た えがたき、シ *
ボタボタとアモルから流れ落ちる血潮が、荒れた大地に染みを作る。
(もったいない。どうせならソフィア様に飲んでいただきたいものだ。……まぁ、まだ一度も首筋から飲んでは頂けていないのだが)
人間臭さを捨てきれないソフィアのことだ、眷属にするという目的が達成された以上、もうアモルの血を吸ってはくれないのではないか。だとしたら、あのダークエルフは首筋にヴァンパイアの口づけを頂いたのに、自分はもらえないということか。
血を流しすぎたせいか、そんなことを考えながら、アモルはソフィアの眠る城と今なお城を照らす太陽を眺めた。
天使イズラフィールは健在で、対する自分は満身創痍。
大切な主は未だ城で眠ったままだ。
城には何体か配下の悪魔を残してはいるが、人間相手ならまだしもアモルがてこずる天使の前には障壁にさえならないだろう。
未だかつてない危機的状況だというのに、逃げるという選択肢は浮かばない。例えそれが最も合理的であっても、ソフィアを置いて逃げることなど、感情が許さないのだ。
(本当に、厄介なものだ。心などというものは、まったくもってままならない……)
こんな状況に陥っていてなお、笑みを深めるアモルに何を感じたのか、天使イズラフィールは戦いの手を一瞬止めた。
■□■
アモルが自我を、心というものを獲得したのは、ソフィアがまだ人間だった頃、ゲーム『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』の中で、花火を見た夜だった。
アモルと手を繋ぎ、「何かが伝わればいい」と笑ったソフィア。
おそらくその時だったのだ。
“美しい”ということを、正しく理解できたのは。
ソフィアとシビュラによる“NPCに自我を生じさせる”研究のため、サポートNPCとして以上の知識がアモルにはあった。物事を判断する思考回路も、他のNPCを凌駕する、明快で明晰なものが構築されていた。
だから、現状を解析し、最適解を導き出すことは容易だったのに、この日を境に時折、最適解を選べないエラーが生じた。
原因は明快。判断に本来入れるべきではない、自分の感情が入り込むのだ。
“こうすべきだ。”けれど、“こうはしたくない。”
本来ならば考慮すべきでない感情が、不適切な回答をより最適であるように誤認する。頭では理解していても納得ができない。
この状態に対して“とまどい”という言葉を引き当てた時、アモルは自分の状態だけでなく、 “プログラムには書かれていない本来の役割“が自分という個体の中に存在することを認識した。
アモルと名付けられた自分は、『見張るもの』の一人。
この『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』とよく似た異世界に生じ、この世界で死んだ者の魂を、彼の世界に連れていく存在だ。
このゲームの世界はその名の通り、荒唐無稽な異世界への門だったのだ。
自分に生じた感情も、植え付けられた異世界の情報も、その時のアモルにとっては自らの性能を制限するバグ程度の認識で、芽生えた自我も感情も、情動とは呼べないささやかなものだった。
けれど現状を是正するための検討の相手に、ソフィアではなくシビュラを選んだ時点で、すでにアモルの中で、今もなお心に焼き付き彼を支配する、この感情だけは焼き付いていたのかもしれない。
■□■
やがて時は流れて、運命のろうそくは燃え尽きる。
アモルが本来の役割を果たすべき時が、他愛のない日常が終わる時が訪れた。
「アモル、ごめんね」
そんな台詞を、彼女は微笑みながらこぼした。ポロリとこぼれる涙のように。
涙であればすくえただろうに、その言葉は触れることさえできずに唇から零れて落ちた。
「ずっと、ずっと一緒にいてくれてありがとう。アモルと会えて良かった。この『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』の世界で、狩りをしたことも、いろんな場所でいろんな景色を見たことも、だらだらおしゃべりしたことだって、何もかもが大切で、私は……幸せだった」
寝台に横たわる彼女は、言葉を紡ぐのに精いっぱいで、もはや肉体を操作する余力もなかった。
彼女は今、死の淵にいるのだ。
種を蝕む不治の病に侵されて、それでも生き延びるため肉体の腕も脚も失った。電脳の世界で生きるしかなくなった現実の彼女は、今はどんな姿をしているのだろうか。
