ソ シテ、悪魔ハ狩リヲスル *
どうしてこんなことになったのか――。
人生における敗者が一度は抱くだろう思いを、シシア教国の高位司祭、マニウスは暗い地下水道を走りながら噛みしめていた。
ここはマーテル。マニウスの父がかつて治め、今は彼の叔父が治めている国だ。
マニウスがまだ胎児であった頃に彼の父は世を去り、マーテルの安定のため彼の母はシシア教国の教会に身を寄せた。その選択は互いの合意のもので、シシア教国に行ってからも援助を続けてくれた叔父に、母もマニウスも感謝していた。
だからこそ、赤子蟲の一件で疲弊したこの地の人々を高位神官として助け、導きたいと願ったのだ。
マニウスにこの地を治めるつもりも権利もない。彼の願いは、叔父である領主にもマーテルの人々にも好意的に受け止められたはずだった。
二十数年ぶりに踏んだ祖国の地。
笑顔と歓待、叔父の抱擁によって迎えられたはずなのに、何故マニウスは、光に追い立てられたネズミのように地下水道に逃げ込んだのか。
(私はただ、苦しむ人々を救おうと……。
着任の挨拶に行ったとき、領主である叔父上は、私に立派になったと、共にマーテルの民の幸福の為に尽くそうと、そう言ってくれたではないか。あの時の笑顔さえ偽りだったというのか!)
マニウスがマーテルに赴任して、まだ1週間と経ってはいない。
その間にマニウスにやれたことといえば、プリメラの勧めに従って夜の街に暮らす女性らに癒しの奇跡を施しただけだ。
「自分たちは攫われてここに売られてきたのだ」という女性たちにマリウスができたことといえば、痛々しい傷を癒し、病を軽くしてやることと、領主である叔父や彼女らの故郷の街に、惨状を伝え解放されるよう訴えかけると約束することくらいだった。
そんなことしかできない己に、マニウスは無力感にさえ苛まれていたというのに。
(私が罪なき人々をたぶらかし、クーデターを企てているなどと!)
嵌められたことくらい、マニウスにも分かる。
しかし、その理由が分からないのだ。継承権争いをしているさ中ならいざ知らず、叔父はマーテルの領主として――民に幸福をもたらせたとは言い難いにせよ、実績がある。対してマニウスは神官として育てられ、まつりごととは無縁なのだ。
今更、クーデターなど企てたとして、マーテルを治めていけるはずもないし、彼を担ごうという勢力もない。言いがかりも甚だしいとはこのことで、いくら証言を捏造されようと、濡れ衣であることは、誰の目にも明らかではないか。
――分からぬとは愚かなことだ。だからお前は嵌められたのだ。
暗闇で藻掻くマニウスの耳元で、囁くような声が聞こえた。
「何者だ!?」
――くくく、よいのか? 声など上げて。追手にここだと教えるようなものだぞ。折角、師匠の遣いの者がその身を犠牲にお前を助けてくれたというのに。
「くっ」
辺りを見回しても暗い地下水道が続くばかりで、声の主の姿は見えない。耳元で囁かれるようなその声はおそらく音を伴うものでなく、マニウスの脳裏に直接語り掛けているようだ。
(耳を貸してはいけない。これはおそらく悪魔の囁きだ)
口を閉ざし、教えられた通り街の外へ続く経路を進むマニウスに、音無き声は語り掛ける。
――この街の人間にとって正しいかどうかは重要ではないのだ。都合がよければ厚遇し、邪魔であれば排除する。実にシンプルだと思うがね。
(戯言を。私が誰の邪魔になるというのだ)
――分かっていないようだね。君は哀れな夜の街の女性たち、陥れられた者たちに救いの手を差し伸べているつもりだろうが、それこそが君の叔父にとっては余計なことだということを。
「馬鹿な!」
思わず声を出したマニウスに、闇に潜んだ悪魔はニヤリとほくそ笑む。
――ならばお前は他に何をした? 何もしてはいないだろう。実に簡単なことだというのに、何が余計だったか分からないという顔だな。ならば一つヒントを与えてやろう。これほど栄えた街の近くで、盗賊どもがのうのうと通行料をせしめていられる理由はなんだ?
悪魔の問いかけは、マニウスがずっと引っ掛かっていたことだった。いや、その答えのおぞましさに、あえて考えないようにしていたのかもしれない。
(まさか)
――貧富というのは格差によって生じるものだ。その度合いが大きいほど、搾取が一方的であるほどに、富める者はますます栄える。富というのは力の一つだ。この街で最も力を持つ者は誰かね?
