宝 は愚者の身につかず
「あ、悪魔、死ね、死ね死ね死ねぇ!」
「バカ、なにして……! 畜生!」
錯乱した弓使いが、次々と矢を悪魔に射かける。
これだけ近い距離にいるのだ。錯乱していようと外れるはずはないというのに、矢はすべてアモルの前で不自然に軌道を変えて地面へと落ちていく。
「うおおおおぉ!」
「<敏捷性強化、筋力強化、魔法障壁>!」
魔法使いは今まさに悪魔に体当たりしようとするタンクに身体強化の魔法を唱えた。同時にポロスも剣を抜いて悪魔へと駆け出す。
タンクが悪魔を抑えている隙に、ポロスが切りつけ隙を作る。倒すことは考えない。わずかでも隙ができればいい。
(1対4だ。隙を作るくらいなら、俺らにでも……!)
できるはずだなどと、どうしてポロスは思ったのか。
弓使いが攻撃を仕掛けてから、ポロスが悪魔に切りかかるまで、それは放り出されたアルセンの体が地面に落ちるほどの短い時間だった。
ポロスだって冒険者の端くれだ。魔獣を討伐する彼らの身体能力は、平均的な市民とは比べ物にならないほどに高い。それだけの時間があれば、剣は届くはずだった。
けれど、ポロスの剣が悪魔に届くことはなかった。
剣どころか、体が数歩進んだ先から前に進むことが無かったのだ。まるで支えを失った様にポロスの体は、がくん、と前のめりに倒れる。
「ぐわっ、なっ、なんだ!? どうなって……」
一体何が起こったのか。どうして自分は無様に地面に倒れているのか。
一体何に躓いたのかと、首を動かし足元へ送ったポロスの視線が見たものは、靴ごと脱げてしまった様に、脛の下から切断されて数歩後ろの地面に転がっている、自分の右足だった。
「あ、あああ、足ぃ!? なん、なんでぇ!? あ、が、がああああ!」
状況を認識すると同時に、遅れて襲って来る痛みに、ポロスは足を抱えて転げまわる。
「ポ、ポーションっ、ポーションっ!」
腰のポーチを必死に探る。ポーションは安いものではないけれど、万一の備えとして持っていたはずだ。一口飲んで痛みを抑えた後、脚を拾い傷口を合わせて上からポーションをかければくっつくはずだ。
痛みと恐怖と混乱と。そんな中で、ポロスは地面に転がったまま、ポーションを取り出す。摺りガラスになって蓋の部分はひねれば簡単に開くけれど、そんなことに気付く余裕などポロスにはない。力任せに引っ張ったせいで、頼みの綱のポーション瓶は、ポロスの手から逃げるように、悪魔の方へと転がっていった。
「あ、あぁっ……」
追いすがるように手を伸ばした先には、悪魔にあと一歩という距離に迫ったタンクが彫像のように固まっていた。
ころころと転がったポーション瓶が、赤い水たまりに着地する。転がるポーションを止めたのは、タンクの脚から腕からぼたぼたと流れ落ちる血潮だ。
タンクの脚はまだついている。いや、繋がっている、というのが正確か。頑強なはずのタンクの右足は、鎧ごと不自然なほど細くひしゃげて、まるで強大な力に握りつぶされたようだった。それだけではない、血だまりに転がる鋼でできた大盾は、巨人がスラッジハンマーを振り下ろしたのかと思えるほどにひしゃげて穴が開き、その衝撃を受けたのであろうタンクの両腕は、関節のところでおかしな形に曲がって、鎧の隙間から大量の血を滴らせ、赤い水たまりを大きくしていた。
悪魔は動いてさえいない。
悪魔のしっかりとした肩幅や胸板は、着衣の上からでも鍛えられた肉体であると分かるけれど、魔獣の突進さえ受け止めるタンクの肉体とは比べるべくもなくスマートだ。重い鎧を着こんだタンクの突進を止めるなど、まして分厚い金属の大盾に穴を開けるなど、ポロスの経験からも常識からも考えられるものではなかった。
ポロスは自分の脚に気を取られて、何が起こったのか見ていなかったが、見ていたとして、きっと理解などできなかっただろう。信じられない事象を目の当たりにした時、人は理解を拒むものだから。
ミシミシと、金属のきしむ音がする。
タンクのヘルムがきしむ音だ。悪魔の右手がタンクのヘルムを掴み、彼の体ごと片手で持ち上げているのだ。
「ぐああああ……!!」
タンクが叫ぶ。ポロスが思わず目をそらした先の血だまりに、悪魔と頭を掴まれたタンクの影が写って見えた。ビクビクと揺れているのは紅い水面か、それともタンクの体だろうか。血だまりに転がったポーション瓶は、愉し気に笑う悪魔の口元を写していた。
