の う霧の中心
「まったく困った方だ」
まったく困っていない様子でアモルは呟く。
彼の主、ソフィアのことだ。
彼の笑顔はいつものことだから心の内は表情からは量り切れないが、ゆるゆると揺れる尻尾が彼の機嫌が良さを示している。どうせこの悪魔のことだ、機嫌がいいということは、監獄要塞に戻ってきた妖霧たちが喰らい合うのを眺めながら、本日提供するワインの銘柄は何にしようか、などと考えているのだろう。
城の地下に設けた加工場は配下の悪魔に任せておけたが、命血晶を作成する行程の最初と最後、妖霧の召喚と回収はアモルが行わなければならない。
ソフィアが目覚める前に夢幻回廊でいくつかの街へ行き、妖霧を召喚し、夜明け前、眠る支度を済ませる前に再度回収して回る。対象の街にはレクティオ商会の支店を設けていて、従業員として勤める配下の悪魔が、召喚の生贄の準備や召喚拠点の維持など万事整えているとはいえ、それなりに面倒だ。
それをソフィアに気付かれず、不便をかけないように配慮しながら行うのだから、悪魔と言えどなかなかに忙しい。ソフィアの為でなければ絶対に行わないだろう地道で面倒な仕事を嬉々としてこなしていることが、悪魔としてどれほど異常なことなのか、アモルは気が付いてはいない。
ちなみにレクティオ商会の支店には、小人の悪霊や赤の悪しき霊を起用している。魔族の中では弱い種族だが、人間に悪戯したり私欲を肥やすのに長けた種族のせいか商売は絶好調だ。
高い攻撃力を持つ魔族はなんでも力で解決しようとするが、人間の世界ではわざわざ力を振るわなくとも、大抵のことは金で買うことができる。人間の世界では金こそが力なのだから、力を振るっているのと広義では同じだが、価値観をすり合わせる大切さを改めて学んだ気分だ。低コスト・高効率な運用にアモルは大いに満足している。
「城の地下の加工場が解散となったのも、価値観の違いによるものか。人間の感情とは脳内の分泌物に支配される。つまりは精神とは肉体の産物、代謝に過ぎない。だから、アンデッドとして蘇った人間の思考は魔物のそれに、手のひらを返したように変容するはずなのだが。ククク……。ソフィア様の心変わりのなさときたら。未だにあの程度とは。必死に耐えておられるのか、それとも、そのありようこそが貴女という存在なのか」
どちらにしても、なんとそそることだろう。ソフィアの願いを叶え、その魂を手に入れる為なら、どれほど手間をかけてもかけすぎることはない。
だからソフィアの食事にも、レクティオ商会の裏の仕事にも、細心の注意を払ってきた。しかも最近は目覚めが早いらしく、侍女たちの目を盗んでは、一人で屋敷を抜け出している。
「悪魔を振り回すとは、本当に困った方だ」
そしてそんな行動こそが、ソフィアがまぎれもなく彼女だとアモルに知らしめ、彼の中に無いはずの彼をアモルたらしめるものが、歓喜の叫びをあげるのだ。
「加工場は却下されてしまいましたからね。保存方法の開発をしておいて本当に良かった。おかげで日々お召し上がりいただく食事は何とかなりましたが、ワインの質が低下していることにお気が付きだったはず。それについて、あえて何もおっしゃらなかった」
おそらくソフィアは気が付いているのだろう。日暮れ頃に屋敷を抜け出すのも、思うところあってのことだ。けれど、ソフィアはアモルに何も問いたださない。
聞いても答えないと分かっているからか、記憶に欠けがあるからか。
「ソフィア様がソフィア様である限り、きっと、悪魔である私を許容できないでしょう。けれど貴女は逃れられない。ヴァンパイアである肉体からも、私からも」
腹の底から這い上がる甘いに痛みにも見た感覚に、アモルはゾクゾクと身震いする。
逃すつもりは毛頭ない。餓えた獣のようなどす黒い感情。それに身を任せて、彼女を貪りつくしてしまいたい。
そんな思いを、彼女の一言は容易く払う。
――アモルと一緒にいたいのよ。
すべてを知ったあとでも、そう言ってくれるだろうか。
事実を知り、苦悩と葛藤の果てに彼女はどこへ至るのか。
(――まだ、時期尚早だ。ソフィア様は、まだ、思い出せない)
日常と呼べる今こそが、最も幸福な時間であると、それを享受しているアモルは知っている。
(本日のワインは……)
ワインに頭を悩ませるなど、なんて他愛なく、下らない思考だろうか。今こそが束の間の、至福の時間なのだ。
それを邪魔する二組目の闖入者が、監獄要塞へと足を踏み入れた。
■□■
「アルセンさーん」
「いねぇな」
「ってか、だーれもいねぇ」
「てかさ、これって、ヤバくね?」
ポロス達4人の冒険者は、驚くほどすんなりと監獄へと足を踏み入れた。一人先行した獣人アルセンの足取りを示すように、門も続く扉も少し開かれたままで、それをたどるだけでポロス達は監獄の中を進んでこられた。
