こ れは覚めない悪夢で
後半、蟲&グロ注意です。
怖い。
夜が、怖い。
コツコツと刻まれる足音が、怖い。
笑う女の顔が、怖い。
それらの狭間に隠された、純粋な悪意がなによりも、怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い。
怖くて仕方がないというのに、恐怖を感じた瞬間に、ダークエルフの女、スースの意識は、おぼろげな悪夢のような泥濘から明朗な現実世界へと覚醒する。
心拍数と体温が上がり、まるで戦闘状態に入ったかのように感覚は研ぎ澄まされる。何も成してはいないのに、心には達成感にも似た充足感が満ちてきて、その興奮と快感は性的興奮さえ呼び起こす。心はとっくに恐怖に負けているのに、もう一人の自分がまだ戦えるのだと叫んでいるようだ。
そのもう一人の自分の顔が、あの忌々しいハイエルフと重なって、あの女の呪いが今も自分を支配しているのだと理解する。
ゲラゲラと笑う自分の声が聞こえる。
幻聴だ。押し殺した喉からは呼吸音さえ漏れてはいない。
あの足音の主は本物の悪魔だ。きっとどこかから自分のことを見ているのだ。
壁板の間に空いた隙間から、ベッドの下の暗がりから。
視線、視線、視線を感じる。
ちがう、この視線はあの悪魔の物ではない。
あの悪魔は自分たちには何の興味も持ってはいない。
あの悪魔が興味あるのは、どれほどの苦痛を感じているかと、それにより、どれだけ血が美味しくなるか、それだけだ。
だから、今スースを捕らえる視線は悪魔の物ではないはずだ。
遠くから足音が近づいて来る。
ぎしぎしと板の廊下をきしませて、コツコツと靴底を床に打ち付けて。
これも違う、きっと違う。
あの悪魔なら、床などはきしませず、靴音だけを鳴らすのだ。
高らかに、高らかに。まるで楽器を奏でるように。
どれほど耳をふさいでも、無理やり鼓膜を震わせて、怯える獲物に届くように。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
けれど、大丈夫、大丈夫だと、スースは自分に言い聞かせる。
壁の向こうに悪魔はいない。ベッドの下は埃がつもり、虫やネズミがいるだけだ。
だって、おかしいじゃないか。こんな狭い隙間に入れるはずなんてない。
幻覚だ、幻聴だ。
見ないで、見ないで。私を見ないで――。
悪魔の城で毎夜のようにスースにもたらされた惨劇と、ハイエルフによる精神強度の向上。繰り返された相反される心身の反応は、スースを狂気と正気の狭間に閉じ込めていた。
幻覚や幻聴の類は毎夜スースを支配して、もはや一人では眠れない。
そんなスースに男たちと共寝するよう提案したのは、唯一心を許していたプリメラだった。
「今のスースには人のぬくもりが必要だと思うの。誰かと一緒なら安心できるでしょ? 私が一緒に寝てあげたいけど、働いて旅費を稼がなくちゃいけないし、いつまでも一緒にはいてあげられないわ。だから、ね? スースなら、じっと見つめるだけで相手が寄ってきてくれるわよ」
そのような提案など、捕らわれる前のスースなら鼻で笑って一蹴しただろう。けれど今のスースにはプリメラの提案は、絶対のことのように感じられた。
プリメラは、悪魔の城で恐怖に震えるスースが寝付くまで背中をさすり、何度吐き出してしまっても根気よくスープを口に運んでくれた。失禁してしまった時は、その処理までしてくれた彼女に、スースは母親を前にした赤子のように縋り、心の拠り所にした。
それは、信頼というよりは依存というべき状態だったが、自分の心の機微に関心を払う余裕など、スースにありはしなかったのだ。
溺れるスースが縋った藁は、黒く腐り果てていたのだ。
「スース、貴女はとても魅力的だもの。変な男に執着されたら困るわ。だって、私たち、安全なところまで逃げなくてはいけないもの。だからね、夜を共にした男からはお金をもらうといいと思うの」
スースの稼ぎはプリメラが管理し、時には男を連れてくることさえあった。
青白い肌と豊満な肉体を持つダークエルフという種族は、繊細な美しさを持つエルフとは対照的に妖艶な美しさを持つ。けれど、その魔力は人間種の中では強大で、肉体的にも強靭だ。
ダークエルフを毛嫌いしているエルフのせいで、エルフに比べてダークエルフは下賤な種族と見做されやすい。青みがかった肌の色が魔族のようだと蔑まれることもある。
だから、ダークエルフたちもそんな人間どもを蔑んで、孤高を貫いている。普通の人間種を、夜の相手に選ぶことなど通常ではありえない。