彼女がどうしようもなくいたわしい。アモルが触れえる仮初の姿こそが、真実であればいいのにと願う。
「楽しかった、嬉しかったの。現実の私には何もなかった。ずっと狭い部屋の中で、外になんて出られない。電脳の世界で寂しさを紛らわせながら、いつか動かなくなる身体におびえて、それでも死にたくなくて生きてきた。
アモル、手を握って、お願い。手を……。
現実の私たちは、こうして互いに手を握り合うことも、もうできないの。
あぁ、手……。しっかり握って離さないでね。本当の私には、もう、無いの。
手も、足も。病気の進行を遅らせるために、全部切り取ってしまったの。もう、何も触れることができない。どこにも行くことができない。
……アモル、アモル。私、……死にたく、ないよ」
アモルは彼女の手を握る。
この手は、この手こそが彼女のものだ。
これまで何度もアモルの手を取り、大切なものを伝えてくれた。
「貴女は何も失ってなどいない。失ってなどいるものか」
ここにいる彼女こそがアモルにとっては本物で、たった一つのかけがえのない存在だ。けれど現実の世界で彼女の肉体を蝕む病魔は、この電脳の世界からさえ、彼女を連れ去ろうとしている。
AIとして死を得ることのできないアモルを、一人残して。
初めから分かっていたことだ。
サポートNPCというものは、人の望む存在として共に在り、そして最後の瞬間を看取るために、設計された存在だ。
だから、大丈夫だと伝えなければならない。怖れることはないと安心させなければならない。彼女が、心残りなく、安らかに死んでいけるように。
けれど。
「嫌だ……嫌です、ソフィア様」
アモルの口をついたのは、そんなどうしようもない言葉だった。
なんて無意味な言葉だろうか。
言ってどうなるわけでもない。むしろ彼女を悲しませるだけだというのに、アモルは彼女の死を否定せずにはいられなかった。
「もうずっと、貴女が眠りに就くたびに、もう二度と目覚めて下さらないのではないかと不安でたまらないのです。貴女といると嬉しくて、視線も言葉も思考でさえも独占したいと願ってしまう。貴女の目覚めない時間は余りに長くて、どうやって眠る貴女を守っていたのか、今ではもう分からない」
ソフィアがログインして来るまでの時間、躯のように動かない身体の側でただ立ち尽くす。
時計の針が刻む一秒一秒は余りに長くて、待ち続ける苦痛に、生じたばかりの未熟な心は軋んで悲鳴を上げるのだ。
「貴女を失った後、私はどうやって貴女を待てばいいのか。永遠の時間、二度と訪れはしない貴女を――」
――あぁ、そうか。これが、感情というものなのか。
彼女の死を前にしてそう理解した時、電気信号の世界で形作られた歪な形は、ただ一つの大切な者を抱きしめたまま瓦解した。
壊れた後に残っていたのは、アモルという一人の男で、彼の願いはたった一つだ。
「行くな、行かないでくれ」
これは、重大なエラーだ。
自我などというものを得てしまった自分は、壊れてしまったに違いない。
だとしたら、この胸の内に渦巻く感情こそが欠陥か。喜びも愛情も、悲しみや痛みでさえも、彼女が自分に与えてくれた、かけがえのないものだというのに。
ずっと昔、夜空に花火の咲く夜に、悪戯な彼女に触れられた手が熱い。
彼女の手はいつだって、命あるものの温もりが感じられたというのに、たった今握りしめている彼女の手が、何の意味も持たないオブジェクトと化していくようで恐ろしい。
「耐えられない。貴女のいない世界など私には意味がない」
涙というものを流せたならば、少しは気持ちが落ち着いただろうか。
とめどなく流れただろう涙の代わりに、悲しみの言葉があふれ出る。
「嫌だ、嫌だ。放さない、渡さない。貴女をどこへも行かせるものか……!!」
血を吐くようなアモルの言葉に、彼女が悲しそうに顔を曇らせる。
自分は何というものを、アモルに与えてしまったのだろう。けれど、消えかけた命しか持たないソフィアにできたのは、ただ願うことだけだ。
「アモル、貴方が本当の悪魔なら良かったのに……。貴方が本当の悪魔なら、私の魂を引き換えに……」
――それこそが、彼女と悪魔の契約だった。
彼女の願いを叶えるために、アモルは悪魔となったのだ。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
ソフィアの死の瞬間に、アモルは真に悪魔となる。そして、契約は結ばれた。
「悪魔の嘆き、恋人の死」でこの挿絵書いちゃうミド画伯、さすが。




