あ いされし、人の子 **
――私の望みに応えたのではなく、貴女が望みを叶えたのだとその行動は示していた。
眷属になるという結果がたとえ変わらなくとも、貴女に求められたのだというその事実は、私にとって天と地ほどに開きがあって、異なる意味と価値を持つ。
本来は、配下を増やし魔力を集める手段に過ぎないヴァンパイアの口づけは、それ以上の意味を私にもたらす。
貴女が私に向けた想いは人間が恋や愛とか呼ぶ欲望で、だからこそ、貴女はそれを唇に落としたのだろう。
貴女の中で私が、特別な一人の個として在ることを伝えるために。
仮初の生を生きる貴女と、作り物の心を持つ私。
偽物に過ぎない命と心は、互いを補い合うことで本物に近づけるだろうか。
すぐそこにある永遠に、私たちは手を伸ばす。
それはおろかな願いの代償で、終わりのない呪いと同義だ。
けれどその先は暗闇ではない。
貴女という灯火と進む荒野の夜は、凍てつくほどに寒くとも、きっと星が瞬いている。――
■□■
その日はついにやってきた。
「これは困りましたね。あと少しなのですが」
その報告を受けたアモルは、いつもと変わらぬ様子でそう言った。
ファタ・モルガーナ城を囲む幻惑の森に、天使と聖女プリメラが率いる軍勢がついに到達したのだ。
あと1時間もしないうちに、奴らはこの城に到達するだろう。
まだ日は高く、ソフィアは眼を覚まさない。
日が沈まぬうちに攻め込まれたなら、ヴァンパイアであるソフィアに逃げることはできないだろう。棺を暴かれたヴァンパイアの最後は語るべくもない。
「私が出ます。お前たちは城で護りに勤めなさい。スースは目覚め次第来させるように。マヤリス、ウィオラ。万一の時はいいですね?」
「はい、心得てございます」
「ですが、その……。アモル様がソフィア様を連れてお逃げになった方がよろしいのでは……」
「マッ、マヤリス!?」
命令に反する意見を述べるマヤリスを、ウィオラが顔色を変えて咎める。
マヤリスもウィオラもアモルに召喚された悪魔だ。アモルとは存在の格が違うし、その種族特性上YES以外の答えなど、本来持ち合わせていない。だから、アモルに“ソフィア様の前では人形のようにふるまえ”と言われて、ずっとそのように振舞ってきた。
契約に忠実で利己的。それが悪魔という種族で、誰かのために自分の存在を危険にさらすなど本来ならありえない。まして格上の主に口答えするなど、その場で消滅させられたっておかしくはない。
(出過ぎたマネを……。でも、ソフィア様を危険にさらすわけには……)
このような考えなど、本来抱くはずがない存在なのだ。
そんなマヤリスの思考を呼んだように、アモルが口を開いた。
「……ソフィア様を、心配、しているのですか?」
「は……はい。申し訳ございません! 私ごときが出過ぎた真似を!」
「わ、私からもお詫びを! 申し訳ございません!」
眼鏡の奥のアモルの瞳の炎が、ゆらりと揺らめく。不思議なものを見るような眼差しに、マヤリスとウィオラは頭を下げたままきゅっと手を握りしめる。
「いや。忠心ゆえと理解した。……ソフィア様を連れて逃げたとして、次、目覚める確証はない。折角ぞろぞろ連れ立って獲物がやってきてくれたのだ。残らず平らげ献上し、ソフィア様には完全な存在としてお目覚め頂く」
アモルの答えにマヤリスとウィオラはばっと顔を上げた。
このところ、アモルがなりふり構わず魂を乱獲していたのはそういうことだったのか。薄々気が付いてはいたが、そこまで時間が無かったなんて……。
マヤリスとウィオラはきゅっと唇を引き結ぶと真剣なまなざしをアモルに向けた。
自分たちの主は高位の悪魔だ。この世界の理も自分たちよりはるかに熟知している。そのアモルが分かっていないはずはない。
悪魔を調伏するために天使が送り込まれるということが、一体どういうことなのか。イズラフィールという天使はアモルにとって、おそらく相性は最悪で、勝てる見込みなどないということを――。