(まさか、まさか、まさか)
伯父が、領主自らが、盗賊たちを容認していたのならば――。
マーテルは統治の難しい土地だ。3つの国の境界にあり、古くより幾度も戦場になってきた。その上魔物だって出る。鉱脈などの資源があれば違ったのだろうが、あるのはキャベツのような平凡な野菜が取れる農地ばかり。交易と歓楽都市として3国共に利益をもたらすことでバランスをとったとしても、口先だけで保てるほどたやすいものではないだろう。
均衡を保つための力とは、武力であり何よりそれを養う金だ。
――気付いたかね? お前の故郷マーテルは、他所の街から仕入れた女どもを使いつぶすことで成り立っているのだよ。女を連れ込む冒険者も隊商も、攫う盗賊も買う娼館も、その客たる3国の金持ちたちも、マーテルを回す歯車だ。
マニウスが手を差し伸べようとした者たちは、マーテルを支える貴重な資源だ。その不正を暴いたならば、マーテルという街は容易く瓦解するだろう。
だから、マニウスは追われているのだ。資源が長持ちするように慰撫するだけなら厚遇されただろうが、資源の解放などとんでもないことだと。
だがマニウスに、力なく弱った人々を踏みつけにすることなど、どうしてできようか。彼らに手を差し伸べて支え合い、共に歩んでいくこそ、正しい世界の姿ではないのか。
そう思うマニウスの心さえも読んだように悪魔は囁く。
――世界を正すには力が必要だ。穢れた為政者など、一掃してしまえばいい。そうすればこの街は新たな秩序を得るだろう。弱きものは立ち上がり、新しい時代が来る。君の望む、正しい世界がね。
「黙れ、悪魔め。確かにマーテルの安寧の為に無辜の民を犠牲にしてよい理屈はない。けれど、悪魔の力で叔父たちを排したとして、この街の運営はどうなる。この街には善良な民も大勢いるではないか。一時の義憤に駆られ、彼らを不幸に陥れることは私のなすべきことではない。政を知らぬ者ばかりに街の運営はできはしない。よしんばできたとして、それは新たな腐敗の始まりではないか!」
マニウスは思い出していた。自分の背中を押してくれた女性のことを。
(プリメラ。あなたの敬虔に祈る姿に私は恋をした。悩む私の話を聞き、誰より深く理解してくれた貴女。貴女は互いに理解し合う大切さを教えてくれた。貴女こそ私にとっての聖女だったのだ)
マニウスは恋する思いを胸に抱き、悪魔へと言い放つ。
「必要なのは理解し合うことだ。そうして、痛みを分かちあった先にこそ、真の楽園は降臨する。私はある人との語らいで、そう悟ったのだ!」
悪魔の囁きにマニウスは屈しない。
それこそが、気高い魂の証。悪魔が手づから篭絡するに足る魂だ。
悪魔が笑みを深めたことに、マニウスは気付いただろうか。
――何の痛みも味わっていないお前が痛みを分かち合うなどと、ご高説いたみいる。見たまえ、お前がこうしている今も、嗜虐嗜好の変態に娼婦が殴り殺されている。見たまえ、稼ぎ頭の姉を奪われ、田舎で貧困に泣く子らを! 見たまえ、お前を助けんがため、拷問に耐え忍ぶお前の弟弟子の姿を!
悪魔のささやきと共に、地下水道の暗闇に嘆き苦しむ人の姿が浮かび上がる。
(これは幻覚だ! 例え現実だったとして、悪魔の甘言に乗るわけには……)
例え目をそらしても、届く声はあるものだ。
例えば愛しい女性の口から零れる、「マニウス」という名前。
(な……。プリメラ!? まさか彼女もひどい目に)
マニウスは思わず声のした方向に目を向ける。
そこに浮かび上がった映像の中で、プリメラがマニウスの叔父である領主やこの街の有力者と共に、豪華な酒席を囲んでいた。
「おとなしく教国で経でも唱えていれば、マニウスも長生きできたものを」
「プリメラといったかね、君が教えてくださったお陰で、問題が起きる前に対処できた。この証拠の数々も実に役に立つというもの」
「例の魔物の一件に乗じて教国が勢力を伸ばそうとしていたが、いい牽制にもなりましたな」
「だが、マ二ウス殿を潰されては教会も黙ってはいまい?」
にやにやと厭らしい笑いを浮かべる叔父と有力者たち。
高価な酒と脂っこい料理の載ったテーブルには、マニウスの部屋から持ち出された書類の束さえ置いてある。そして、その書類を持ち出したであろう女――プリメラが強かな笑みを浮かべて口を開いた。
「僭越ながら、その件に関しましては私に腹案が。教会も一枚岩ではございません。多少の献金さえ頂ければお力添えを下さる司祭様もいらっしゃるかと」
映し出される光景に、マニウスは血の気の引く思いがした。
誰なのだろう、この女は。
マニウスの恋したプリメラの姿をしているのに、あの敬虔な可憐さは見る影もない。マニウスの見たことのない、邪な顔をしたこの女は。まさか、この姿こそ彼女の本性だというのか。
――この街に来て間もないというのに、おかしいとは思わなかったのかね?