人間種にとっては珍しい上に美しく、強靭ゆえに少々手荒く扱っても壊れない。
好奇心から、話のタネに、あるいはある種の憂さ晴らしとして。ダークエルフの女を求める男の数は多く、競争率は高かった。
スースは知らぬことだが、彼女を通じてプリメラが稼いだ金額が相当な額に上るだろうことは、明らかだ。
そんな日々も、恐怖と狂気の淵にたたずむスースにとっては、夢うつつのようだった。男たちがもたらす痛みも快楽も、あの地下室で与えられた激痛に比べれば優しく頭を撫でられるようなものだ。ここに自分の肉体が損なわれずにあるのだと、教えてくれるに過ぎない。底なし沼に沈むように眠れるならば何でもよかった。
だって一人で目を閉じていると思い出してしまうのだ。
あの頃の惨劇を。
あの悪魔の足音を。
スースを苛むエルフたちの、笑う顔を。
カツコツと二つの足音が近づいて来る。
(大丈夫……。あれは、あの悪魔じゃない。まだ日だって落ちてない)
スースはあてがわれた部屋のベッドの上で震える体を抱きしめる。
「ここに、本当に同胞がいるのか?」
ほら、聞こえる声は、見知らぬ男性のものだ。
女を買うには時間が早いが、誰かを探しているならおかしくはない。
けれどスースにとってはただの客。今夜のスースの相手だろう。
扉を開けて入ってきた客に、スースは視線を向ける。
意識のおぼろげなスースに求められることは少ない。にっこり笑って両手を広げればそれでいい。後は客がいいようにしてくれる。
けれど、その日の客を見たスースの目は見開かれ、歓迎を示すように開かれるはずの両腕は強く己を抱きしめた。
その日、部屋を訪れた客は、スースと同じ尖った耳と、スースとは異なる白い肌を持つ、エルフだった。
「なんだ、ダークエルフじゃないか。……まぁいい」
エルフがいると聞いてきたのだろう。スースがダークエルフであると見止めた客のエルフは不快気に眉をひそめた後、にやりと嫌らしい笑顔を浮かべた。
えるふ、えるふ、えるふ、えるふ。
えるふが、わらって、ちかづいてくる。
見開かれたままのスースの瞳。その耳に過去の記憶が蘇る。
――今日はどういたしましょう、エリアーデ様。
――そうね。……蟲はどうかしら? あなたと私で競争しましょう。
うふふ、うふふとエルフたちは嗤っていた。
スースの腹を割いて、小腸をずるずると引き出して、真ん中くらいでちょんと切ったら、その切り口から肉食のおぞましい蟲を入れるのだ。
――あぁ、だめよ、そんなところを齧ったら。ごちそうはその通路の先にあるのよ。
――まぁ、こちらも途中で穴をあけて出てきてしまったわ。ほら、戻って。戻るのよ
わらう、わらう。えるふが、わらう。
えるふがわらって、むしをおう。
うぞうぞと。うぞうぞと。
引き出されたハラワタを伝って、何本もの細い脚を持つ小さな虫がスースの腹へと進んでくる。ピンク色の腸の中、虫こぶのような膨らみがスースの腹に向かってガザゴゾと迫ってくるのだ。
時折ブツリと皮が破れて、おぞましい蟲が顔を出す。
感じるのは割かれた傷口の痛みと蟲の進みに合わせて感じる振動。ハラワタに蟲が這いずる感覚はない。どこまで侵入されているのか分からないのが、余計にスースの恐怖心をあおる。
やめて、やめて。やめて、こないで。
わたしのおなかに、はいってこないで。
どれだけスースは叫んだだろう。どれだけスースは願った事か。
けれどエルフは笑みを深めて、スースに向かってこう言ったのだ。
――だいじょうぶよ、貴女に死なれては困るもの。ちゃんともとに戻してあげる。……あぁ、でも、もしも蟲の卵が残っていたら、ごめんなさいねぇ。
――蟲をお腹で孵すだなんて、ダークエルフってすごいわね。
――失礼よ。万の蟲を産み落とす、女王蟲様だもの。
あはは、あはは、あはうふふ。
えるふがわらう。
わたしのまえで、えるふがわたしをあざわらう。
「ダークエルフを楽しむというのもたまにはいいかもしれん」
めのまえで、えるふのおとこが、にちゃりと、わらう。
目の前のエルフの男が笑った顔が、スースには地下室で見たエルフの笑顔に重なって見えた。
それは、不安定なスースの精神の均衡を壊すのに十分で、その瞬間に、スースの中の正気と狂気の“隙間”から、この世ならざるモノが溢れ出た。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
スース「エルフコワイエルフコワイエルフコワイアアアアア!!!!!」