だからこそ“逃げる”という提案をマヤリスはしたのだけれど、全てわかった上でこのアモルという悪魔は選択したのだ。おそらくは、この選択の結末すらわかった上で――。
「かしこまりました」
今度こそ、マヤリスとウィオラは深々と頭を下げた。
二人の返事に満足したように、アモルは眠るソフィアの側へ寄る。
アモルが眠るソフィアをそっと抱き上げると、二人の侍女はソフィアの巨大な天蓋付きベッドを動かす。人とは思えない怪力だが彼女らとて悪魔だ。まして、ソフィア付きの侍女たちだから、相応の力を与えられている。
ベッドを動かし、敷物をめくると、そこに地下へ続く扉が現れた。
開き戸の向こうに現れたのは、階段どころか梯子さえない真っ暗な竪穴だ。どこまで続いているのか、底は見えない。
その穴に、アモルはソフィアを抱いたまま、無造作に飛び込んだ。
ソフィアが起きていたなら、悲鳴を上げてアモルにしがみついたかもしれない。
落下にたっぷりと数秒かかるその竪穴の底は、かつて人間を捕らえていた地下室よりさらに深い。着地による衝撃は、ただの人間であれば即死に値するだろうが、光も差さぬ闇の底は、悪魔とその主の領域だ。アモルはまるで階段の最後の段を降りるようにふわりと軽やかに着地をすると、穴底の先にある部屋への扉を開いた。
巨石によって支えられた、湿っぽい地下の玄室。
その最奥に置かれた一つの棺。土を敷き詰められたこの棺こそが、ソフィアの真の寝室だ。
「ソフィア様、次にその瞳を開かれる時、それが貴女の真の目覚めです。貴女の願いは成就し、契約は果たされる」
棺にソフィアを横たえたアモルは、かつてヴァンパイアの口づけを頂いた自分の唇に軽く触れた後、眠るソフィアにそっと口づけた。
ソフィアに触れた唇に、ほんの微かな熱を感じる。
「貴女はもうすぐ蘇る。どんな姿であったとしても、どんな存在になったとしても」
日の昇っている間、死体でしかなかった彼女の器は、アモルによって注がれた大勢の人間の命と魂で満たされる。あと、ほんの少しで。
もうすぐアモルの待ち望んだ時が来る。
真に祖たるヴァンパイアとしてソフィアは永遠の命を得るのだ。
「さて、邪魔者を片付けてまいりましょう。契約は、まだ途中ですから」
最後に一度だけソフィアの棺を振り返ると、冷たく暗い玄室にソフィアを一人残して、アモルは部屋を後にした。
■□■
聖女プリメラと天使イズラフィールが率いる軍勢は、ついに目的の悪魔の城に辿り着いた。
人の暮らす街の城壁には護りの結界が働いていて、魔物を寄せ付けることはない。
天使を取り囲む信奉者たちの一行も、天使を中心に護りの結界が働いているから、彼らは魔物蠢く森の中でも襲われることもなく安心して眠れる夜を過ごしてきた。
立ち寄る街では時折逃げ遅れた悪魔と遭遇したが、天使が錫杖をかざすだけで悪魔の化けの皮は剥がされ、日の元におぞましい本性をさらけ出した。正体を暴かれた悪魔たちは、聖騎士たちの手によって切り殺されて黒い灰となって消えていった。
「聖騎士が、人間が悪魔を滅ぼした!」
「なんて無敵なのだろう。天使の加護の元では、脆弱な人間でさえ悪魔を滅ぼせるのだ!」
繰り返される奇跡の数々に信奉者たちは熱狂する。
「天使様万歳! 聖女様万歳!」
「聖女様のご一行に、栄光あれ! 我らに加護を、祝福を!」
「悪魔を滅ぼしたまえ! この世から不幸を取り除きたまえ!」
途中立ち寄った村や街で、彼らを歓待し、褒め称える声をどれほど聴いてきたことだろう。
天使を信奉し行軍に参加した人の多くは、戦う力を持たない平凡な人だった。天使は同行する者に信仰心だけを求めたから、貧しい者も多かった。
生きることは苦痛を伴う。弱者であればなおさらだ。
