な にもない荒れ地にて **
この男は悪魔だと、その場にいる誰もが理解した。
「悪魔め、神の怒りを知れ!」
アモルに罵声を浴びせたのは、天使の翼の遥か奥、集団の最も後ろにいる一人だった。
悪魔からはもっとも遠い位置にいるから、安全だとでも考えたのだろう。卑怯者の所業だ。この男は知らないのだ。この荒れ地全体が悪魔の領地であり、手の平の上であることを。
「さぁ、荒野に潜む雄山羊よ、新たな生贄を歓迎する時間だ」
笑みを深めたアモルがそう命じるや、一面に転がる岩石の影が伸びて形を変える。地面から離れるはずのない影が質量を持って立ち上がると、天使たちの後方にいる信奉者たちの集団に覆いかぶさる。
一体一体が馬ほどもあるその影は、立派な角を生やした雄山羊のようでもあり、巨大な悪魔の手のようにも見えた。
音すらもない急襲だ。襲われた一団が、急に暗くなった周囲に驚き辺りを見回した瞬間、自分たちを取り巻いた真っ暗な闇にいくつもの目が浮かび上がった。
横に広がる奇妙な瞳孔。次いで、足元に広がったのは巨大な口だ。
その歯列は獣のようにとがったものではなく、人のそれに酷似している。どのように肉を噛み切り、磨り潰すのか。誰もが良く知る咀嚼するという行動が、これから自分たちの身に降りかかる惨劇が、愚かな信奉者たちの脳裏をかすめる。
「め゛ぇ」
足元の口から吹き上がる、生臭い息。
獣臭くも生臭い、湿気た吐息が彼らの肌を撫でた瞬間、彼らはその口の中にいた。
「ぎゃあああ!」
「ひぎぃ、た、助けてぇ!」
信奉者を呑み込んだ黒い影から、血飛沫と絶叫が噴き出す。バキボキゴキと異様な音を響かせながら、影は揺れ、縮んでいく。影に囚われた捕らわれた人間たちが、咀嚼され、得体のしれないどこかへ飲み下されていくのだ。
――<贖罪の雄山羊>
悪魔の領地、この荒野に住む闇の山羊たちだ。
彼らに喰われた者たちは、贖罪の雄山羊として蘇り、永遠にこの荒れ地に囚われる。水もなく、草一本生えない荒れ地で新たな生贄が訪れるのを待ち続けるのだ。
めぇ、めぇ、めぇ、めぇ。
かつてエルフの襲撃者たちを弄び、食い散らかした雄山羊は、それよりもはるかに多い生贄の数に涎を垂らさんばかりに声を上げる。
エルフとは比べ物にならない脆弱な生贄だけれど、数だけは十分にいる。山羊たちの終わらぬ飢えは束の間だけ満たされよう。
天使と聖女の軍勢は無数の山羊に取り囲まれ、もはや森に駆け込むことすらかなわない。
山羊たちの口から滴る唾液。獲物を見据える視線。
山羊の形をした無機質な影から伝わる飢えを肌で感じ、半ば狂乱に陥った信奉者たちは天使と聖女、ここにある奇跡に助けを求めてすがる。助けを求めて天使の方へ動くほど、軍勢を囲む影は狭まり、押され圧迫された信奉者が悲鳴を上げる。
「て、天使様、お助けを」
「かかか、神よ!」
「おい、押すな! 押すなよ、来るな!」
「あぁ、神様……」
「ぎゃあぁ、痛い!」
カァン!
助けを求めて逃げ惑う人々を、影の山羊に喰われる第二第三の絶叫さえをも止めたのは、天使イズラフィールが打ち鳴らした軽やかな杖の音だった。
「メ゛ェエエエェッ」
代わりに上がったのは影の山羊たちの絶叫で、打ち鳴らされた杖の先端から光の波紋が広がると、それに触れた山羊たちが光に照らされた影が消え失せるように消滅していった。
「――我に祈りを」
天使イズラフィールが翼を広げ、信奉者たちに告げる。
「おぉ、天使様」
「天使様」
「天使様……」
この天使なら、悪魔の手先からさえも自分たちを守ってくださる。
悪魔の恐ろしさと、それさえも退ける天使の奇跡を目の当たりにした人々は、一斉に跪き、自分たちの守護天使へと祈りを捧げ始めた。
「さぁ、プリメラ。貴女の願いを祈りへと変えるのです」
「はい。私の、天使様」
跪く信奉者たちのなか、一人立つプリメラ。
天使の翼に守られた彼女は、まさしく聖女のようにひるむことなく悪魔を見据える。
かつて、城の地下室に捕らえられていた時は、ただひれ伏して立ち去るのを待つしかできなかったけれど、もはや恐れることはない。天使の翼の元に在る限り、天使の愛に包まれている限り。
「忌まわしい悪魔め。これほど汚らわしい存在なのに、どうしてそんなに……」
人の感情を見通すプリメラの瞳には、天使の率いる軍勢を前に一人立つ悪魔が記憶に残る姿よりはるかに激しく美しい紅の炎に包まれているように映っていた。
この悪魔は天使とその信奉者たちの集団を前に、逃げず臆さず立っているのだ。たった一人、大切な誰かを守るために。
それに対して自分のいる場所はどうだろう。
天使に祈りを捧げる人々の群れは、プリメラ以外の人間の目には敬虔な信者を描いた絵画のようにさえ見えるだろう。