(う、うそだ、うそだ。これは悪い夢だ……)
夢ならばどうして、脚がこれほど痛いのか。どうして、覚めはしないのか。
「た、た、たしゅけ……」
助けを求めてうろうろと彷徨うポロスの視線が見たものは、射たはずの矢で手や足の関節部分を貫かれ、痙攣している弓使いの姿。悪魔の手から解放されて、ガシャンと鎧が床を打つ金属音とともに倒れ伏すタンクの姿。
そして、先に投げ出された獣人アルセンの肉体が、ずぶずぶと影の中に沈んでいく姿だった。
(に、逃げないと……)
もはや、切り落とされた脚だとかポーションだとかに構っている場合ではないと、片足を失った体で、ポロスは出口へと這い進む。
何とかここから逃げなければ、自分も影に喰われてしまう。
痛みより恐怖が勝った肉体で這いずりながら進む道の先には、いつの間に逃げ出したのか、魔法使いが走っていた。4人の中で最も知恵が働いた魔法使いは、状況を誰よりはやく見極めて逃走を選んだのだろう。
「待ってくれ、俺も……」
助けを求めるポロスの声に、魔法使いは振り返らない。
彼に見えているのは、もうすぐそこに迫った出口だけなのだろう。
もう少し、もう少し。扉はそこに開いているのだ。辿り着けさえすれば、この監獄から、この悪魔から逃げおおせられる。
魔法使いはきっと、そう考えているに違いない。
誰だって、死にたくはない。もし、死が逃れられないとしても、せめてまともに死んでいきたい。
魔法使いの伸ばされた手が、街へと続く扉に触れた。
その瞬間に魔法使いの瞳に宿ったのは希望の光で、それを認めたアモルはそれはそれは愉し気に笑った。走る勢いのまま押した扉は、驚くほどの軽さで外へと開かれ、そして。
「でられ……はああぁ!?」
出口から飛び出したはずの魔法使いは、この広間に入った時の入口に立っていた。
「ようこそ。もう一度試すかね?」
悪魔が笑う。愉し気に。
希望が絶望に変わる瞬間。その瞬間は余りに甘美で、この時ばかりは虫のごとき人間を、愛しいとさえ感じてしまう。
「あ、あ、あ、あああぁぁぁぁー」
後ろを振り返ると、入口の扉はご丁寧にも閉ざされている。その扉を掴んで、力任せに引っぱる。「あーあー」と奇声を上げる魔法使いもまた、もはや正気ではないのだろう。
火事場の馬鹿力というやつか、それとも、悪魔の意図したものか。魔法使いの背後の扉が開いた。
開いた扉に束の間の希望を見出した魔法使いは、その先に待つものを見て、完全に正気を失った。
「あー……はははは、あはは、あは、あはぁ」
ここへ歩いてきたはずの扉の向こうには、ただ、闇が広がっていた。
ぶわりと黒い粘体が溢れるように扉の向こうの闇が魔法使いを呑み込むと、扉は音もなく閉ざされて魔法使いを連れ去った。
(ちくちょう、なんでだよ……)
最後に残ったポロスはもはや声も出ない。仲間もアルセンも悪魔の影に呑まれてしまった。いつの間にかポロスの肉体もまた、影に呑み込まれつつある。
失われた脚の痛みはない。ただ、影に呑まれた半分が、どうしようもなく寒い。
誰かに抱きしめ、温めて欲しい。そのような寒さに、ポロスは恋人だった女を思い出していた。
「悪魔がいるのよ! 絶対にかなわない。だからお願い、一緒に逃げて」
あの女のあの様子。きっとこの悪魔のことを知っていたのだと思う。
(なんだよ、知ってたんなら、もっとちゃんと止めてくれよ……)
その言葉は放たれることなく、希望も未来も黒く塗りつぶされたポロスたち冒険者は、暗い影の中へと呑み込まれていった。
広間に一人残ったアモルは、冒険者たちが来る前に創り出した命血晶を眺めながらつぶやく。
「人間どもが妖霧に気付くのはもう少し先だと思っていたが」
人間の冒険者など、何人来ようと問題ないが、悪魔の噂が立つのは不味い。悪魔が実在する世界には、その対極にある、宿敵とも呼べるものもまた存在するのだ。
「少し早いが、ここまでとするべきか。ソフィア様はまだ、儚くていらっしゃるのだから」
見上げた空に月は落ちかけ、ねぐらを目指す蝙蝠が数匹羽ばたいている。
そろそろソフィアの食事の時間だ。
ソフィアの赤く濡れた唇に、真珠のような乱杭歯が光る様はまさに至上の宝石だ。その様子を想像し、アモルは笑みを深めるのだった。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
ポロス「変な男、ヤベー……」




