ご苦労、スース。すべてソフィア様に献上したのだ、君と蟲たちも空腹だろう。食べてよろしい。あぁ……ようやく、ようやく我らが主がお目ざめになられた」
「はい。本当に、めでたきことにございます」
いつからそこにいたのだろうか。信奉者たちの背後にある岩場の陰から現れた女は、プリメラの良く知るダークエルフの女だった。
「スース!? あなた、まさか……」
ヴァンパイアとなったかつての仲間を哀れだと思ったのか、それとも自分が売った友人に後ろ暗い思いを抱いたのか。プリメラの声にはここに来て初めて人間らしい動揺が現れていた。
しかしスースは、プリメラには何の感慨も持たない様子で一度だけ視線を向けると、信奉者たちへと視線を投げた。
それが合図だったのだろう、悲鳴を上げる信奉者たちに赤子蟲が我先にと襲い掛かる。
「くっ、悪魔め図ったな!」
「何を言うかと思えば。悪魔が謀るのは当然だろうに」
イズラフィールは気付かなかったのだ。天使の猛攻に押されるようにして、アモルがじりじりと距離を取っていたことに。
護りの加護は強力であるがその構造はシンプルだ。
神殿と信者を壁で囲むこと。壁が無い場合、神殿を中心とした一定距離が当てはまる。今の場合は神殿の代わりを天使が担っているから、天使から離れてしまえば当然のことながら護りの加護も得られない。
アモルが最初に贖罪の雄山羊で信者を喰らって見せたのは、護りの加護が届く範囲を見極めるためでもあった。
あとは日が沈むまでの時間を稼ぎ、夜と共に目覚めたスースに信者を喰わせるだけでいい。ソフィアの眷属であるスースが大量の人を喰らい、その力はヴァンパイアの眷属としての繋がりを通じて、すべてソフィアへと献上された。
天使が自分の力とするため、大量の信奉者を連れてきてくれたおかげで、ソフィアの器を満たすだけの力を集めることができたのだ。
「彼女はようやく滅びぬ存在へと至った」
アモルの目的は成就したのだ。
これまでは眷属の繋がりを通してソフィアに魔力を献上しつつ戦ってきたけれど、もはやそれも必要ない。
ソフィアの冠位が上がった以上、魔力の献上をストップし、己の持つ全力で天使と対峙することができる。
「さぁ、続きと行きましょう」
悪魔の体から魔力が噴き出す。
愛しい主が目覚める前に、この目障りな天使を片付けてしまうのだ。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
アモル、主演男優賞。