しかし彼らから滲み出る感情は、自分だけは助かりたいという独善的なものだ。中には天使が悪魔を斃した後を想像してか、悪魔の後ろにそびえる豪華な城に欲望を滲ませてさえいる。天使と共に在る自分たちこそが正しく美しくあるはずなのに、プリメラの目にはまるで泥濘から手を伸ばす亡者の群れのように映る。
「どうしました、プリメラ。私に貴女の祈りを」
「はい、イズラフィール様」
天使の視線がプリメラを見る。プリメラは自分に向けられる無色の光を感じる。
(あぁ、そうよ。私こそが手に入れたのよ。天使の愛、神の愛、崇高なる真実の愛を)
プリメラはイズラフィールに向かって跪くと、祈りの姿勢で目蓋を閉じた。
この世界に満ちるあらゆる感情の色から目をそらすように。自分が得ているはずの無色の光こそ唯一であると信じるように。
「イズラフィール様、貴方の愛に応えます。邪悪なる悪魔に神の裁きを!」
「神の裁きを!」
聖女プリメラの叫びに続き、信奉者たちが声を上げる。
今、その祈りは一つとなり、祈りを通じて彼らの魂の輝きが天使へと集まっていった。
光を放つ天使イズラフィールの翼。信仰によって信徒の魂の一端が、天使に捧げられたのだ。
この世界には、天使も悪魔も実在する。
カルマの面では対極に位置し、正義と悪の体現者として人間に認識されるが、根底において類似の存在であることを、人間たちは理解していない。
悪魔が『契約』という行為を通じて人間の魂を奪い、それを力に変えるのと同様に、天使は『祈り』を通じて信奉者の魂に触れ、神の奇跡を行使するのだ。
天使の降臨などという、神の奇跡そのものを起こした魂が、一体どれほど損耗するか。それを知るシシア教国の上層部は、神の奇跡の代償を理解しているが故に降臨の間を隔離したのだ。十分に徳を積み、天使の降臨に耐えうる魂の持ち主だけが依り代となるように。
「聖女プリメラよ、そして弱く罪深き人々よ。その願いを聞き届けよう。汝らすべての祈りをもって、あの悪魔を打ち滅ぼそう」
天使イズラフィールの言葉は、恍惚とした表情で祈りを捧げる人々の耳にひどく心地よく響く。
「天使というのは随分と大喰らいなことだ。暴食は罪ではなかったのかね」
「黙れ」
ただ一人、この場に立つ悪魔に向かって、イズラフィールは翼を広げて飛び掛かった。
ガキィンッ。
ひときわ重い音が響き渡り、振り降ろされたイズラフィールの杖を、アモルの影から湧き上がった人の数倍ほどもある腕が受ける。
支配する第三の手。
アモルの持つ、最大の攻撃手段の一つだ。
けれど、イズラフィールの杖が白く輝く祝福の杖を受け切った第三の手は、その衝撃に耐えきれず、ガラスのように砕けて消える。
ガンッ、ガンッ、ガガガガッ。
アモルの支配する第三の手は、影のある限り尽きることを知らないように、絶え間なく湧き出しては攻撃を受けるけれど、イズラフィールの連撃は、一撃一撃が巨大な斧でも振り下ろされたかのように重く、打ち合うたびに第三の手は打ち砕かれる。そればかりか、受けきれない衝撃波に、周囲の岩が砕け飛んでいく。
「これほどの力を蓄えるとは。悪魔め、どれほどの魂を喰らった!」
「君ほどではないよ。魂の格の差だ」
軽口を返してはいるが、激しい攻防にあたりの岩場だけでなく衝撃波によりアモルの体も傷ついている。
腕に、腿に、足に、頬に。
致命傷には至らなくとも、小さな傷が蓄積していく。相対する二人の優劣を示すように、城に向かってじりじりとアモルは後退させられている。
このままでは、ソフィアの眠る城に傷がつく。
そのように判断したのだろうか、それとも近距離攻撃は分が悪いと判断したのか、アモルはバッと斜め後ろに飛び退ると、イズラフィールに向けて続けさまに魔法を放った。
「<地獄の鎖>、<炎の翼>」
アモルの詠唱によって一面に散らばる岩の残骸が瞬時に赤熱して溶けたかと思うと、鎖となってイズラフィールに絡みつく。次いでアモルの周囲に浮かんだ火球が鳥のように形を変えると、鎖に自由を奪われたイズラフィールに襲い掛かった。
一瞬で炎に包まれるイズラフィール。
けれど次の瞬間、光の翼が羽ばたいたかと思うと、骨の髄まで焼き尽くさんばかりの業火は掻き消され、僅かに煤に汚れた程度のイズラフィールが立っていた。
軽く杖を振るうだけで地獄の鎖さえも断ち切ったイズラフィールは、開いた距離を一気に詰めてアモルに重い一撃を振り下ろす。
一進一退の攻防をどれほど続けただろう。
あと少しで日が落ちようというその時に、天使イズラフィールの攻撃の下、ついに悪魔は大地に膝を付いた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
アモル 「えいえい、ぽかぽか」
イズラフィール「このこの、ぼかぼか」
アモル 「……痛い」
あと8話です!
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