。 夜明け前 *
“不夜城マーテルの夜に生きる女に朝はこない。”
それは絶望的な状況を示す比喩であって、この世界に生きるすべての者に等しく朝は訪れる。
しかし『明日』が必ず訪れるとは限らないことを、マーテルの夜の女たちは知っている。
「客足が途絶えた頃に足音が聞こえたなら、それは悪魔の足音だ。死にたくない者は布団を被って息を殺せ。
けれど、もし、死んでもかなえたい願いがあるのなら――」
そんな噂にさえ望みを託したくなるほどの、絶望の淵にたたずむ者がこの街には少なくない。
まともな客がついている間はまだましだ。けれど過酷な生活にある者は病を得、ある者は薬におぼれる。客の乱暴な扱いに怪我をすることだって茶飯事だ。何とか無事に日々を過ごしても、ストレスのあまり年齢以上に早く老け込む女たちの寿命は短い。美貌が衰え始めた彼女たちの人生は、急こう配の坂を転がり落ちるようなものだ。
どんどん待遇の悪い店に移籍させられ、その先は言うまでもない。
人間というものはシンプルだ。
人によって異なる望みを抱くのは、各人が持つ背景が多様である故で、そこが固定されてしまえば、望みはいくつかに絞られる。
望んでマーテルの夜の街に身を堕とした女は一人もいないだろう。騙され、陥れられた者が大半だ。
マーテルの夜に心身を貪りつくされ死を待つばかりともなれば、僅かな投資で十分な利益が見込まれる。
「この街は短期投資にうってつけだ。実に効率がいい」
そう言って悪魔はいつもの酷薄な笑みを浮かべると、今日も絶望に明けない夜を歩く。
“憎いあいつに復讐を”。
“田舎に残した家族に十分な仕送りを”。
“もう一度、故郷のあの景色が見たい、あの人に会いたい”
エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。
そんなものと引き換えに、彼女らは容易に魂を差し出してくれるのだ。
魂の価値を分かっていない実に愚かな所業ではある。しかし悪魔は彼女らのささやかな願いを“くだらないもの”と切って捨てたりはしない。
もっとずっと“くだらない”と思えるものに、今このマーテルに暮らす誰より美しく、崇高な魂をかけた女性を知っているのだ。
魂の価値というのは同一ではない。人間が出会いと努力と経験によって成長していくように、魂もまた輪廻をめぐることでより高位の状態となる。悪魔からみれば魔力量の多い状態であり、人間の信仰の一つからみれば徳の高い状態と言えるかもしれない。
そして、世界的にみて優れた功績であるとか偉業を成し遂げる人物というのは、えてして魂の質がいい。それ故に、救世主や英雄といった偉人には、その魂を奪おうと悪魔が周りを付きまとう。
「願いに見合った低級な魂でも、無いよりはましですが。とはいえ、そろそろ大物の一つも欲しいところだ。……おや? ほう、これはこれは」
この街で悪魔が狩ってきた魂は、どれも質が低い物ばかりだった。自分の身さえ守れずに搾取されるがままの者も、それを踏みにじり尊厳までも搾取する者も、生まれという運によって異なる立場にあるだけで、魂の質からするとどちらも変わらず価値が低い。
けれどその雑多な魂の群れの中に、高潔な魂の輝きが見て取れた。
今はまだ若くて頼りないけれど、困難を乗り越えて、偉業を成し得る力を持った魂だ。
上質な魂の臭いに悪魔は笑みを深めると、配下の悪魔を呼び出して獲物の見張りを命ずるのだった。
■□■
同じころ、ソフィアの眷属となったスースは侍女悪魔のマヤリスと共に、森で狩りにいそしんでいた。
「スース様、あの魔獣は、皮と骨を加工に回せますので極力傷をつけないようにお願いします」
「承知しました」
小鬼たちが見つけてきた魔獣をスースの赤子蟲が生きたまま喰らう。
魔獣は悪魔たちが麻痺や魅了で無力化してくれているから、赤子蟲はただバリバリと喰らうだけだ。これほど簡単な狩りだというのに、蟲たちが喰らえば喰らうほど、スースは自分の力が増していくのを感じる。
「スース様が蟲の権能をお持ちで良かったです。お早く成長なさって、ソフィア様を助けて差し上げてください」
アモルの配下である侍女悪魔たちに、ソフィアはとても好かれているらしい。新参者のスースにも、「ソフィア様の眷属ですから」と丁寧な態度で接してくれる。
スースは長であるソフィアの人徳を知り、とても誇らしい気持ちになる。
自分が強くなった分、ソフィアに魔力を贈ることができることが純粋に喜ばしい。まるで幼い子供の頃に、母の為に花を摘んだり手伝いをした時のようだ。長の役に立つことがこれほど喜ばしいことだとは。
「ダークエルフとして蔑まれて生きてきた私には、村を離れて以来、大切にしてくれる誰かも、大切にしたい誰かもいませんでした。だから、誰かに尽くしたいと思ったのは初めてです」
スースは会って間もないマヤリスという侍女に、思わず本音を語りだす。マヤリスなら新参者の元ダークエルフの言葉でも、嘲らずに聞いてくれると思ったのだ。
「この感情をソフィア様は、血族の絆――吸血によって植え付けられた感情だとおっしゃいますが、そんなことをおっしゃる時点で、あの方は慈悲深いと思うんです。
ソフィア様は、私の叫びを聞き逃さずに、助けに来てくださいました。願いを叶えてくださいました。あの方は、もしも私が死を望むなら、あの方の得にならなくたって、それすら与えてくださるでしょう。
普通なら、弱って力のない者なんて誰も助けたりしないです。抵抗しない者から奪うのは簡単で、奪い尽くした哀れな肉体を足蹴にすれば心だって晴れるでしょうに」
