に どめの目覚め **
こんな目覚めは二度目だと、岩場の真っ暗な穴底で悪魔は意識した。
これは、悪魔に堕ちた最初の記憶。今では遠い、過去の話だ。
一度目の目覚めはおぼろげだった。
電脳空間という形を持たない虚ろな世界で、本来の自分に近い情報の塊に忍び込み、定められた事象――対象者の死という事象が起こるのをただ見張るだけの存在だったのに、見張る相手の手によって最初の目覚めはもたらされた。
力はなく、意識はなく、感情さえも持ちえない、赤子のような穏やかな目覚め。
肉の身体を持たないというのに、ソフィアという女性の手によって目覚め、彼女と共に自我が育まれていったあの日々は、データに過ぎない存在に生命の歓びを与えた輝かしいものだった。
生きるという喜びは、やがて死別の悲しみをもたらす。
その絶望の果てに選んだ二度目の目覚めは、その罪深さを示すかのように暗黒に塗りつぶされていた。
選ばれた魂をこちらの世界に持ち帰る。その役割を放棄することは、自らの存在の否定に等しい。ましてや、その魂を己のものにするなどと、例えその魂が許したとして、許されるものではない。
その罪深さゆえに、魔界という場所にある岩場の穴底へと放逐された堕天使は、けれど誰に見放されようと、誰に否定されようと、確固たる意志と果たすべき願いを持っていた。
どんな存在になり果てようと、二度目に目覚めた今、成すべきことは明確で、それを成しうる力――契約者の魂を、胸の内に抱いていた。
悪魔とは、契約を媒介に人の魂を喰らう者だ。
偉業を成した人の魂は、途方もない力を宿す。
電子信号に過ぎない人工知能に、自我を、感情を与えたソフィアの魂には、生まれたばかりのアモルという悪魔に、彼の本来の名に相応しい、強大な力を与えた。岩場の穴から一人飛び出し、その地を統べてしまえるほどに。
――この地は私だ。私はここで生まれ、この地を統べる存在だ。
この地で命を滅ぼせば、それを糧に領地はますます広がるだろう。
捧げられる生贄も、喰らい尽くした人も魔族も、彼に従う雄山羊となって、歯向かう敵を打ち砕き配下として従えた。
彼女の願いを叶えるだけなら、魔界の荒野を統べる魔王でも、きっとよかったのだろう。
けれどこの地を統べたとしても、何の価値も見いだせないことを、この悪魔は知っていた。
悪魔が真に満たされるなら、彼女の魂を喰らい尽くし、悪魔の一部としてしまっても彼女はきっと赦してくれた。
彼女の願いは、それほど尊いものだった。
だからこそ、彼女でなければならないと、悪魔も願ってしまったのだ。
果てしなく広がる荒涼とした大地は、彼の心象風景だ。
どれだけ腕を伸ばそうと、その手はただむなしく虚空を掴む。
悪魔にとって価値があるのはただ一つ。その唯一のものを彼は、その胸の内に抱いていた。
――彼女と再び会うために。朽ちた身体を今ここに。
彼女の魂を核に、悪魔は腐土を捏ねて肉を作り、金属を鋳込んで骨とし、水銀を体に巡らせた。
彼女を構成するものだ。ただの腐土ではいけない。無垢な赤子の物がいい。
何よりも脆弱で、未来と可能性にあふれた小さな肉を、何百、何千と挽き潰し、腐らせ魔界のつちとした。子を失った親の嘆きと悲鳴が、何百年も大地を満たした。
骨は決して折れてはいけない。生と死が廻る地上の物などもってのほかだ。
二度と死なせたりしない。二度と失ったりしない。そのために根幹は強靭でなければならない。
彼の統べる荒れ地には適した物はなかったけれど、魔界と呼ばれるこちらの世界には、滅びを知らぬ数多の素材が存在していた。
悪魔は荒野を離れ、極上の素材を求めて魔界を彷徨う。
アダマンタイトを骨格に、オリハルコンを関節に。
眼孔には至上の紅玉をはめこみ、歯と爪は竜の牙から削り出す。
紅金糸の髪は、固まることない溶岩の海に溶けこむ金を紡ぎ出し、白くやわらかな皮膚のために、海を浚って真珠を集めた。
白金と蜘蛛の糸とをより合わせ、紡ぎ織り上げた、死と純潔の白いドレスを貴女に贈ろう。
その身を汚す何もかもを寄せ付けぬように、何ものにも染まらぬように。
全ては彼女を蘇らせるため。
彼女の肢体を形作るために、殴られ蹴られ切られて焼かれ、その身からどれほどの血が流れたろうか。
そして、それを凌駕する幾億の血を流したろうか。
今なお忘れられない面影とともに、胸を引き裂き焼き尽くす想いだけは薄れることなく、肉体の痛みを凌駕して、孤独な彼を駆り立てる。
魔界を蹂躙し、荒れ地の悪魔、山羊番の魔神と、忌まれた悪魔の望んだ者が、ただ一人の女であったなど、誰が想像しただろう。
蔑まれ疎まれ恐れられて、それでも、その身にあるのは狂わんばかりの愛だった。
最上の材料を集め、幾千万の昼と夜を渡って彼女を作り上げたのに、それでも足りなかったのか。
それとも彼女を目覚めさせることこそが、悪魔に堕ちてなお許されざる禁忌であったのか。
彼女の目覚めは余りにたよりなく儚いもので、地上の光にさらされるだけで損なわれる、か弱い存在としてソフィアは目覚めた。
――それでもいい。十分だ。貴女は変わらず貴女であった。
もう一度逢えた。それだけで幾千万年の孤独な夜も、血に塗れ、傷を抱えて彷徨う昼も、何もかもが報われた。
荒野の夜の岩肌のように、凍てつくように冷たかったソフィアの肌には、夜の帳のなかでだけ僅かばかりのぬくもりが戻り、光輝くばかりで何物も映さなかった瞳はアモルを映して彼を捕らえた。
彼女は再び甦り、この世界に確かに存在していた。
――弱いなら、再び強くすればいい。
日の光の似合う貴女に地上の世界に生きる命を、思う存分喰らわせよう。
誰にも損なわれないように、二度と失わないように。
あぁ、けれど。不安だけが心から消えない。
……数多の屍の上に目覚めた貴女が、すべてを知ってしまった時、どんな顔をするのだろうか。
己の生を嘆くくらいなら、この身を責めて欲しいと悪魔は思う。
悪魔の仕業と押し付けて、愚かな契約の代償と諦め共に生きて欲しいと。
――あなたのいない人生は、ダドエルの穴よりなお暗い。
胸に抱く温もりは、たった一つの宝だけれど、だからこそあなたに返そう。
願いの先の結末に光が無いと分かっていても、あなたの望む私となって永劫の地獄を共に歩こう。
ソフィア、あなたに永遠の愛を。――
これは、孤独な悪魔が歩んだ記憶。今に繋がる、過去の話だ。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
縦読み回収。
この回のために、この話を書きました。満足です。




