一 匙分の命
大気には重さがある。
温度が違い、密度が違い、その特性は同じではない。
軽快で高圧的な熱い空気に頭を押さえつけられて、重く湿った大気が雨の涙を流すように、性質の違う大気同士はそう容易にはまじりあえない。
それは霧とて同じこと。ましてそれに意識があり、人の生命を集めることで力を得たならなおのことだ。
――オオオオオオォォォ。
運河のほとりにある監獄要塞で、霧の魔物が互いを喰らい合っていた。
自分こそが勝ち残るのだという明確な意思は、水の粒子を含んだ空気に過ぎない霧を、まるで確固たる肉体を持った生き物のように確立し、6体もの妖霧が絡み合い、喰らい合う様子はまるで蠱毒の壺のようであった。
――命血晶、ここに成りましてございます。
やがて、全ての妖霧を併合した最後の妖霧がアモルの前に膝を付くように小さくわだかまった。
「これに」
――はっ。
アモルが差し出す小さな瓶に向かって、最後の妖霧はキリキリと渦をまく。それは竜巻のようでもあったし、身を絞り上げるようにも見えた。
アモルによって召喚された6体の妖霧はパテッサの街を満たし、人間たちからわずかずつ生命力を集めて回った。人間一人から奪った量は自然に回復可能な程度だが、パテッサの民2万人分を統合すると、数百人の命にすら匹敵する。6体が集めた生命力を、妖霧は互いが喰らい合うことで一つの個体に集約した。
後はこれを濃縮し、アモルの掲げた瓶へ注ぐだけでいい。
これが妖霧の最後の勤め。
低級な妖霧が体の内に取り込んだ生命力を、己の意思だけで切り離すことはできない。奪ったものは奪われることでしか、手放すことができないのだ。
「ご苦労」
「もったいないお言葉!」
アモルのねぎらいの言葉に、妖霧は歓喜の声を上げる。この一言を頂くために、この妖霧はパテッサの街を漂い生命力をかき集め、仲間たちとの喰らい合いに勝ち残ったのだ。
パチン、とアモルが指を鳴らすと同時に、最後の妖霧の核が割れ、その体は本来の霧と化して消え去る。残ったのはアモルの持つ瓶に溜まった匙1杯程度の液体だけ。
最後の妖霧は集めた生命力を凝縮し、アモルに屠られることによって命血晶として物質化した。
妖霧の死により完成する命血晶。
自分が最後に死ぬことを当然、妖霧は知っている。彼らにとって生と死の概念は、人間とはおおよそ異なるものなのだ。召喚されて受肉を果たした肉体は、人間の世界における仮初の物に過ぎない。それを壊され死を迎えても、魔界に戻るだけなのだ。
特に妖霧のような低級の魔族にとっては、生も死もなく意思もなく、ただ魔界を漂い続ける永劫の時間は、意味も価値も自我さえもありはしない。こうして主に呼び出され、肉体を与えられて初めて意思を持ち、命令を与えられて初めて己の存在に意味を見出せる。主の役に立つことは、存在意義そのものであり、本能といっていい。
そして、最後の1体として与えられた使命を果たし、ねぎらいの言葉を頂くことは、震えるほどの歓喜を与えるものなのだ。
その感覚を、喜びを、アモルは身をもって知っている。
かつては彼も電子の海に構築されたおぼろげな存在だったのだから。
(良い出来だ。これならきっと、美味しいとお喜びになるだろう)
アモルは手にある瓶を満足そうに眺める。
一滴が万人の命に相当する命血晶は、水銀のように球体を形成し、透明な液体であるのに虹色の光を放っている。
ゲーム的な表現に経験値を稼ぐというのがあるが、それは即ち他者の生命力を奪うということだ。一方で、生命力というのは食べて休めば回復する。
一人二人の生命を奪ったとして大した量にはならないが、それが街という単位であればどうだろう。健康体であれば食べて眠れば一晩で回復する程度、例えば数%に過ぎなくとも、ここパテッサの住人2万人から徴収すれば、数百人分の生命力だ。ゴブリン程度の微弱な生命力でもそれだけ集まれば、トゥルー・ヴァンパイアのような高位魔族さえ満たせる贄になりうるのだ。
これを毎日繰り返すことで、相当量の生命力を集めることができるだろう。それも、あまり人間を殺さずに。
この計画の欠点は、時間がかかることだろう。パテッサの他にも条件の似た街でも同様に命血晶を集めているが、それでもソフィアの冠位が上がるのに一月近くかかってしまう。これだけの時間をかけるのだ、悪魔が自分の為に行うならば、魂を手に入れたほうがよほど効率がいい。
しかしヴァンパイアのソフィアの場合、魂は使えない。いっそパテッサの街の住人を一夜のうちに滅ぼしてすべての命をソフィアに喰らわせたなら、それだけでソフィアの冠位は上がるだろう。しかし、あのいつまでたっても人間臭く善良なソフィアがそんなことを許すはずはないし、もしも、了承したとして、悪魔の対となる存在が、粛清に訪れることは明白だ。
だからアモルは慎重に計画を進めてきた。
(あと1週間もあれば、ソフィア様の冠位も上がる。最終段階にはまだ遠いが、それでも次の冠位にさえ上がれば……。もう少しだ。っと、そろそろソフィア様のお支度が整う頃合いか)
夜明け前、ソフィアが眠りに就く前の、二人だけの語らいの刻。その至福の時間に遅れないよう、アモルは夢幻回廊で屋敷へ戻ると、ソフィアの為に選んだワインのグラスに、命血晶を溶かし込む。
「今日のワインも美味しいわ」
そう言って、ソフィアは笑ってくれるだろうか。
その一言がアモルにどれほどの歓喜を与えるか、ソフィアはきっと知らないだろう。ソフィアが人間の飲食物を美味しいと感じるために、アモルがどれほどの労力を払ってきたかも。
ヴァンパイアは本来、人間の食事の味覚を感知できない。嗜好性の高い食品の場合、わずかに感じるようだけれど、普通の食事、特に固形物は砂か粘土を食べているように感じてしまう。
『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』には食事の要素が含まれていて、ヴァンパイアはワインが主食だった。ソフィアは時折、お茶会で菓子やお茶も愉しんでいたから、ここがゲームの世界だと錯覚させるために、食事問題の解決は必須事項だった。
味を感じないのは必要な栄養が含まれていないからなのだろう、というアモルの予想は正しく、血液を混ぜることで、ソフィアに味を知覚させることができた。けれども間接的に採取した血液は弱く美味しいと感じさせることはできない。地下の加工場は、ソフィアに美味しい食事を提供するための、アモルの献身だったのだ。
結局、地下室はソフィアに見つかり解体することになったけれど、あそこでの実験からアモルはいくつかの知見を得た。その成果と言えるのが、この命血晶だ。これにより、食事だけでなく、今まで戦闘で少しずつ集めていた生命力の問題さえも解決できた。
「ソフィア様、本日のワインをお持ちいたしました」
「ありがとう。……いい香り。今日もとても美味しいわね」
ソフィアのいつものねぎらいに、アモルは笑みを深めてゆるゆると尻尾を振る。
(あぁ。その一言が、どれほど私を舞い上がらせるか、貴女はご存じないでしょう。この時間を永遠のものとするためならば、どれほどの犠牲もいといはしないということなど……)
悪魔の瞳が紅に燃える。魂さえも見通すその瞳は、主であるヴァンパイアの器が満たされて行く様を、うっとりと見つめていた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
アモル 「街中から生命力集めて、今日もこっそり盛るで」
ソフィア「うまっ」




