ィ ズラフィールの降臨 *
――天秤が傾いている。
その超常の存在の認識を言語化するならば、そう言ったものだったろう。
この世界には悪魔が実在しているのだ。
それに対抗する存在も、そしてそれらを統べる存在もまた、実在して然りだ。
善であるとか悪であるとか、そういったものは人間が自分たちの都合で作り上げた教義に過ぎない。
世界を維持することこそがその存在の意義であり、そのためにはエネルギーが必要だ。
彼らのエネルギーの源を、人間たちは信仰心だと信じているが、実際は信仰を通じて徴収される魂の熱量だ。つまり本質の上でそれらと悪魔は同一なのだ。
悪魔という存在により人々の信仰が高められるなら、それは必要悪であり、世界の仕組みの一つに過ぎない。しかし、それはあくまで均衡の上で成り立つものだ。
例えば人間の場合においても、生きるための食事やそのための殺生は、節制されたものなら摂理だが、暴食ならば罪である。
同様に、一人の悪魔によって世界を維持する力に揺らぎが――例え、さざ波程度であっても生じるほどに魂が狩られるなら、看過できるものではない。
その超常の存在は、現状をよしとはしなかったのだ。
――世界を癒し、罪を裁く救い手の降臨を。
――縁を持ち、怨を持ち、円を巡らす価値のない、ちょうどよい依り代を。
ただちょうど良い修道女が、ちょうどその時に、限られた者しか入室を許されない降臨の間と呼ばれる礼拝堂で祈りを捧げていた。
彼女、プリメラが選ばれたのは、ただそれだけのことだった。
「神よ、全知全能なる存在よ。私は見ました、この世に悪魔が存在すると。だからこそ、私は来ました。幾たびもの危険や困難を乗り越え、あなたの治めるこの教国へ。そしてここへとたどり着き、私は知ったのです。あなたの愛もまた、確かにこの世に存在すると!」
領主と一部の有力者たちが惨殺されたマーテルの一件は、一人生き残った修道女プリメラの証言によって、教会に都合の良いものに書き換えられた。
その結果、マーテルの街における権力図が塗り替えられても、この街の弱者を酷使し富を吸い上げる構造に変化はない。マーテルの明けぬ夜に生きる者たちの悲劇はそのままで、ただ、頭がすげ代わっただけの話だ。
けれどプリメラ個人に関しては、その一件で大きく権力を拡大した司祭の側付きとなり、己の目的を達成することができた。
司祭の方からしてみれば、これほどの惨劇さえも踏み台にするプリメラに異様なものを感じはしたが、降臨の間で祈りを捧げたいという金のかからない願いなど、どうということもない。
プリメラは司祭の側付きとして、本来ならば立ち入りを許されない降臨の間で祈りを捧げることが叶ったのだ。
「私は信じます。神よ、あなたの存在を。信じます、信じます、信じます。だからどうか、あなたのご意思を迷える私にお示しください。どうか、あなたの愛を、お慈悲を、あなたの使徒たるみ使い様を、この私に御遣わし下さい」
天使を、天使を、どうか私に。
あの澄み切った色の感情を持つ、尊い存在を私に御遣わし下さい。
プリメラは何度も何度も祈り続ける。
教会のような宗教建築は、外から見れば数階建ての大きな建物のくせに、中に入ると吹き抜けの1階建てであることが多い。神の意向だとか神秘性だとかを演出するためのものだとプリメラは勝手に理解していたが、このシシア教国に来て、この高い天井にも実用的な意味があるのだと初めて知った。
この高い天井は、飛翔する天使の為に必要なのだ。
プリメラがシシア教国に来たばかりの、一般に開放された儀式か何かの日だったと思う。プリメラは、人々が詰めかける大聖堂の最奥で、一人の高位神官が天使を連れているのを見たのだ。そして、感情を視覚で視ることのできるプリメラは、その天使が人々に向ける慈愛の色を知ってしまった。
その姿を見て以来、プリメラの心を占めるのは天使の存在だけだった。
■□■
プリメラが人の感情を視る能力に目覚めたのは、多感な思春期の頃だった。この能力は、商人として非常に役立つものだったけれど、同時に人間というものがいかに醜い存在であるかを彼女に知らしめていた。
人の不幸に喜色を浮かべ、相手を出し抜き陥れることに愉悦を感じる。他人を蔑むことで虚栄心を満たし、欲深く満たされることを知らない。
そんな濁った感情の中で、多感な時期のプリメラが何より汚らわしいと感じたのは、妻子がいようと、年寄であろうと、男たちが女性に向ける、黒く濁った愛欲の赤だった。
