だ んだんと、空は明けに染まって *
(なるほど、そういうことなのね)
パテッサの館のベランダに腰かけながら、ソフィアは閉じていた瞳を開いた。途端に視界が監獄の上空を飛ぶ蝙蝠から、自分のものへと切り替わる。正確には視界というより蝙蝠が超音波でとらえた像を視覚映像として見ているのだが。
アモルがこの街で何かしていることには流石に気が付いていた。というか、アモルが品行方正に人間の商売だけに精を出しているなんて、考えられないではないか。だから、密かに動向を探っていたのだが、これが思いのほかに手間取った。
夢幻回廊で移動するアモルは神出鬼没で、移動先を特定するには街を広範囲に調べる必要がある。今のソフィアならば街中の蝙蝠を使役して探せなくはないのだが、大々的に魔力を使えばおそらくアモルにバレてしまう。バレずに視界を飛ばすなら、1匹だけ、それも使役していない野生の蝙蝠の視界を借りるのが確実なのだが、そうなるとあまりに時間がかかりすぎる。
そんな中で小耳にはさんだ霧の噂はソフィアには渡りに船だった。
夜会を賑わす挨拶程度の噂でも、金さえ出せば調査はできる。
冒険者ギルドに霧の魔物の調査依頼を出したのはソフィアなのだ。
依頼を受けた冒険者の周囲を飛ぶ蝙蝠の視界を借りるだけで、アモルに辿り着けたのだから、想定以上の成果が得られた。
(女冒険者の彼氏だって聞いた時は助けようかと思ったけど、あんなに怪しい監獄にホイホイ侵入するなんて。あれならいない方が彼女にとっては幸せね)
もしもソフィアがポロス達を助けた場合、彼らの記憶を操作して、霧の魔物はただの自然現象として片付けられたことだろう。その場合、アモルは霧の魔物を使って生命力を集めることを止めないだろうから、もっと問題が大きくなってから対策が打たれただろう。いきなり大規模な討伐部隊など組まれたら、また大勢の人間がアモルの手にかかって死んだかもしれない。
しかし今回は、数名の犠牲で済んだ。冒険者たちが帰らないことで“霧の魔物”という存在に信憑性が増しただろうし、慎重なアモルのことだからこの街から手を引くだろう。
(一連の流れを見る限りじゃ、霧の魔物は街の人から少しずつ、それこそ健康な人なら回復する程度の生命力を奪うだけね。アモルにしては平和的でよかった。ある日突然、街中の人間を大虐殺するつもりかと思ってたけど。本当に、この程度で良かったわ。
……本当に、何が“良かった”のかしら。私……やっぱりおかしくなってる……)
無益な殺生を好みはしないが、ソフィアの思考はもはや人間のそれではない。この街の住人からすれば、人間を生贄にして霧の魔物を呼び出すことも、街中の住人から生命力を集めて回ることも、その結果老人や病人など弱い者が死んでいることも、“この程度”と許容されることではない。狂人や悪の魔術師の所業だ。けれどソフィアからすれば、食べきれないほど肉牛を殺しているかと思ったら、牛乳を集めているだけだった、程度の感覚なのだ。
(あ~~~~、きっつ。真実は闇に隠れたがるくせに、現実っていうのは追いかけてくるものね)
ため息を吐くソフィア。
ちょうどその時、彼女のいる部屋の扉を、もう一つの現実、アモルがノックした。
「ソフィア様、本日のワインをお持ちいたしました」
ワインの入ったグラスを片手に入室したアモルは、少し前まで監獄島にいたというのに、「ずっとワインを選んでいました」と言った顔をしていて、少しだけ面白い。
(私が蝙蝠の目を借りて覗いていたことに、気付いてないのね。やっぱり私、成長してる)
この街に来る前は、できなかったことが今ではできる。
受けとったワインは大層美味で、喉を滑り落ちた途端に体中に染みわたっていくように感じる。その理由に確信が持てた今も、ソフィアはこのワインを口にする。彼女の為に用意されたものなのだ。命に感謝し残さずいただく。それは当たり前のことに思えたけれど、同時になんの呵責もいだかない自分にわだかまる感情を持ったのも事実だ。
いいかげん、ソフィアも前に進まなければ。
「アモル、明日、ファタ・モルガーナ城に帰りましょう」
人間を同じ種族と認識できない。それは、この街に来てソフィアが理解したことだ。ならば、己の居場所に帰るべきだろう。
「……急ですね。そろそろ飽きられる頃合いかとは思っておりましたが。かしこまりました。準備をいたします。本日はもうじき夜が明けますので、寝室へお戻りを」