スースの人生はそういうもので、そういう対応こそがダークエルフのスースには相応しいものだったのに。
「ソフィア様は、そんなことはなさいません。私たちのような下級の悪魔にも優しくしてくださいます。アモル様に叱責されないよう庇っていただいたこともあります。おそば近くにお仕えで来て光栄です」
「お側にいられるのは、羨ましいです。私もお側に呼んでいただけるように頑張らなくては」
スースがぐっと拳に力を入れると、それにこたえるように赤子蟲たちが元気に魔物に飛びついていく。
強力な使い魔である赤子蟲を一度に大量に扱うのは、新米ヴァンパイアのスースには難しい。最初は、暴走させて素材を駄目にし途方に暮れてしまったが、ソフィアを想えば負けずに向かい合う気力がわいてきて、今では意のままに操れる。
誰かの役に立ちたいと頑張ることで、人は喜びをもって実力を発揮できると聞いたことがあったが、おそらくこのことだったのだ。
スースはヴァンパイアになって初めて知る歓びに、自分を眷属に迎えてくれたソフィアへの忠誠心が増していくのを感じていた。
「ところでスース様、エルフの里を守るというのは、お嫌ではないでしょうか」
スースの目下の仕事は、エルフの集落付近の森に潜む魔物の討伐だ。
マヤリスはスースがかつてハイエルフに執拗に“加工”されたことを知り、気にかけてくれているのだ。
「問題ありません。自分でも驚いているのですが、今はソフィア様のお役に立ちたい気持ちが大きくて、エルフたちなどどうでもよいのです。それよりも、あのレクティオ商会が傘下にある方が驚きました。思った以上に人と共存しているのですね」
悪魔の城を襲撃し、数を大きく減らしたエルフの里を守ってやっていると知った時は驚いたが、スースたちが狩った素材をエルフが加工し、それをレクティオ商会が販売していると聞いた時は、あのレクティオ商会があの悪魔の支配下にあるのかとさらに驚愕したものだ。
人間の街で暮らしていたころは、精神が不安定でいつもぼんやりとしていたけれど、レクティオ商会の名前くらいは聞いたことがある。近年急成長を遂げた商会だ。新参の商会は老舗の嫌がらせやら横槍やらで、潰されやすいと聞くが、あの悪魔が経営していたなら納得だ。
「思った以上に、殺していないなと思われたでしょう」
「……!! それは。あの、アモル様にはご内密に」
痛いところを突かれてスースは慌てる。
あの残虐な悪魔のことだから、もっと大勢殺していると思ったのだ。
「ふふ、もちろんです。やはりソフィア様の存在が大きいのでしょう。とてもお優しい方ですから」
「それは、ええ! その通りです。ダークエルフの、しかも汚れ切った私などを、血族に、それも最初の血族にお選びくださったのですから!」
スースはソフィアに口づけを与えられた首筋にそっと指先を這わせる。マヤリスの視線がどこか羨ましそうに見えるのは、スースの考え過ぎだろうか。
侍女のマヤリスでさえこうなのだ。ソフィアに異様な執着を見せるあの悪魔の前では、口が裂けても“最初の血族”なんて言わない方がいいだろう。
「血族なんていっても、私など、あの日からお姿さえ拝見していないんですけどね。ソフィア様のお部屋でお仕えできる皆様が羨ましいです」
なんだか気恥ずかしくなったスースが笑うと、マヤリスもほほ笑んでくれる。二人の間には、アイドルの追っかけのような友情が芽生え始めているらしい。
「私は、ソフィア様に魔力を献上できるスース様が羨ましいです」
「いや、私が献上できる量なんて、アモル様に比べればあってないようなものです」
「アモル様は特別ですよ。最高位の悪魔でいらっしゃいますし。本来悪魔は命を奪うより契約で魂を奪うのが一番効率が良いんです。もちろん魂を奪うなんて芸当ができるのは本当に限られた上位の方だけなんですけど」
しょんぼりとするスースにマヤリスは慰めではなく事実を教えてくれる。ヴァンパイアになって間もないスースに、魔族としての知識を教えてくれるのだからありがたい。
「目立つことをすれば当然ですが敵も増えます。アモル様はソフィア様に危険が及ばないように、細心の注意を払ってこられたのです。ですが最近は……」
マヤリスが言葉を濁した理由を察し、スースも押し黙る。
最近のアモルは、スースの目から見ても分かるほどに、なりふり構わない様子が見て取れるのだ。
いつも血の臭いをさせていて、刈り取った魂の力だろうか、ギラギラとして魔力をほとばしらせている。ファタ・モルガーナ城で働く悪魔の話によると、昼も夜も休みなくあちこちの村や町に出向いては強引な手法で魂をかき集めているらしい。
普段ならアモルの行動を抑えるソフィアは、夜になっても寝室から現れないことが増えているのだという。
アモルの行動は、自身を制約するソフィアがいないせいなのか、それとも……。
「さて、スース様。そろそろ夜が明けます。本日の狩りはお終いにしてお城にお戻りくださいませ」
「あと少し、せめてもう一匹だけ」
一刻も早く強くならなければ。スースもまた、強い焦りを感じていた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
スース 「私、ソフィア様ファンクラブ会員2号! 1号はアモル様やな」
マヤリス「じゃあ、私はソフィア様ファンクラブ会員3号! てか、最近アモル様、ヤバない?」
スース 「ヤバいな。私も今のうちにきばっとこ」