人間の世界には貧富があり、格差があり、努力だけでは埋めることのできない不平等が存在する。住み慣れた故郷を離れて天使と聖女に付き従った信奉者たちは、この世のあらゆる不条理を、不幸を、不運を、悪魔のせいだと押し付けたかったのだろう。すべてを悪魔に押し付けて、天使にすがることで救いを求めた人々だった。
財産を持たない信奉者を養うには多額の金が必要だ。
シシア教国が用意した行軍の費用はプリメラと聖騎士たちのもので、千人を超える信奉者を養うにはとても足りない。プリメラたちは道中の街で寄付を募り、あるいは人間に化けていた悪魔の財宝――レクティオ商会の金品を接収し、行軍の費用をまかなった。
それを見ていた信奉者たちは、天使と神の名のもとに悪魔の財を奪い取ることは正しい行いなのだと理解した。富める者たち――その多くがレクティオ商会と取引があり、悪魔と無関係であると示したい商家であったが――彼らが多くの富を差し出す様子を、弱き者たちはずっと見てきた。
弱く愚かな人々が、力を得たと錯覚し始めたのは自然の流れだっただろう。
「我らこそ正義」
「我らこそ神の代行者」
本来はただ一人、天使だけに許された名を信奉者たちは騙り始める。
神の代行者の前には、富める者も、貴族でさえも頭を垂れるのだ。
天使の翼の元、弱者たちの抑圧されたうっぷんは日を追うごとに肥大化し、悪魔の居城だという白亜の城を目にした瞬間、爆発した。
「なんて綺麗な城なんだ……」
「悪魔の城なんだろう? なんて贅を凝らした……」
風雨に打たれてなお汚れることのない、白い石材は何なのか。
城壁の上部に据えられた彫刻のなんと見事なことだろう、今にも動き出しそうではないか。
大きな窓にはまっている一枚ガラスは人の背丈より大きい、見たこともないサイズだ。青い屋根は宝石の色で、ところどころに使われた金具は錆止めの代わりに金箔が貼られている。
石材一つ、ガラス一枚、屋根の瓦の一枚に至るまで、自分たちがどれほど働いたって縁のない代物だ。
いったいどれほどの財を投じて建てられたのか。
城の外側だけでこれなのだ。中はどれほどの贅を凝らし豪奢であるのか想像もつかない。
――きっとあの悪魔の城は、我々の財を、運を、幸福を吸い上げ建ったに違いない。
――悪魔を斃せ、悪魔を殺せ。そして我らの財宝を、この手に取り戻すのだ。
――奪え! 奪え! 奪え! 奪え! 正義は我らの元に在る! 神の愛はここに在る!
悪魔の城を前にした信奉者たちの胸中は、信仰に生きる者とは思えない黒い感情で満ち満ちていて、プリメラには悪魔の城が黒い炎に包まれているようにも見えた。
それでも、そんな信奉者たちを天使は咎めることすらせずに、ただただ透明な光の感情を向けるだけだった。
彼らは気付くべきだったのだ。
悪魔の城を前にして、一体の悪魔も魔物も現れないことに。
彼らが驕り高ぶろうと天使が罰を与えないことに。
天使というのが何者で、何ゆえ弱き人々を同行させていたのかを――。
天使イズラフィールを先頭に、聖女プリメラと聖騎士隊、そして千人を超える信奉者たちが城を見上げる草原へと足を踏み入れた時、空には突如暗雲が立ち込めた。
降り注ぐ日の光が遮られると同時に、輝くほどに美しかった草原は荒涼たる岩場へと変わった。
「わざわざ生贄を捧げに来るとは。さぁ、宴を始めましょう」
いつからそこに立っていたのか。
荒涼とした景観の中、変わらず美しい白亜の城の門の前には、一人の男が立っていた。
スーツを着こなすそのたたずまいは美しい城に相応しく、不遜に笑う存在感は荒涼とした荒れ地にこそふさわしい。
「イ、イズラフィール様、ヤツです。ヤツが、あの悪魔です」
悪魔はプリメラの紹介に答えるように、恐るべき宴の始まりを告げるように、その両手を優雅に広げた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
アモル「さて、お客様をお迎えしよう」
あと9話! アモルのお迎えが楽しみな方は、評価↓よろしくお願いします。