寝室へ促すアモルに頭を振ると、ソフィアはベランダから東の方角を見た。
「……最後に朝日が見たいのよ。大丈夫、少しだけ見たら部屋へ戻るわ」
死と魔が統べる時間が終わり、生者の時間が始まる瞬間。人が生きるこの街が真に人の物になる瞬間をソフィアは見たいと思った。そうすれば、未だに揺れる己の心が固まるのではないか。そんな期待があったのだ。
「……少しだけですよ。部屋へは私がお連れしますので」
「ありがとう、アモル」
ゆっくりと、東の空が白み始める。
人の目ならば、街の輪郭が空に浮かび上がって見えるのだろうが、ヴァンパイアのソフィアの視界には、世界は白く塗りつぶされるほど、明るく光に満ちて感じられた。
急激に低下していく身体能力は、体から力が抜けていくように感じられ、景色を眺める視力さえも急激に衰えて、どんどん見えなくなっていく。
己のすべてが衰えていく様は、まるで老いとその先に待つ死を早送りで体感するようだ。
皮膚を焼く痛みに耐えながら眺める朝日は、けれど何より美しい。
夜の闇、空の青、太陽の黄金。それらが織りなすグラデーションが時々刻々と変化する様は、目まぐるしい成長を遂げる生まれたばかりの生命のようで、闇一色に染まった自分とは相いれない。
それでもソフィアの目には、街に残る霧がこれらの色彩を反射して、街中が輝いているように見えた。
――こんな景色を、見たことがある。
ソフィアの脳裏に忘れていた光景が蘇った。
足元一面に広がる雲の海。そこから昇る太陽。
(そうだ、私、雲海に登る朝日を見に行ったことがある。電脳世界じゃなく、現実で……)
現実世界での旅行は、高価な上に感染のリスクがあった。それでも、番号で呼ばれ、社会を構成する部品として、誰かと接触することもなく生きる若者たちが、一度でいいから本当に美しい物を見たいと願うことは、自然なことだったろう。
ソフィアが見たいと望んだ景色は、雲海に登る朝日だった。
人と人との接触を極力避けて暮らしていても、発症が抑えられないのは、蚊などの虫が他者の遺伝子情報を媒介するからだ。自然豊かな場所に行けば、当然リスクは高くなる。その説明は事前に受けていた。
電脳世界に籠っていたって、若くして発症し死ぬことはある。
ならば生きているうちに、この世界に今自分が生きているのだと実感したかった。まるで、今のソフィアのように。
リスクを冒すだけの価値が、あの時見た朝日には確かにあった。
夜が明けとともに光を放つ雲海、その端から太陽が顔をのぞかせた瞬間、世界がぱっと明るくなった。網膜を焼く朝日の強さと、体中に降り注いだあの熱量。
感動に涙腺は緩み、鼓動が高鳴る。緑と土の香りと夜の名残のような冷たさを含んだ空気が、肺の中に流れ込み、吐き出す息の温かさが、冷えた指先を温めた。
どれほど精巧に作られようと、電脳世界では感じられなかった、今、この世界に自分が生きているのだという実感を、あの時ソフィアは確かに感じた。
そして、今もまた。
ヴァンパイアの肉体を焼く朝の光は、罪人を焼く炎のような熱さでもって偽りの生命を焼き尽くそうとするけれど、生命の危機にソフィアの本能が、自分が今この世界に生きているのだと告げていた。
(あぁ、すこしだけ、思い出せた……)
「これまでです!」
ソフィアの元にアモルが駆け付け、その体を自分のジャケットで覆い隠すと、抱き上げ部屋へと走り出す。
「すぐに、代わりのワインをお持ちします」
ソフィアをベッドに降ろしたアモルの顔は、ひどい痛みを耐えるように辛そうに歪んでいる。
「だい、じょうぶよ、アモル」
「どこがですか!」
「本当よ、すこし、熱いだけ。私、トゥルーブラッドなのよ? だから。これくらいじゃ死なないわ。……貴方を一人になんて、しない、か……ら……」
そう強がって見せたけれど、少々朝日を浴びすぎたようだ。ソフィアに触れるアモルの手が震えているように感じるのは、気のせいだろうか。こんなことが、過去にあった気がする。
遠のく意識の中で、ソフィアは現実の世界での、日の出の代償を思いだしていた。
おそらくあの日の旅行が原因だ。
――あの旅行から帰ったあとで、ソフィアは、発症したのだ。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
ソフィア「……発症したの、思い出した!!!」