監獄という場所に足を踏み入れたのは、当然ながら初めてだ。8本の塔とそれを繋ぐ壁で構成された監獄は要塞のような堅牢な造りで、窓は高い場所にあるだけで切り立った壁を登ることは不可能だ。出入口は街側にある看守用の通用門と街の外に設けられた正門だけ。
通用門側は看守たちの部屋や厨房、物資の保管庫になっているようだ。逃亡防止の目的だろうか、途中重たい扉がいくつもあって、先に侵入したアルセンが開けたのか、鍵はかかっていなかったけれど、扉は分厚く重かった。
(こんな作りになってんのか)
観光気分で先頭を進むポロスのすぐ後ろで、仲間の一人が声を上げた。
「おい、扉閉めんなよ」
「え? 閉めてねぇよ」
「俺も閉めてねーよ。なんで閉まってんだ……」
通り抜けてきた扉はどれも勝手に閉まるようなものではない。最後尾の仲間が開けようと力を籠めるが、鍵でもかけられてしまった様にビクともしないではないか。
ここにきてようやく、ポロス達4人は何かがおかしいと思い始めた。
「……どうする?」
「どうするもこうするも、進むしかねぇだろ。アルセンさんと合流出来りゃ、何とかなるかもしれないし」
ポロスの提案は良案とは思えないが、さりとて代案も出てこない。力自慢のタンクが押そうが引こうが、扉は開きはしないのだ。
最後の扉は今までよりも厳重で、扉の前には二重に鉄格子の仕切りがあった。この先は囚人たちの区画なのだろう。
慎重に扉を開けた先は吹き抜けの広場になっていて、独房であろう塔への扉が広場に面している。一番奥には街の外へと続く正門が、ポロス達に出口はここだと示すように開かれている。
そして、出口とポロス達の間、広間のちょうど中心に、この場にはおよそ不釣り合いなスーツ姿の男が一人立っていた。
「えーと、あの、こ、こんばんわー!」
「ふむ、こんばんは。想定を上回る面白い反応だ」
「そ、そりゃよかった」
ポロスの間抜けなあいさつに、男は悪くない反応を示した。少なくともポロスはそう解釈した。
「お、俺たち、こ、ここ、ここに忍び込むやつを見かけて、止めようと思って……。でもあんたがいるなら、し、心配ないな。お、おいとま、するよ」
一体どうしたことだろう。歯の根が合わず、ポロスは上手くしゃべれない。意思に反して打ち合うのは奥歯だけではない。膝が震えて目が回る。思わず倒れてしまいそうだ。
男は何の武器も持たず、微笑みさえ浮かべて静かに立っているだけなのに。
「侵入者というのは、コレかな?」
男は左手を後ろに回すと、背後から何かを掴んで取り出した。
動作としては軽い何かを取り出す類のものだったのに、ポロスの前に取り出されたのは、先にこの監獄へ忍び込んだアルセンだった。その体は弛緩して、見開かれた目に生気はない。開かれた狼の口からは舌がだらりと零れている。呼吸に合わせて微かに動く様子から、目を開けたまま気を失っているのだろう。
獣の血の濃いアルセンの体は大きい。目の前の男も身長は高いし肩幅があるが、手足も腰も細くてスラリとしている。どう見たってアルセンの方が幅があるのに一体どこに隠していたのか。しかも、筋肉質で重量があるアルセンの頭を片手で掴んでぶら下げるなど、腕力も握力も、人間のそれとは思えない。
けれど、ポロス達の心胆寒からしめたのは、そのような物理的なものではなく、ポロス達の方へと延びる男とアルセンの影だった。
アルセンはピクリとも動かないのに、その影が暴れ藻掻いているのだ。
ポロスの視線が影とアルセンを行き来する。
だらりと垂れてピクリとも動かないのアルセンの両手両足と、掴まれた頭に手を伸ばして足を大きくばたつかせている影の姿を。
「どうかしたかね?」
男が笑う。尋ねる声は心地よく、アルセンの頭を掴み片手でぶら下げているというのに、友好的であると錯覚しそうになる。
「あ……悪魔……」
そうつぶやいたのは、誰だっただろう。
アルセンを掴む悪魔の影の手に力が籠もる。
ぐにゃり。
まるで粘土細工のように歪に掴まれた影のアルセンの頭部がゆがみ、まるで絞められた魚のように、アルセンの体が影も肉体も同時にビクビクと痙攣した。
「にっ、逃げろ! こんなの、勝てるわけがない!」
「どっ、どっちに!?」
「まっ、前だ! いけ、いけぇ!」
ポロスが叫ぶ。仲間も叫ぶ。
弾かれたように走り出す先には悪魔が優雅とも見える姿勢で佇んでいる。しかし、通ってきた通路は扉が堅く閉ざされ、開かれた扉は悪魔の背後にしかない。
悪魔を割けるように二手に分かれて走る冒険者たち。
冒険者たちの選択に、悪魔――アモルはやれやれとばかりに肩をすくめて、掴んでいたアルセンを離した。
それが引き金になったのだろう。
「あああああ!!!」
恐慌状態に陥った弓使いがアモルに向かって矢を射かけ、タンクが盾を構えたまま進路をアモルへと変えた。
それが死への突進とも知らずに。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
ポロス「濃霧調査で監獄に侵入したらサ、変な男に出くわしたンだワ。ヤベー」