(まさか)
内通者がいたならば、マニウスを反逆者に仕立て上げることも容易だろう。けれど、まさかそれが、彼の恋した女性だとは……。
(まさか、最初からそのつもりで、敬虔さも可憐さも、すべて偽りだったというのか……)
恋とは脳内麻薬による薬物中毒症状だ。その禁断症状は裏切りというスパイスによって激しい怒りへとマニウスを駆り立てた。
――確かにあの女は正しくお前を理解した。正しく理解したうえで、お前を突き落として見せた。
気が付けば、マニウスは扉の前に立っていた。
扉の向こうからは歓談する叔父たちの声、そして何より聞き間違いようのないプリメラの声が聞こえていた。
――痛みは分かち合うものなのだろう? さあ、その剣で思いを果たせ。その力を与えてやろう。お前の願いを果たした時こそ、その魂を頂こう。
マニウスの右手には一振りの剣が握られている。剣など握ったこともないけれど、今のマニウスにはその重さは握り慣れたペンのように軽く感じられ、地下水道を走っていたことが嘘だと思えるほどに、体は軽く力に満ちていた。
マニウスの唇が何事かを言いたげに薄く開き、そしてそのまま閉じられた。
もしもこの時、「悪魔よ去れ」と言ったなら、違う結末が訪れたのだろう。
けれど彼は静かに扉を開くと、驚き騒ぐ街の有力者たちを皆殺しにしていった。
マニウスの剣戟は聖職者の物とは思えないほど鋭利なもので、その場に居合わせた護衛の剣は、まるで見えない盾に阻まれるように弾かれ、彼に毛ほどの傷をつけることもできなかった。
助けを呼ぶ悲鳴と戦いの喧騒に、館に詰める衛兵が駆け付けてもいいはずなのに、まるで何の物音も聞こえていないかのように、誰一人として助けはこない。
部屋に集った有力者たちが逃げ出そうにも、まるでこの部屋だけが世界から切り離されてしまったかのように扉は開きはしなかった。
「ひっ、ひぃ。お助けください、マニウス様。わた、私、私は、脅されて……」
最後に残ったプリメラに剣先を向け、血にまみれたマニウスは恋した女の顔を見る。この期に及んで嘘をつき、助かろうと言い逃れをするプリメラの顔を。
その顔は、先ほどまでの強欲さは影を潜めて、マニウスが良く知っているいつもの可憐な表情だ。
「プリメラ、最後に一つ教えてください。私と過ごしたあの日々も、偽りだったのですか?」
答えなど、聞かなくとも分かっているのに――。
マニウスの問いにプリメラは笑顔を引きらせながら、何の迷いもないように答えた。
「マニウス様。私は貴方をお慕い申し上げています」
あぁ、なんてひどい人だろう。
マニウスはこみ上げる涙を堪え、目蓋を閉じる。
そして、なんて哀れな人なのか。
再び目蓋を開いたマニウスは、恋した女性の可憐な姿を目に焼き付けると、虚空を睨みつけて叫んだ。
「悪魔よ、この魂を持っていけ! この苦しい想いごと喰い荒らしてしまうがいい!」
プリメラの答えにマニウスは泣きそうな顔で笑うと、手に持つ剣で深々と己の喉を貫いた。
「きゃあああぁ! マニウス様!!?」
血で赤く染まった部屋の中で、赤く染まっていくマニウスを見ながら、ただ一人プリメラだけが悲鳴を上げる。
先ほどまでは戦いの喧騒も悲鳴も何一つ、扉の向こうに漏れていないようだったのに、プリメラの悲鳴を聞きつけた護衛が「何事か!?」と駆け付ける音がした。
けれど、全ては終わった後だ。
襲撃者マニウスは死に、叔父であるこの街の領主も、取り巻きの有力者も物言わぬ死体となった。
マーテルという腐りかけた果実は、所有者を失って今後ますます乱れるだろう。悪魔にとって最高の狩場が今誕生したのだ。
――この女を殺さないとは……。少々誤算だったがまぁ良い。じつに良い魂を手に入れた。
悪魔の呟きは、惨劇の場に一人残されたプリメラには届かない。
悪魔がマニウスの魂を持ち去った後、血にまみれた部屋には、茫然と佇むプリメラが一人残されていた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
マニウス「キチゲ溜まる」
プリメラ「ぎゃー、マニウス様がキレたー」
アモル 「いい魂ゲット♪」