「配達かい、プリメラ。お疲れさん、こっちでお茶でも飲んでいきなよ」
そう言ってプリメラの手を握ってきた取引先の男は、先日その店の娘と永遠の愛を誓い合ったばかりの新婚だった。
「やぁ、プリメラ。珍しい菓子が手に入ったんだ。お前甘いものすきだろ? 食べに来いよ」
そう言ってプリメラを家に連れ込もうとした男は、妻が里帰り出産中だった。
「……プリメラ、お前の父――、兄さんのことは残念だったな。だが、心配するな。これからは俺がお前の面倒を見てやるから」
父を亡くしたプリメラの肩を抱き、慰めた叔父の感情さえも濁って見えたことを、プリメラは忘れられない。
この能力に目覚めたのが、もっと人として成熟した頃合いだったら、“そういうもの”だと割り切れただろうし、“それだけではない”ことや”そんな人ばかりではない”ことにも気が付けたのだろう。
けれど十代半ばの多感な時期だ。自分だけが持つ特別な能力に、万能感を覚えることは当然だったし、この目が与えた汚れくすんだ人間社会こそが、彼女にとっての真実となってしまった。
そんなプリメラにとって、若く美しい自分の肉体で男たちの愛欲を操ることはひどく簡単だった。若くして大きな見返りの得られる取り引きを覚えた彼女は、自分も他人も道具のように扱って利益を上げて生きてきた。そんな風に生きれば生きるほど、プリメラに向けられる感情が黒く淀んでいくとも知らずに。
黒ずんだ汚く濁った感情の色の世界に自ら沈んで生きてきたプリメラにとって、かつて悪魔の城で見た色は、アモルという悪魔が宿した澄んだ赤は、心が打ち砕かれるほどに衝撃的なものだった。
(どうしてどうしてどうしてどうして!
苦痛を笑い、悲鳴に歓び、涙を愛でて血を味わう悪魔が!
邪悪が形をとったような男が!
ありえないありえないありえていいはずがない!
あんな、あんな、いっぺんの獣欲もなく、ただただ誰かを純粋に想うだなんて……!!!)
プリメラがアモルに視た色は、あの透き通るように濁りのない、輝くほどの赤い色はまるで激しい炎のようで、ずっと目蓋に焼き付いて離れなかった。
その澄みきった紅こそが、年若いプリメラが焦がれてやまないものだったのだから。
あの高潔な神官マニウスでさえ、あれほど純粋な気持ちは持ち得ていなかったというのに。
けれど、それも今は過去のこと。
「おぉ、神よ。私はこの国で最も……、いいえ、この世で最も尊く美しい色に出会いました。あの祭典の日、神のみ使いたる天使様に!」
プリメラが見た天使が使役者である司祭に向ける感情。同時に参列する人々にも向けた感情。おそらく善良な万人に向けられるである感情は等しく、ただひたすらに透明な光だった。そこには一片の穢れもなければ、何の欲も見いだせなかった。
なんと美しく、なんと尊いことだろうか……!!
「あのような色を私は見たことがありませんでした。あれこそが神の愛、真の愛なのですね……!!」
プリメラは神に祈る。どうか自分にも使徒を御遣わし下さいと。
あの美しい感情を、どうか自分に向けて欲しいと。
狂信にも似た祈りの最中に、ふとプリメラはマニウスの最後の色を思い出す。
マーテルの支配者たちは、皆飛び切り汚い感情の色をほとぼらせていて、あの部屋は汚物溜めのように醜悪だった。そんな中、マニウスが剣を振るうたび、人の命が消えるたびに、感情の色は消え失せて、代わりに血で真っ赤に染まっていった。綺麗な赤い世界の中で最後にプリムラに剣を向けたマニウスは、かつての高潔な色合いと打って変わって怒りと絶望と悲しみに染まっていた。
人間らしい、醜い色合い。
けれど、彼が自死する寸前に、あの、美しい赤が混じらなかったか。
あれは、死を覚悟したプリメラが見た、幻覚だったのだろうか――。
雑念に囚われ、祈りを中断していたというのに、まさにその時、降臨の間がまばゆい光に包まれた。
何処からともなく、天使の降臨を告げる鐘の音が響き渡る。
――福音を。汝に悪魔を退ける光の剣を。
プリメラにそう告げ、彼女を依り代として降臨した天使の姿は、なぜだかマニウスにどこか似ていた。
悪魔の住まう城に向け、今、裁きの翼が羽ばたこうとしていた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
プリメラ「天使キター!」
イズラフィール「今後ともよろしく」




